読書日記(158)

2019.10.20
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##10月8日(火)  マキノさんがトマトを焼いて僕が人参を切って小松菜を茹でた。それが昼でシフトを完成させて送った、2時に野崎くんが来たので出て、屋上に行って話した、どうやって始めましょうか、という相談の時間で、それは僕が決めることではもはやない感じがして野崎くんがどうしたいかですよね、ということになって来週からぽちぽちと入ることになった、一挙に、人件費が、増える、話していたらそのことを初めてちゃんと感じてそれを恐れる気持ちがわかりやすく湧き上がってきた。ちょうどいい気候で風が気持ちよくて、週末は強烈な台風が直撃するらしかった。それはどんなものになるのだろうか、どんな週末になるのか、どんな10月になるのか、どんな秋になるのか、どんな冬を迎えて春はどんな顔を僕はしているのか、原稿はいつ書き上がるのか、今日は原稿は書けるのか。1時間くらい話して屋上から下りて、2階でというかフヅクエの前でマキノさんを呼んで、阿久津です、よろしくお願いします、と言った、ふたりも挨拶をしていた。一気にこれで、シフトが過剰に埋まるような状態になって下北沢が始まるまで、どうやって回していくんだろう、年明けからは森奈ちゃんが合流してそれでおそらく2店分がおおむね埋まるというか回せるくらいの人員にはなる、だろう、きっと、となったときそのだから4ヶ月のあいだか、4ヶ月のあいだというのは本来2店分いる人をひとつの店で受け入れるというか押し込んで営業をすることになるけれどもそれはどういうことなのだろう、山口くんやマキノさんや佐藤くんが、これから入ってくる人たちに教える、というそういうことにもなってくるというか、そうなるだろう、そうじゃないと僕が教えるということになると厨房の中に無駄に3人いるみたいなそういう、さすがに光景としておかしい、そういうことになってしまうからそれを避けるのは僕が席を外すということで、そういう場面がこれから生まれていくというか生まれていかないといけない、ということだった、野崎くんと路上で別れて僕はドトールに行った、野崎くんはここらを散歩するということだった、ドトールに入ると得意のドトールカードでピッと会計を済ませて、野崎くんにSlackへの招待やシフトボードの招待やDropboxの共有やそういうことをいくつかやって「人件費」と考えていた。原稿を書く頭にいつなるか。
これから、時間がつくれるようになるはずで、そうしたら原稿にひたすら費やすことができるだろうか、ねんそうくんとのCDのことも完全に僕で止めてしまっていて、ちゃんとしないといけない、『読書の日記』の次のやつもこれからきっと佳境だろう、佳境といっても僕が担うことがこれからどれだけあるかわからないが。下北沢店の内装や、準備は、どれだけ大変だろう、借り入れの書類の用意はやはり面倒だろうか。とにかく今は原稿だと思うが原稿に向かわずに日記を書いている。
本を読みたい。昨日岸政彦のツイートで見かけた又吉直樹の新作が、そのツイートを見たら俄然読みたくなって、それから阿部和重の新しいやつも読みたい、最近は本屋に行っていないから行ったらまた別の読みたいものも現れるだろう、昨日ツイッターで見かけた(ツイッターで見かけてばかりだ)『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』という本もまた読みたくてなぜなら他者と働いているからだ。
低廉譲渡
あきらかに簿価よりも安い価格で
もう金はぶっこんであって
もう開発の仕事は僕が全部
うちで受けて、売上もレベシェアにして、株も持ってるから、こっちは、コミットしやすいですから
もう一個が、SEOの会社
26歳で社長やってるやつがいるんで、
それも、レベシェアだし、それで株を譲渡する
アクセンチュアとトーマツの内定もらってるやつで優秀なんですけど
でも社長になりたいからベンチャーに入って
売上が20億で、絞って絞って純利が7千万だそうで
SEOの会社ですよ、Webマーケの会社
勢いのありそうな会話がドトールでおこなわれていた。ドトールで聞くこういう話は金の話だけなんだよな。喜びとか、美しさとか、仕事におけるそういうことについては、どういうふうに思っているのだろう。聞きたくなくなってイヤホンをして、原稿を見始めた。
