##7月4日(木)
労基署、税務署、お打ち合わせ。
起床、10時半。うどん、釜揚げ。『Number Web』、甲斐野央。コーヒー、ドリップバッグ。ハイデガー、世界=内=存在。
雨が止んで、雨雲マップを見ると太平洋側に日本列島に寄り添うように雨雲が伸びていて、東京はしばらく降らないでいてくれるだろうか、と思いながら家を出、労基署。きっと簡単な何かなんだろうけれども考えることが煩わしく、緑の封筒を持っていくと、そういう会場があり、一年分の人件費を伝えると職員の方がその場で記入をしてくだすった、感謝。来年は来ないでもできるようにと思い、パシャリとした、しかし、来年もやり方がわからなくて来るのだろう。対応してくだすった人はせっかちで空回りというか空ぶかしするような人だった。「わかってるからちょっと待ってw」と二度思った。エレベーターに乗って1階に下りようとすると扉が開いて若い男女が入ってきて、1階だと勘違いして出たら違う雰囲気だったのでギリギリで開けるボタンを押してすいませんとか言いながら再搭乗。女性が、トイレが立ってするところしかなくて手が汚れてほらこれ、手が汚れて、触ったらわかるよ、と手を男性になすろうとして男性は「やめて」と言っていて、まったくなんの話なのかわからなかった。
税務署、今度は源泉所得税の、給与の、源泉所得税の、納期の特例の、あれの、やつで、これも何度出しても毎回、忘れるというか、自分がこれについて何を忘れているのかも忘れて、税務署に赴く。そうして行ってみると、特に記入の仕方にわからないことがあるわけではなくて、記入して金融機関に持っていく紙をただもらう必要があって行っているということに、行って毎回気づく。行くたびに複数枚もらうが、半年経つたびにどこにあるかわからなくなる。見当もつかない。明らかに、店を探したら出てくる。愚かと思うが、仕方がない。仕方がないのかはわからないが、どうせ自転車でちょろっとで行けると思うと、改善するつもりが起きない。あるはずなのにどこにあるかわからなくなって毎回調達するもの。この帳票。封筒。乾電池。
そういうわけだったから税務署に行って、待っている人がわりとあった、見ると、「納付」のコーナーは待ち人数ゼロで、これは納付コーナーなのか、届け出コーナーなのか、わからんというか納付ではきっとないな、でも近いものではあるな、と思いながら、納付コーナーのボタンを押すとたちまち呼ばれて、ずる賢さ、と思いながら窓口に行った、行って、あ、あの〜、ここでいいのかわからないんですけど、みたいな呆けた顔で質問をして、書類をもらって、その場で記入して納付することもできたから、だからわりとこれは正しく納付コーナー案件だったな、ということがわかったが、先ほどの労働保険だったかなんだかの払い込みもあるから、郵便局でまとめて払うことにしてここでは帳票に記入だけして、出た。今年も愚か者。
郵便局に着いたタイミングでお打ち合わせが先方の体調不良により今日はなしという連絡を受け、けっこう体調不良のようで心配になった、全員の体調が良好だったらいいな、と思った。少しそれは、祈るような気持ちで、なにか泣きそうな気持ちがあった。
家に帰ると出ているあいだはかすかな霧のような降り方だった雨がバラバラと音を立てて降り出して、とても得した気になった。
しかし、僕の脆弱性がここで発揮され、動きがわからなくなった。電車で新宿に出る、打ち合わせをする、それから紀伊國屋書店に行って、亜紀書房の文化人類学のもうひとつのやつであるところの『森は考える』と、柴崎友香のあたらしいやつ、それから昨日滝口悠生との対談を読んだ松原俊太郎の『山山』、それを買う、買い、新宿のどこかで、いいのか怒られるのかわからないが紀伊國屋書店の2階の窓側のカウンターで、そこでラジオをやって、帰って、ジムで走って、帰って、本読んで、というそういう予定だった、しかしそれらの大半を構成している新宿行きがなくなった今、どうしたらいいのか。思考を停止させて『ソウル・ハンターズ』を開いて、読んでいた、すると読み終わって、めちゃくちゃに面白かったな、と思った。しばらくそのままいて、どうしたら、どうしたら、と思い、最有力候補はもちろん渋谷の丸善ジュンク堂に行って本を買うということだったが、渋谷ってだってさっき行ったじゃん、と思うと少し腰が重い気になるようだった、しかしそうは言っても、それら買いたい本を買えるところは丸善ジュンク堂以外にはなかった、うだうだしたのち、工程が決まった、丸善ジュンク堂で本を買う、帰りにスーパーで夕飯にスープをつくる材料と、今フヅクエになくて山口くんが困っているにんにくと氷砂糖を買う、いったん家に帰り、走る格好をして、フヅクエに行く、そこでにんにくと氷砂糖を渡す、僕はそこから西原のスポーツセンターに行く、入り口前のテーブルとかのところでパソコンを出してラジオをやる、走る、帰る、スープをつくる、本を読む。
