読書日記(150)

2019.08.25
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##8月13日(火)  雨が降っているよ、と遊ちゃんが教えてくれて、予報はどうなっているの、と聞くと曇りとあって、もう少し寝たら、きっとやむよ、と言って、あと15分寝て、起きて、どう? と聞いたら小雨になってきたとのことだった。俺の睡眠が雨を弱めた。最近そういうことが少し、できるようになってきた気がする。すごいねえ、と遊ちゃんは感心した様子だったが、N国が、と話しだした。遊ちゃんの愛するマツコ・デラックスをN国が攻撃しているらしく、それで胸を痛めているらしかった。N国ってなんなの、と言ってきて、NHKのなんかの団体なの、というようなことを言ったから、それはさすがにNHKにとって風評被害すぎる、と笑った。僕は「N国」を見ると「N響」を思うところがあって、これも風評被害のひとつだった。
外を見て、雨はもうほとんどない、と判断し、出た。上がっていたことがわかった瞬間に、「勝利」と口ずさんでいた。
朝から度し難く眠く度し難く体が疲れていたが、店を開けてからも頭がずっとぼーっとしていて、珍しいレベルのぼんやりだな、というレベルで今日はぼんやりしていて、グラス拭き用の布巾が目の前、視界の中にあるにもかかわらずもう一枚出していたり、そういう、軽微なぼんやりをいくつもおこなって、気をつけないと重大なぼんやりも起こしかねなかった。これはけっこう、珍しいなと、何度も思った。
わりに忙しい始まりで、夏休みというものがやはり存在するということなのだろうか、と思って、この平日のあいだにするべき仕込みがいくつもいくつもあった、その仕込みをするべき平日に、大忙しだったら、と想像したら、一瞬、途方もない気分になった。そのあと、しかし3日ある、そして山口くんもいる、と思うと、楽になるところがあって、人がいるというのは本当に大切なことだと強く感じた、これがもし一人でそれらを全部やらなければならないとなったら、途方に暮れている。
夕方に山口くんがインして、俺は今日はぼーっとしている、というありがたい訓示を述べて、交代した。いったん家に帰ろうかとも思ったがそうしたらおしまいな気がしてドトールに直行し、原稿をやろうとした。ゆらゆら帝国の「時間」を聞いた。時間が移動する。時間が逃げていく。時間がすり抜ける。時間が俺を脅す。第1部と第2部のあいだにフヅクエの案内書きを挟みたいと思っていて、それを一度InDesign上でもそういう形にしないと、次に進めないような気が、おかしいけれど、していて、どうやったらいいのか、テキストとして流し込んだらいいのか、しかし表とかもある。僕はInDesignは根本的な理解みたいなものを一切していないので、少し違うことはもうなにもできないみたいなところがあり、しかしこれは暫定的に、置くだけなんだから、と思い、案内書きPDFを1ページずつスクショして、それを配置するという荒技で乗り切ることにした、それでも、なにか時間は食ってしまって、時間はいなくなった。それが済んでさて原稿、と思ってエディタと向かい合ったが、眠気がずっと目の前に、おでこの先に、あって、頭が回らない。金曜から昨日までの4日間が毎日大忙しで、大忙しの店で一日中働いていると、なんというか、単純に時間がない、書くことに充てられる時間が単純に見当たらない、というところがあって、それはやむを得ないことだった、だから、書くことに実際的に充てられるこの時間を大切に使って執筆を進めないといけないということはよくよくわかっているが、今日ははっきりと疲れていて、一度眠ればいいのだろうか、しかし、と思いながら、また木曜日に書けばいいか、と、相変わらず後ろへ、後ろへと逃げようとする。時間が逃げていくのではなくて僕が逃げている。土曜日のあの一瞬、今なら書ける、書きたい、イメージがもう湧いた、と思ったあれはなんだったのか。今が疲れているから。
ドトールはしかし今日もドトールで最初に座った席の隣の島、斜向いに見える男性は猛烈な勢いでタイピングをしていて、二度見をしてしまった、すごい勢いだった、と思ったら仕事を終えたのか、ものすごい勢いでいろいろをかばんの中にしまっていて、動き全部がものすごい勢いの人ということだった。いかつい若い男性でスーツのパンツの丈はくるぶしくらいまでで、寸足らずですよ、と教えてあげたかった。どうしてなのか、寸足らずのパンツを見て、ソフトバンクの千賀の顔が浮かんだ。どうしてなのかさっぱりわからない。
