##1月13日(月)
佐藤くん病欠につき今日は久しぶりに休日に一人という日で、昨日が忙しい日だっただけで今日も忙しい日になるんじゃないかと思い、そうしたら少し緊張するようだった、いざ始めてみればたしかに忙しめではあったが忙しめの店でチャキチャキと働くのは気持ちのいいものだったし、オーダーが重なったときに少し慌てるような心地は新鮮で、初心に戻るというのでもないけれども、スタッフたちがきっと感じるような感情を感じて、そうだそうだこの感じだ、と感じることは大切なことだとも感じた、いい時間だった。
夕方に山口くんが来たときはまだだいたい満席というふうで、今日もこのまま昨日のように突っ走ってくれ、と思いながら、立ったり座ったりしながら働いた、座っている時間はスプレッドシートを触っていて売上シートの改善だった、なぜ今? バカなのかなと思いながら、COUNTIFSを使っていろいろがパッパと出るようになった、デイリーの進捗というか、目標値とのギャップの変化がすぐにわかるようになった。なぜ今?
内沼さんから連絡が来て『読書の日記』のことだった、突然、佳境に入った感じで今週中に一気にいろいろが進む、というか進める、ということで、僕もInDesignを開いて少し作業した、店は、どんどん空席ができていくだけで、新たなお客さんはぱったりとなかった、西野くんが来て、だから僕は3人目の余剰の人間になったから仕事を切り上げて客席で本を読むなり、ドトールに行って仕事を続けるなり、どうしようか、と思いながら漫然と過ごしていたらずいぶん時間が経ってしまった、9時半くらいになってやっと、いろいろを諦めて、席について本を読むことにした、アイオワの日々も今日でおしまいになるだろう、西野くんにつくってもらおうと、ジントニックと鶏ハムのサンドイッチをお願いした。
ホテルの前でベジャンとロベルトが立ち話をしていた。呼び止められて、さっきの映画どう思った? とベジャンに訊かれた。
私はなんと言おうかと迷ったけれど、映画としてはそんなにおもしろいと思わなかった、けれどもなぜ笑うのかとも思った、と応えた。あの映画はモンゴルの伝統についての映画なのであのように笑うべきではないのではないか、私は少しuncomfortableでした。
日本語でもそうだが、不得手な言語で、他者への非難めいた感情を表すのはなおさらおっかない。だからこれまで思うところがあっても言えなかったり言わずにおくことは多かった。このときも言いながら自分で言っていることがどういうネガティブさを持つのかわからなくて結構不安だったのだが、ロベルトは、自分たちもいまそのことについて話していた、と言って、私はそれがとても嬉しかった。ただそれだけなのだが、このやりとりはアイオワで交わした会話のなかで忘れがたいもののひとつだ。
滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』(NUMABOOKS)p.236
真剣さ。誠実さ。けっきょく小説であろうと日記であろうと滝口悠生の文章が見せてくれるこの姿勢は変わらなくて、そういうものが現れるたびに胸が打たれる。アラムはアメリカで見かけた不寛容や冷淡さに対して、どうして、と思った。
アラムの向かいでその話を真剣に聞いていたのは学生のナオミで、アラムは、自分は非難しているのではなく、本当に、ただ、わからないのだ、と言った。どうして彼らはなにもなかったように自分の仕事を続けられるのか?
