####千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社)
2018年11月16日
そのまま閉店。なんだったんだろうか今日は。12時前には片付けも終わり、夕飯。『茄子の輝き』の話をして、前に通じるものを感じたと言った山口くんの小説の話をした、どちらも、やさしいというか、人を悪者にしないところに留まろうとする意志というか、留まるではないか、むしろ悪者にしないために想像の手を伸ばそうとする意志というか、そういう、だからそれは僕はやさしさで、そういうやさしさがあると思ったし、どちらも連作短編集的な形の小説で、僕は『茄子の輝き』の記憶も山口くんの小説の記憶も似た形で記憶されていてそれは小説内での位置とは関係ない、どのあたりのページというのでは全然ない、というかそれは覚えていられない、もっと漠とした、もっと大づかみの、自分の記憶みたいな記憶のされ方をしていて、それはなんでなんだろうね、という話をした、話していたら、時系列がバラバラで描かれる小説というのはその形はもしかしたら時間がまっすぐに進む小説と比べてより記憶の形に近いのかもしれない、ひとつのエピソードがあって、そこから波紋が広るみたいな形で記憶がきっとあって、またひとつの点、波紋、そういう、そもそも記憶に似た形の小説を読んでいると、自分の記憶みたいな記憶の仕方を読む方もしていくのかもしれない、と思った、言った。
帰宅後、千葉雅也。「美術史にブラックライトを当てること——クリスチャン・ラッセンのブルー」。最初の水槽の話からビリビリかっこよく、見ずに見る、そのまま次の「思弁的実在論と無解釈的なもの」に行くが、頭が追いつかないのでやめて、その次の「アンチ・エビデンス——九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」に。
何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と。
どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。
千葉雅也「アンチ・エビデンス——九〇年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」『意味がない無意味』所収(河出書房新社)p.166,167
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