そのあと窓向きの席が空いたのでそちらに移動して、隣の女性もまた猛烈な勢いでタイピングをしていた。がちゃぴんぐで、ひとつひとつの動きが荒い荒い、という具合で、響く響く、という具合だった。音としてもしんどいし振動としても響いてくる。いやだな、と思っていると、スマホを指でどんどんどんと3度、強く叩いた、「あれがタップなのか?」と思っていたらふたたび、3度、強く叩いて、「こわっ」と思った。「いったいなんの操作なんだ?」と思って、そのスマホはどすん、と置かれた。全部が荒い。だるい。毎回だるい。ドトールは毎回だるい。全部ドトールのせいで原稿が進まない。疲れてるからさ。疲れとドトール。肉食いたい。肉食いたい? どうだったかな。
焼き肉だ、そうだ、すぐのところに焼き肉屋さんがある、前からいつか行ってみようと言っていた、焼き肉をつつきながらビールを飲みながら遊ちゃんとおしゃべりをする光景が浮かんでそれが楽しいと思って、電話をした、そうしたら「なにその素敵な提案」というそうしようという反応で、シャワーから上がったところだから30分くらい掛かるけれども、ということで、楽しみな予定ができた、そのあいだはじゃあ読書をしよう、と『新潮』を開いて、メルツバウとXiu Xiuのアルバムを聞きながら、滝口悠生の「全然」を読み始めた。文芸誌というのはいいものかもしれないなと今号の『新潮』を読みながら、思っていて、そこそこ長い小説も、短い小説も、連載も、あって、エッセイも批評もあって、文芸誌というのは楽しい存在なのかもしれないなと、初めて思うことのように、僕が発見したことのように、思っていて、だから目当てだった「全然」を楽しみに読み始めて、いきなり読めない漢字が出てきて、小高く積まれたそれがあり、それから締機というなにか道具があり、牛がいる、読めない字は草冠に庶みたいなそういう字で、甘に続いてその文字がある、かん、なんだろうか、と思い、「草冠 庶」で調べたらサトウキビとかのことのようで「しょ」とか「しゃ」とか読むらしくだからサトウキビのことだった、甘蔗は「かんしゃ」でも「かんしょ」でもあるいはもう「さとうきび」とすら読んでもいいようで、頭の中で音が固定されない感覚があったが「かんしょ」をわりと採用して読んでいた。
ものを思いながらも、重ルの視界のほとんどは締機と甘蔗の山を往復していて、その端にときどきフジの肩や肌、あるいは足の運びが入り込む。前後左右の四本の足が、一歩、一歩、一歩、一歩、動くその順番と仕組みが、毎日見ていてもよくわからない。わからないが、牛が、いつも同じ順番で足を出し、歩んでいるのはわかる。そのわからなさへの愛着も、哀しいようにも、嬉しいようにも思えて、重ルは、ただ、わかるよ、とフジに語りかける。
もの言わぬはずのフジの声が、いや言葉が、重ルには聞こえる気がする。重ルゥ、と重ルの名を、あえて、ことさらに、呼ぶ。愛着と、撞着と、諧謔を混ぜ合わせた、のんびりした声に乗った、言葉。というか重ルの名前。 滝口悠生「全然」『新潮 2019年 09月号』(新潮社)p.155
そのアルバムが終わったので先日アップルミュージックで見つけたWhyの新譜を、聞いた、これはとてもよくて、やっぱりとてもいいなあ、と思いながら聞きながら、やっぱり面白いなあ、ひとつひとつが面白い、と思いながら、読んでいたら遊ちゃんが着いて、それが窓の外に見えたので手を振った、外に出た、焼き肉屋さんは休みで、あれ、休みだね、となった、どうしようか、あれ、どうしようか、と言っていると遊ちゃんが焼き肉屋さんを調べ始めて、ひとつあったから電話を掛けてくれて満席だった、あれ、どうしようか、わからないな、どうしようか、と僕は頭がどこにも進まないようだった、外食じゃなくてもいいんじゃない、おうちでうどんとか、と遊ちゃんが言うから、あそうか、いただいたうどんを肉味噌うどんにして食べようという話があってそれはおあつらえ向きだ、それがいいそれがいい、とスーパーで、ひき肉や、なんか愉快な肉味噌うどんにしようということになったのでトマトとパクチーと、しいたけも買って、肉味噌をつくってしいたけを濃い味で煮しめて、それでぐるぐる、という感じで食べたらおいしかろう楽しかろう、と思ってそういう買い物をして家に向かった。歩いていると遊ちゃんが阿久津くんがこういうときに「わからない」っていうのがどういうレベルでわからないなのかわからなくて焦る、ということを言って、え、なに、腫れ物? と思って、家に着いた、それでビールを開けて、話していた。ビールを開けて、話していた。ビールを開けて、話していた。