イ・ランを聞いていて、今度は左隣りの人が、最初からずっといろいろと荒々しかったがマウスを、一秒間に4回くらいだろうか、クリックしまくり始めてなんの作業をしたらこんなにクリックする必要が生じるのだろうか。マウスのクリック音は本当にしんどい。かなり音量は上げていたがそれでも突き破ってきて振動すら感じる、なんもかんもうるさい。スマホを置くのもうるさいしなんもかんもうるさい。ぶん殴りたくなる。何度か牽制の意味を込めるみたいな見方でそちらを見た。原稿は少しだけ進んだ、千字くらいだろうか、かなり調子がふざけていた、使えないかもしれないがそれでもなにかが書かれることに意味があった。
7時ごろ店に戻ってマキノさんは本を開いていた、「なんかあった?」と聞くと「なんにもなかった」ということだった、それはなによりだと思って、あとで見えたその本は「ポケット詩集」と書いてあっただろうか、いいね、と思って、仕事中に詩を読むというのは、それはいいなあ、と、これは僕が言うとすぐに皮肉とかあるいは反語的なものになりそうだけど単純に、それはいいなと思って、8時に上がっていった。暇だった、仕事百貨を、整えることを諦めて動かしながら作っていこうというところでみんなにシェアをして、それから、というかそのときも、だからずっと、座っていた。山口くんのお土産のお菓子を食べてそれがよかった、誉の陣太鼓・武者がえし詰合せ。
外に煙草を吸いに出ると、階段に腰掛けると、建物が視界を遮るからまだ見えない路地の上、くーーくーーくーー、という喉から絞り出る息の音がしてなんだろうと思ったらエプロン姿が現れて近くのお店で働いている人の噛み殺した声で、怒りではちきれそうというそういうことで、歩いていった、うわ、嫌なものを見ちゃった、と思った。そんなふうな気分で労働をすることの苦しさを思った。知っている感情だった。フヅクエで働く人たちにはあんな思いは絶対にさせてはいけない、と思うが、させていないだろうか、大丈夫だろうか。
夕方くらいから阿部和重の『オーガ(ニ)ズム』が極端に読みたくなって今日の日中に書店という可能性もゼロではなかったはずだがそうはしなかったが、読みたさがどんどん強まって今晩は阿部和重を読みたい、と強く強く思っていて閉店したら、どこかに行くのだろうか、渋谷駅前のツタヤで、きっと十分にあるはずだった、行くのだろうか、面倒といえば面倒な道で他に可能性はないだろうか、代官山の蔦屋書店は、でも渋谷のほうがずっと近い、遅くまでやっている本屋、遅くまでやっている本屋……
でも懸念というか不安があって買ってしまったら最後、おもしろさで読むのをやめたくなくなって原稿どころじゃなくなってしまうのではないかということでそれは、避けたいことだった、だが楽しみはほしかった、難しいところだが週末に台風は来るのだろうか、言われているようなものであったら店どころではないからそこが原稿のところということだろうか、あるいはそここそが『オーガ(ニ)ズム』に耽る時間になるのだろうか、店がまた心配になるのだろう、様々なものが無事であってほしい。
認知症というと、脳の病気なので、記憶していた情報を忘れてしまう、というイメージがあります。ところが大城さんと話していると、失われるのは情報としての記憶というより、あるいはそれにとどまらず、体の運動や感覚に関する記憶までをも含んでいることを実感します。
先の日付の分からなさもそうです。失われたのは「今日が何年何月何日何曜日か」という言葉で表現することが可能な情報だけでなく、それに対する実感の部分なのです。情報は人に訊いたりスマホで確認したりすることによって補うことができます。けれどもこの実感の部分は、あくまで主観的なものです。そうした方法によっては取り戻すことができません。
本書のタイトルは「記憶する体」ですが、まさに「記憶するものとしての体」を無条件に前提にすることができなくなるのが認知症です。 伊藤亜紗『記憶する体』(春秋社)p.258