そこからアラムの話は経済の話、というか結局金がものを言う、金でひとが動く、ということを嘆く方に動いていった。その推移の文脈を私はきちんとは追えていない。
ナオミは、アラムの話を聞いて、彼女の考えを述べた。世界中から来たライターたち、それも自分よりずっと年長のひとたちのなか、アメリカの学生を代表するような状況で、彼女がアラムに示した正直で真摯な返答と、そこから少し続いたアラムとの応答を、私はそばで見届けた。それも日本語ではうまく書けないが、ナオミが自分の考えを自分の言葉で話していることはよくわかった。英語がわからなくても、言葉を発する意思の様相はわかる。そしてここでは、ほとんどそれだけが頼りだった。他者への選択的な無関心や冷淡さ、そうなる理由、東京も同じだと思いながら私は彼らの話を聞いた。
昨日はピッツバーグのシナゴーグで銃の乱射事件があった。
同前 p.256,257
正直さ、真摯さ、素朴さ。
この三か月は夢を見ていたみたいだ、とカイが言った。その通りだ、と思った。
Literature is great とアラムは言った。その通りだ、と思った。
文学はすごい。日本語で書くのがためらわれるほどの素朴なその言葉とそれを受けての感慨を、その晩のアラムの表情と声を覚えている私は、リアリティのあるものとして響かせることができる。
同前 p.275,276
今日もずっとだらだらしくしくと涙を流しながら読んでいた、サンドイッチが運ばれてくるときも止まらなくて、西野くんのほうを見ないようにした。読み終えて、外に出て、お出しするときに間延びした声を出すことの有用性を西野くんに説いて、説いてみると、あー、すごいそれたしかに、という体に響いて伝わる感じがあってうれしかった。そのあと山口くんといくつか情報共有的なことを話してから、アイオワ日記、読み終えた? 読み終えたんだけど、もう昨日も今日も涙が止まらなくてさ、と話していたらまた涙ぐんだ。それから読書会の日の滝口さんのことを山口くんが言い出して、滝口さんのオーダー取り能力、やばかったですね、となって、「帰ってからも、あれはいったいなんだったんだろう、としばらく考えてました」みたいなことを言った。
サンドイッチだけではお腹は埋まらなくて家に帰ると昨日のスープと、遊ちゃんが日中にこしらえたキャベツとお肉のおかずをいただき、12時を過ぎて洗面所にこもり、ウイスキーを飲みながらねんそうくんと電話でいろいろ相談。
寝るまでは『大阪の宿』。明け方、トイレで人と鉢合わせた、「三田を見ると一層驚いて頭を下げた。長襦袢にしごきをしめた姿は背丈をなほ高く見せた。直ぐに三番の襖の中に消えたのはおみつだった」、一緒に小舟に乗ったおみつだった、三番の部屋に泊まっているのは好色な中年男だった。
三田は部屋にもどつて又床の中にもぐり込んだ。昨夜夜中に野呂達が帰つて来た気配は知つてゐたが、うつゝながらも聞いた人声は野呂とお米のものだつた。それで安心したわけでは無いが、直ぐに又眠つてしまつて、おみつが泊つてゐようなどゝは微塵も考へなかつた。矢張売物だつたのかと、兼々一分の疑を残してゐた事がはつきりとわかつたが、それにしても余り無雑作なのが腹立たしかつた。仕立物を頼んで、それが出来上つて持つて来た時が初対面で、二度目が洋食と活動で、それでもう万事済んだのか。いくらなんでも、ゆとりが無さ過ぎる。詩が無い。遊びが無い。なんといふ簡単な取引なのだ。しかも其の取引のきつかけをつくつたのは、蟒が酔払つて見ず知らずの野呂の頭に酒をぶつかけた事に始まり、仕立物ならおみつに頼んだらよからうと冗談に云つた自分の言葉も重大な役目をつとめたのだ。さう考へると、三田は世の中の一切の事が馬鹿馬鹿しいやうな心持になつた。
水上滝太郎『大阪の宿』(岩波書店)p.135,136
なんだか胸がきゅーっと切ないような、物悲しい気持ちになった、物哀しいだった、すごく哀しい、と思って、人生の中でちょいちょいと起きる取り返しのつかない場面、そのことを思って、こんな哀しい気持ちは嫌だなと思って今日はもうやめようと、閉じて、遊ちゃんにしがみつくようにして寝た。
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##この週に読んだり買ったりした本
滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』(NUMABOOKS)
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今福龍太『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(みすず書房)
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エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アラン・イーグル『1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え』(櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)
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武田百合子『武田百合子対談集』(中央公論新社)
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