僕のわからないは本当にわからないで、僕が欲望したのは焼き肉をつつきながらビールを飲みながら遊ちゃんとおしゃべりをする光景だから、それがなくなったときに前提が全部なくなるというか、次の手を持っていたわけじゃないから、選択肢が全部になる、外食なのか、だとしたらなんなのか、家で食べるのか、だとしたらなんなのか、あるいは食べないのか、全部が選択肢として出てくるから、ただわからなくて、わからなくなる。うどんという案が出たときに初めてしっくりとぴったりときて、それは楽しい、と切り替わって、楽しくスーパーにいたそれが遊ちゃんには確信が持てなくて、合わせて無理して楽しく振る舞っているのではないか、という気持ちが拭えなかった。そのギャップに僕は暗い気持ちになっていって、だって俺、楽しみにしていたのだけどな、普通に、と思って、そうしているうちにうどんを食べる、つくる、その気はとっくに失せていて、話自体はおだやかに終始して「そうだね」というところに落ち着いたが気持ちはなにか物悲しく、ビールを3缶立て続けに飲んで眠くなったので眠った。 1時半だよ、と遊ちゃんの声がして、起きて、3時間くらい眠っていたのだろうか、眠気はガンガンに頭にまとわりついていて、というか頭の芯から眠気があって、ただただ眠い、と思いながら、うだうだと眠ったり目を覚ましたりして、起きて、シャワーを浴びた、それでいくぶんさっぱりして、ウイスキーを注いで、「全然」の続きを読んだ。
あの雲が、次第に厚く大きく膨らみながら近づいてくるのを重ルは思い浮かべる。海面が遠くからだんだんと暗くなり、釜岩に影がかかる。監獄岩も暗い海面に紛れて見えにくくなる。やがてその影が海岸まで届くと、黒砂の浜がさらに黒く、濃くなって、暗い海面とひと連なりに、釜岩まで地続きになったように見える。雲が島にかかれば間もなく雨粒が落ちはじめて、あっと思う間もなく土砂降りになる。雨粒を受けるサトウキビ畑が波を打つように鳴る。家々の屋根の木の葉やトタンも太鼓を打つような音をたてる。大人たちは家の貯水槽や、水を送る桶やパイプに異常がないか気にかける。とにかく水はなにより重要だ。汚れた着物類を樽に入れて表に出す。洗濯にはスコールがまたとない機になるのだ。子どもたちも盥や桶を表に出して、遊びのようだが、それも実際になにかの足しになる。濡れるのも構わず、上を向いて口を開いているのもいる。わかる、私もそうだった。各工場では、表に干して乾燥させていた製品を慌てて屋内に取り込んでいる。タバコにコカに、レモングラスにデリス。蒸したり干したりした様々の葉を敷物ごと抱え込むと、胸元からたちのぼる匂いにむせそうになった。漁師の家でもまた、身を開いて天日で干していた魚を慌てて家内にしまいこんでいた。島じゅうの噴気口にも雨が注がれた。噴き出た硫黄は水を受けて冷えて固まり、黄色い地層を積み重ねる。 同前 p.158
雨! という、大喜びで、読んで、ゾクゾクしながら読んでいた。もっとずっと読んでいたい。
それから植本一子の随筆を読んで、佐々木敦の「これは小説ではない」を読んだ、一人芝居は小説に似ている、とあった。『新潮』はまだ、他にも読みたいものがいくつかあって、読みどころが多かった。布団に移り、眠るまで『「差別はいけない」とみんないうけれど。』。天皇、皇后、両陛下。4時だった。
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##この週に読んだり買ったりした本
滝口悠生「全然」『新潮 2019年 09月号』(新潮社)https://amzn.to/2yNZQ6K
佐々木敦「これは小説ではない」『新潮 2019年 09月号』(新潮社)https://amzn.to/2yNZQ6K
綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)https://amzn.to/2K07q4M
ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』(筧菜奈子・島村幸忠・宇佐美達朗訳、フィルムアート社)https://amzn.to/2K4drfs
ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』(岸本佐知子訳、講談社)https://amzn.to/2JE0Pwk
長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』(Pヴァイン)https://amzn.to/2K4y0Z1
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈5 第3篇〉ゲルマントのほう 2』(井上究一郎訳、筑摩書房)https://amzn.to/2v1ZyY0