「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。予感と徴候とに生きる時、ひとは、現在よりも少し前に生きているということである。 これに反して、「索引」は過去の集成への入口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。余韻と索引とに生きる時、ひとは、現在よりも少し遅れて生きている。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)p.34