今日の一冊

ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房)

2018年9月22日
それでユーロスペースに向かって、途中、コンビニに寄ってビールを買った、三宅唱の『きみの鳥はうたえる』を見ようとしていた、三宅唱の映画はビールを飲みたくなる、一年前の夏の『密使と番人』のときもそうだった、ビールを飲んで、最前列で見たい、一年前もそうした、そう思ってビールを飲んで、飲み終えてからエレベーターに乗った、エレベーターで同乗だった人が僕の前でチケットを買おうとしていて受付の人に「現金だけになります」と言われていて、つまり彼女は現金を持っていなかった、上映10分前だった、もうあまり時間はない、僕は、つい、あ、出しときましょうか、と言いそうになった、言ってもよかったのだけど、なんだかそれじゃナンパみたいになっちゃうよなというところもあったし、それは嫌だったし、終わって感動している余韻に浸っているなかで知らない人とコンビニまで歩いてお金をおろしてもらって返してもらってとかするのも嫌だなと思って、なにも声は発さなかった、それでつつがなくチケットを買い、Aの9、それは最前列のど真ん中、そこに座った。『エコラリアス』の最初を読んだ。

感嘆の叫びが生まれた瞬間から言語は存在しうるが、その逆はない。叫びの可能性を認めない言語は人間の言語ではあり得ないだろう。おそらくそれは、間投詞やオノマトペ、そして人間ではないものを人間が模倣する時ほどに、言語が強度を持って存在する場所が他にないからだ。言語は、それ自身の音から離れ、言葉をもたない、あるいは持ち得ないものの音、すなわち動物の鳴き声、自然や機械の出す音を引き受ける時にこそもっとも言葉そのものになりうる。そしてその時、言語そのものを越えて、言語は自らの前にありその後に続く、沈黙、非言語に自らを開く。自らが発することのできないと思い込んでいた、異質な音を発することで、言語は本来の意味で「exclamation」、つまり「外への呼びかけ」(ex-clamare, Aus-ruf)として理解されうる。言語の外へ、または言語の手前に、人間のものではない言葉の持つ音の中に、かつてそこにいたという記憶を思い出すことも完全に忘却することもできないまま。 ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房)p.19

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