そう決まって、だいぶ楽になった。決まった以上はそれに沿って行動するだけだった。丸善ジュンク堂に行った、それらの本と、その直前に山口くんに福利厚生本で買ってくるように言いつけられた岸政彦の『図書室』を取った、新刊台のところにあった『七つの殺人に関する簡潔な記録』が気になりやはり読みたいがいきなりまたこのどでかい本を取ったら大変だからとスルーした。『山山』を探して日本の文芸の棚のあたりにいたときに出版社の営業と思しき人が店員と思しき人に営業と思しきことをしていて、3刷りがどうとか言っていた、その営業の、それは女性だった、その話のトーンがいかにも外向きの声で、なんで人はこんな自分じゃない声を出して働かないといけないのだろう、と思っていくらか悲しくなるようなところがあった。
そんな声じゃなくて大丈夫だと思うんだよ俺は。あなたが恋人や、友だちと、話しているときと同じ声で、営業先で話していいと、俺は思うんだよ。
でももしかしたら、そういうトーンで話してしまった方が楽だということもあるのかもしれない。それはあるのかもしれない。でも、俺が書店員だったらそんなトーンで話す人のことは話半分にしか聞かないというか用途以外は一切聞かないんだろうなと思う。そして、俺は彼女が営業する相手の書店員ではないから、こんな仮定には意味がなかった。
着替えて荷物を詰めて、それは山口くんに渡すものと走るもので、詰めて、フヅクエに行った、蛍光イエローのロンTが僕が走るときの格好だった、ナイキの。それでフヅクエに行って、暇そうだった、渡し、岸政彦の話をし、それからどうしてだったか参院選の話になって、なんでもいいからあんな誠実さのかけらも品性のかけらもまったくないとしかどうしても思えない政治家の顔は見たくないよね、という話になって、選挙、いっしょうけんめいがんばろうね、という話になって、出た。
それで、出る前に思いついたのが、ラジオを、そのスポーツセンター前でおこなう、そのときにおいしいコーヒーがそばにあれば、ということで、パドラーズコーヒーでコーヒーを買っていったらいい、ということになり、それは名案だったしそうと決まったらその瞬間に「楽しみな予定」という感じになった、どこまでも自分のことは甘やかさないといけない。それでパドラーズに行って、ホットコーヒーを買って、ランニングの姿でここに入るのは初めてだった、もう何年ものあいだ知った顔の、話したりしたことはないにしても、知った顔の人たちが働いていて、そこでコーヒーを買いながら、なんとなく僕はこのあたりにずっと住んで、この人たちも同じペースで年を取っていくというそういう時間とともに生きたいな、という気がやってきた。
受け取り、スポーツセンターに着き、自転車を置き、そうしたら喫煙所が見えて、ラジオの前に一服するかな、と思ったのが間違いだった。行く前にもラジオ、一服、走る、という順序を考えたりして、でもここは別に家に帰ってからでも間に合うから、ラジオ、走る、でもまるで問題ないはずだった、でも喫煙者の血がうずいたというか、「喫煙所」と見たら吸わずにはいられないのか、いや、その前に初台から幡ヶ谷までの道の途中でこれまであった喫煙所が閉鎖されていて、それは4月からで、かつ、一週間前くらいにどこで誰にだったか配られたティッシュで知ったのだが渋谷区は4月から指定の場所以外の路上喫煙が禁止になって、今までは全面禁止なのは歩行喫煙であり路上喫煙は渋谷駅周辺や恵比寿駅周辺など限られた場所で、だから路上に突っ立っての喫煙は嫌がられるかどうかは別として禁じられていなかったわけだけど、それが4月で禁止になった、妥当な変化だった、それで、その閉鎖された喫煙所を見て、そこに立つ注意喚起の「公園内の喫煙禁止」みたいなそういうのぼりを見て、こういう禁止のお知らせ自体が汚いところがあるよな、visual pollutionというやつだよな、と思って、思いながら、自転車を漕いでいた、そしてコーヒーを買って、一口だけ飲んで、熱いしもったいないからあとにして、スポーツセンターに向かいながら、きっとスポーツセンターの喫煙所も撤去されているだろうな、まあ妥当だよな、と思って、向かった、そうしたらあってさ、あったもんで、あれ、あるな、と思って、じゃ、まあ吸おうかな、という気になったのが間違いだった。