####ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(鬼界彰夫訳、講談社)
2018年6月27日
コーヒーを飲んで家を出て、少しのあいだTwitterで猫の動画をいくつか見ていた、いずれもかわいかった、満足してリュックから『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』を開いた、昨日の夜、寝る前に読み始めて、編者による序文であるとかを読んだところで眠たくなり、日記にたどり着く前に眠った、その日記を読み始めた。
「しかし彼の批判は何かを助けて先に進ませるものではなく、押しとどめ、酔いを醒ますものだった」とあり、そういうのあるよな、俺もわりとやりがちな気がするんだよな、助けて先に進ませる者でありたい、になりたい、と思った。
おそらく彼が何よりも愛していたベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章について、ここで天が開くように感じる、と彼は私に語った。そして彼がこう語ったとき、それは何かを意味していたのだ。
確かにフロイトは実にしばしば間違っているし、彼の性格はといえば、多分下劣な人間かそれに近いものだろう。しかし彼が言うことの中には、恐ろしく多くのことが含まれている。そして同じことが私にも言える。私が言うことの中には、多くのことが含まれている。
私はだらだらするのが好きだ。おそらく今ではもう以前ほど好きではないが。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(鬼界彰夫訳、講談社)p.25,26
神保町に着いた、着いてコンコースというのか構内の道を歩いていると壁にはポスターがいくつもありそのひとつが「これは暴力です」という大きな文字で、3つのイラストで、人を殴る、人にものを投げつける、もうひとつは忘れた、そういうことが書かれていて、えっ、これが暴力って説明しないといけないってどういうことなの、と思った、思って、地上に上がると夏だった、ピンポイントの場所に上がれた、路地を曲がると、そのまっすぐのところにまさに行こうと思っていた餃子屋さんであるところのスヰートポーヅのファサードが見えたのでうれしくなった、ぐんぐんと近づいていく、という向かい方がうれしかった、それで入った、相席で、前の人もまだ注文の品を待っていた、餃子の定食を頼んだ、僕はウィトゲンシュタインを読んでいた、前の人に食べ物が届いた、食べ始めた、でかい口を開けて食べ物を入れるなあと、ページを越えた視界の端で見て思った、すると直後、ずずーずずー、ちゃっちゃっ、ちゃっちゃっ、と咀嚼等々の音が大きく鳴って、うわあ……と思った、まずい、目の前がクチャだ…! と思って、ウィトゲンシュタインを読んでいた、僕が食べ始めるまでに、食べ終えてくれ、と祈りながら、それにしてもずずーってなんなんだろう、中皿定食のはずだった、それに汁物は付いていないはずだった、いや付いていたかもしれないがそれとは違う気がした、その吸う音なはんなの?www 今いったいなに食ってんの?www と思って愉快だった、いや、不愉快だった、ずずー、僕のところに定食が届いた、祈りが届いたらしく食べ終えてくれたらしく、安堵した、それで食べた、うまかった。腹いっぱい食った。
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