今日の一冊

2019.06.09
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####リチャード・フラナガン『奥のほそ道』(渡辺佐智江訳、白水社)
2018年6月9日
二週間ぶりくらいに看板を外に出し、さてさて今日から完全復活だ、といくらか意気込んでスタートをしたところ、すっかり暇な土曜日となり、むしろ昨日の方がずっと忙しかったということになり、わからんものだねと思った、暇だった、仕込みもなかった、それで多くの時間、座っていた。
いくらか『奥のほそ道』を読んだ。ひたすら陰惨ななかで、食べるのはいいことだよ、というやさしい、それだけでもう十分というセリフから、この小説でいちばんあたたかい、同時にどうしたって悲しい場面になって、泣きそうになりながら読んだ。
店からは徐々に客がいなくなり、店員が掃除をし、戸締まりをして出て行った。外、通りはひっそりとして、ほんのたまに車が水たまりを走っていくだけだった。なかでは男たちが老ギリシア人にさまざまなことを語りつづけていた。夜も更けて、開いているパブは一軒もない。だが彼らは気にせず、すわりつづけていた。釣り、食べ物、風、石細工について、トマトを育てること、家禽を飼うこと、羊を蒸し焼きにすること、イセエビと帆立貝の漁について語り、たわいもない話をし、冗談を言い合った。話の内容は重要ではなく、漂って行けばそれでよく、それ自体がはかなく美しい夢だった。 揚げた魚とイモと安物の赤ワインがどれほど申し分ないものに感じられたか、うまく説明できなかった。しっくりくる味がした。老ギリシア人は、小さなカップに苦みと甘味の効いた濃いコーヒーを淹れ、娘がつくったクルミの焼き菓子を振る舞った。すべてが不思議で同時に心がこもっていた。質素な椅子でも座り心地がよく、男たちはその場にしっくりなじみ、満ち足りた気分に浸り、ジミー・ビゲロウは、この夜が続くかぎり、この世でほかにいたい場所はどこにもない、と思った。
リチャード・フラナガン『奥のほそ道』(渡辺佐智江訳、白水社)p.340
でも夜は終わる。
このあと、絞首刑の場面が描かれた。それはちょっとぞっとする、読んでいて心拍数が上がっていくようなものだった、端的に怖かった。
僕はいくらかこの小説に対して怯えているところがあるのか、食らう、という感じがあるみたいで、少し読んで、読む時間はいくらでもあったが、それ以降は開かず、ひたすらに暇な夜、先日原稿を書く仕事をいただいた、その原稿書きを、休みの日にやろうかと思っていたが、もし休みまでにやれたら、休みにもっと休めるじゃないか、ということに思い至り、書くことにして、ずっと取り組んでいた。
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