原稿には行かなくて『記憶する体』を開いた、若年性認知症の方のエピソードでドアノブの操作を手が間違えるであるとかテレビゲームが全然上手にできなくなったであるとかエスカレーターに乗るときに構えがとても必要になったであるとか体が勘を取り戻さない、そういうものとしての認知症のことが書かれていて認知症というものを初めてぐわっと強いリアリティとともに感じた。このあとのこの男性の、記録が記憶を呼び起こさないことを逆手に取った方法がまた「わあ」というもので、「わあ」、と思った。閉店した。急ぎ足で飯を食って自転車に乗った。タイヤを押したら空気がゆるくなっていたが、構わなかった。漕ぎ出して、夜だった。走りながら代々木公園のわきというのか神山町とかの通りの一本向こうの代々木公園やNHKのわきの、エネオスとかチーズスタンドとかのある通りを走るときは前もそうだった気がする、なにか口が歌を歌うようになっているみたいで「バカみたいなカフェで/つまらない話をしてる/それがどうした」というような歌をずっと歌っていて山崎まさよしバージョンで歌っていた、なんだか胸に響くメロディが生み出されていたような感触があって山崎まさよしバージョンというのはどういうことだったのか、舌を上の歯の裏のあたりに置いてもわっとこもらせて歌うということを山崎まさよしバージョンと言っているようなのだがそれがどれだけ山崎まさよしなのかはさっぱりわからなかった、坂を上がって、区役所の前のところが大々的に工事をしていた、それにしても店から真夜中にほんの10分や15分自転車を漕いだら渋谷のど真ん中に行くというのは、なんだか不思議なというのか、都会、だなあ、と思って、上がった分だけ坂を下った、坂を上がらずにまっすぐに行ってセンター街を抜けるというのが一番近くはないだろうか。多分そうだろう、ただなんとなく、センター街を抜けるよりも坂を上がって下りたかったしまっすぐ行くことは帰りも同じ道を通ることになると勝手に思い込んでいて、実際はそうではないのだがそう思い込んでいて、それを回避するためにも坂を上がって下って、パルコの前のところで若い人たちが地べたに座っていた、西武の横を通ってだんだん明るくなっていった、人は少なかった、人は意外なほどに少なく、ツタヤの前の通りも工事をしていた。
エレベーターに乗って6階の本屋というか本売り場に行って、最初どうしてだかビジネス書のコーナーに入った、面で陳列されている本が見事にどれも癖がついてぺらーっと開いていて暗い気持ちになった、大事にされていない本たち、というそういうふうに見えた。乱雑に見えた。目当てのものが見当たらず、おかしいな、と思ってひとつ裏に出ると、あった、大きく展開されていてニューズピックスの本というのはもてはやされているのだろうか、それで『他者と働く』を取って、小説コーナーに行った、赤いその本があったので取って会計をして、出た。帰りは109を左手に見てヤマダ電機があってかつてブックファーストがあった今はなんだったか、フォーエバーのやつだったか、のあいだのところでそのあたりまで来るとほっとするところがあった、ほんの数百メートルしか離れていないだろうけれどフォーエバーのところくらいから「見知った渋谷」という感覚で、丸善ジュンク堂があって神山町になって、すぐに馴染む気持ちになっていった。
コンビニでつまみと酒を買って家に帰って、夜に『オーガ(ニ)ズム』を読みたい今日読みたい閉店後に渋谷のツタヤだろうか面倒だしかし読みたいというようなツイートをしたら著者ご本人から「Let's Go!」というリプライというか引用リツイートが来て、「そんなんそりゃレッツゴーだわ」と思ったところもあった、レッツゴーを果たしたので、本の写真を撮って「「Let's Go!」してきました」とツイートして、それで読み始めた、2時だった、お・も・し・ろ・い、と思いながら4時ごろまで読んで寝た。
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##この週に読んだり買ったりした本
保坂和志『読書実録』(河出書房新社)https://amzn.to/2nFdWFy
伊藤亜紗『記憶する体』(春秋社)https://amzn.to/2V3mWAH
阿部和重『オーガ(ニ)ズム』(文藝春秋)https://amzn.to/2LZu7qI
宇田川元一『他者と働く 「わかりあえなさ」から始める組織論』(NewsPicksパブリッシング)https://amzn.to/35jnkzG
ミズモトアキラ『YURIKO TAIJUN HANA 武田百合子『富士日記』の4426日』(HERE I AM)https://www.akiramizumoto.info/category/column/fujinikkinikki/