####三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店)
2018年6月25日
あれ、これ、と仕込みをしたりしながら、とんとんと働いていた、やることは次から次へと出てくるものだった、だからそれをやっていった、落ち着いて、夜、『『ハッピーアワー』論』を読んだ、読みながら、見たのはもう、あれはいつだ、2015年の末、それから翌年年明け、2回見た、2016年1月からどれだけの月日が流れたのだろう、引き算、2年と、5ヶ月。2年と5ヶ月前に見た映画について、いまだに思い出すだけで感極まるのだから、これは本当に、僕は見たときはこの記憶の仕方、人物に対する記憶の仕方は実際の暮らしのなかでの記憶の仕方に近いというように感じていたけれど、つまりあんなことあったなあ、というような、あいつああ言っていたなあ、というような、のだけど、2年と5ヶ月後に『ハッピーアワー』を論じる文章を読んで湧き上がる感情を見ていると、それとはまた違うものだったのだと知った。こうは、ならない。じゃあこれは、なんなんだろうか。
等々思いながら、桜子が「ただ見てるだけや」と言って、そしてページをめくると2つの場面の写真が配置されていて、桜子のうつろな顔、路上でわっと崩れる夫、その2カットが写っていて、見た瞬間、涙があふれた。その瞬間、お客さんに呼ばれ、涙目で近づいていったところカフェオレとのことだったのでカフェオレをこしらえた。
それからなんでだか、なんなのか、どうしたのか、猛烈に忙しい夜になり、満席になり、満席が入れ替わり続き、という事態になり、なんだなんだ、これは、と思ったが、週末と違ったのはそこにあった顔ぶれのほとんどが馴染みのあるものだったことで、なんというか、よく、とか、しばしば、とか、そういった方々が一斉に集まったような、そういう状況だった、なんとなく安心のようなものを感じた、この週末は初めてであろう方を多く見た、でもそれも、不安を感じるようなものではなかった、しっくりくる感じが僕の中にというか店の空気にあった、だから初めての方で構成されていようと馴染みのある顔で構成されていようと、フヅクエという場と時間を享受しようという構えで来てくださった方で構成されている、と感じることさえできれば、どちらもナイスだったが、とにかく今日はそうだった、それで、バタバタ、バタバタ、終わらないぞこれは、と思いながら働いた。
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