煙草を吸うので片手のコーヒーが邪魔になって、それを横にあったダストボックスみたいなところに置いた、置いて、煙草を取り出し、火をつけた、バチャン、と音がして、コーヒーはすべて地面にこぼれた、いくらかダストボックスの上のところが湾曲していて、するするする、と滑って落下したらしかった、呆れて、自分に、自分に呆れて笑って、すべて、と書いたけれど啜れるくらいは残っていたので何口か啜って、呆れた、惨めな心地と呆れた半笑いの心地が同じだけやってきて、これからラジオをやるのもなんかやる気が削がれちゃったな、と思ったが、喫煙を万事無事に終えてそのテーブルみたいなところに行き、座り、パソコンを出し、始めると、考えてみたらラジオをやっている30分であるとか40分であるとかのあいだは手はとにかくキーボードの上で動き続けているからコーヒーを飲む時間ってあんまりなかったりするんだよな、ないということもないけども、コーヒーはなくても構わないんだよな、ということはわかったが、いずれにせよおいしいコーヒーを1杯廃棄してしまったことは悲しかった、悲しかったがラジオを終えるころにはそんなことは忘れていた。ただ、忘れさせないこともあってスポーツセンター内に燃えるゴミを捨てられるゴミ箱がひとつもなくて、聞いたところ確かにないということだった、一方で缶やペットボトルを捨てるところはいくつもあった、なんでだろうと最初は腑に落ちなかったが、そのテーブルでラジオをやっていたときに他のテーブルはママさんちびっこたちで、机になにか広げて食べたり飲んだりもしていたけれど、こういうので出るゴミの量というのがもしかしたらバカにならないのかもしれない、と走りながら思った、それから、たとえばタオルであるとか、なにかで「これもういいや」となったそういうものも、ゴミ箱があったらけっこう捨てられたりして、バカにならない量になるのかもしれない、とも思った。「オンプラ」を聞いて、それから野球の中継を聞いて、聞きながら、30分走って、帰ってきた吉川光夫はノックアウト。走り終え、汗だくのまま、帰った。
走っているときに、そうだ、シャワーを浴びる際に風呂の排水口の掃除でもしたろ、と思いついてその思いつきをそのまま保持していたためそうした、強い水流でびゃーっとやって、ゾワゾワしながら、汚れというのは溜まるものだと思って、上がったらすぐにビールを開けた。
スープを作った、玉ねぎと人参とセロリとにんにくをみじんぎりにして、オリーブオイルを引いた鍋で塩をまぶして蒸し炒めにする、玉ねぎの半分を薄切り、セロリの葉っぱをみじんぎり、マッシュルーム、キャベツを適当切りにしてボウルに入れておく、じゃがいもも適当に切って水に晒しておく、鶏もも肉は適当に切ってそこらへんに置いておく、野菜たちがじっくり甘くなるまで待つため時間ができて、買ってきたハニーなんとかナッツみたいなものをつまみながら、柴崎友香を開く、この時間が待ち遠しかった、音楽を掛けた、Alex Cameronの『Forced Witness』を聞く、このアルバムがどういった経緯でライブラリに入ったのか、さっぱり覚えがない、覚えがないが、黒いサングラスの長髪のいかつい風貌の男というジャケットからは想像がつかない優しい歌声優しいメロディラインで、よくて、いいなあ、と思う、それで、読む。大阪、女たち。
沙希は、真剣な顔だった。サスペンスドラマを見て犯人を考えているような、と春子は思って見ていたら、沙希が言った。
「どっか笑うとこありました?」
「わたし、笑ってたかな?」
「うん。にやっとしてました」
「いや、なんか人と話すのっておもしろいなあ、と思って。予想外のこと、いろいろあるから」
ケーキをお盆に載せて、ゆかりが戻ってきた。
柴崎友香『待ち遠しい』(毎日新聞出版)p.37
不穏さと、親密さ。それがまだらに現れるような感触。それがずっとあって、凄い、と思った。アレックス・キャメロンのコーラスが、「あけおめ、ことよろ、あけおめ、ことよろ」と繰り返しているように聞こえる曲があって、甘い香りが部屋に漂う、よさそうだったので他の切った野菜を入れて混ぜて、肉も入れて、じゃがいもはまだにして、水を足す。もうしばらく読んで、じゃがいもを入れて、これが煮えて味を整えたら完成で、というところで、ビールが2缶終わり、買い足しに行こう、と火を止めて家を出ることにした、家を出る頃には、ビールではなく炭酸水を買ってハイボールにすることに決めていた。
コンビニで雑誌の前を通ると日中に丸善ジュンク堂でも見かけた『POPEYE』の「二十歳のとき、何をしていたか?」という特集の号が目に入って、やはりこれにはあまり惹かれないのだな、と思った。どうして惹かれないのだろうと思ったら、20歳なんてたいてい学生とか、あるいは学生じゃないにしても、なんだろうか、若すぎる、と思ったようだった。それよりも30歳がよかった。30歳のそれぞれを知りたかった。と思って、思ってから、それは多分『POPEYE』に求めることじゃないw と思った。と思ってから、「じゃないw」と思ったとき僕は『POPEYE』はだって20歳前後くらいを対象にした雑誌なんだから、みたいに思ったようなのだけど、実際、『POPEYE』というのは何歳くらいの人を対象にした雑誌なんだろう、シティボーイというのは、何歳から何歳まで。
炭酸水を買って帰りながら、ツイッターでちらっと見かけたユザーンの、ベンガル料理の本の、ことについてのインタビューの紹介のツイートで「ユザーンさんにとってベンガル料理とは」みたいな問いに対して「一言で言えないからこれだけ文字を書いて一冊の本にしたんです」みたいなことを答えているというのを見かけて、それをいつ見たのだったか、それを思い出して歩いていた。一言でまとめろという要求は言語の側にある思考で、本をつくるであるとかおびただしい量の言葉を書き連ねるというのはもう非言語の側、実践の側の行為なんじゃないか、と思った。言語を超えるということは言語を使ってもできることというか、簡単にまとめる、要約する、そういうことができる範囲を超えたらそれは非言語の行為になるのではないか。量の問題ではないかもしれない。俳句でも短い詩でも、言語は言語を凌駕できる。音楽をつくる、料理をする、刺繍をする、消しゴムはんこを彫る、それらと同じように。実践。作業。投企。
家に戻り、スープを完成させた。薄味だったので塩をどんどん足していたら最終的にはしょっぱくなった。使い慣れない塩というのは難しいというか、塩というのは使い慣れている必要があるというか、使い慣れている塩という存在は大事なのかもしれない、と思った。塩梅。ただ、しょっぱかったが、十分においしく、野菜もたくさんで、後入れにした玉ねぎのスライス、セロリの葉がいいアクセントになっていて、たくさん食べた。おかわりをした。舌を火傷した。遊ちゃんはまだ帰ってこなかった。
洗い物を終えて手を拭いた律子は、沙希の肩をぽんぽんと叩いた。
「そのころは、漫画家になってお金儲けて楽させてよ、なんて言うてたんやけど。まあ、わたしの子供やし、そんなんできるわけないのはわかってたんですけどね。なんもできへんけど、それでもうちには、この子がいちばんやから」
なんもできへん。
春子の頭の中で、その言葉は律子ではない別の声で再生された。一つではなく、いくつもの声だった。自分の声も、混ざっていた。
同前 p.78
そのあとゆかりが怒って「大谷翔平が先入観は可能を不可能にすると言っていたよ」というようなことを言っていたような気がした。可能性を、悪意なく、奪い取ろう奪い取ろうとする人たちはいつでもいる、それはとても怖い存在というかかなり脅威の存在だなと、たびたび出てくるそういう言葉に触れながらいちいちゾッとしていた。途中でストレッチをしていなかったことを思い出してストレッチをしながら本を読もうと思ったが、たいてい、できなくて、どうしたらできるだろうと考えたらヘッドセットというのかヘッドギアというのか、そういうもので目の前に固定して、という装置があればストレッチしながら読書というものは可能なようだった。しかし我が家にはなかった。
遊ちゃん、遅いな、と思いながら、特別遅い時間でもなかったが家にいるとこういうふうに感じるものだな、と思った、乾燥機が止まった音がしたので洗濯物を畳んだ。遊ちゃんの靴下の中にはたいてい靴下が入っていて、それから、遊ちゃんのパジャマのズボンを畳みながら、あれ、これってパジャマじゃなくて外で着る服だっけ、どっちだっけ、というのがわからないズボンがあって、遊ちゃんはパジャマみたいな格好をしていることがあるため、よくわからなくて、そういうひとつひとつを愛おしく感じた。
寝床に入って引き続き読んでいるとしばらくして帰ってきて「いいにおい」と言いながら入ってきた、スープを温め直して、こういうのが食べたかったの、とうれしそうに言った、おいしそうに食べた。
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##この週に読んだり買ったりした本
レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳、亜紀書房)
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フェルナンド・ペソア『アナーキストの銀行家』(近藤紀子訳、彩流社)
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イ・ラン『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)
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エドゥアルド・コーン『森は考える 人間的なるものを超えた人類学』(奥野克巳・近藤宏・近藤祉秋・二文字屋脩訳、亜紀書房)
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