####呉明益『自転車泥棒』(天野健太郎訳、文藝春秋)
山口です。自転車を盗まれました。去年の夏、冷蔵庫を開けると青梗菜があったからです。これを豚肉と一緒に炒めて温かい白飯に乗せて食おうと思い、でも肝心の肉がないので近所のスーパーまで自転車を漕ぎ、鍵をかけずに店内に入ってしまいました。「もう俺は豚肉しか買わない」と思っていたこと。もう俺は豚肉しか買わないので一分以内に自転車に戻ってくるだろうと目論んだこと。一分以内に自転車が盗まれることはまあないだろうと世界を舐めたこと。鍵をかけるのがめんどくさかったこと。等がミルクレープのように重なり、鍵はかけられませんでした。お肉コーナーに早足で向かい、豚肉の入ったパックを素早く手に取ってレジに行くと、ここで予想外なことが起きました。店員さんの名札に『研修中』と書いてあったのです。レジスター相手に歯をくいしばり、悪戦苦闘を繰り返す店員さん。自転車に鍵をかけていないから早くしてほしい俺(かけろよ鍵)。レジスターをしっかり取り扱ったことのない僕からしたら本当にそのぐらい難しいものなのかもしれないから、というかとにかくこちらが悪いというか、店員さんからしたら「知らねえよ鍵のことは」なので、黙って豚肉の代金を右手に持ち、静かに待ちました。二年間に感じました。実際は三分か四分ぐらいでしょうか。レジスターに勝利した店員さんに豚肉のお金を渡して外に出ると、そりゃもう自転車あるわけないです(鍵をかけろ)。意味がわからずあたりをうろうろしました。あるわけないのに。こんなとこにいるはずもないのに。いつでも探しているよどっかに君の姿を。目の前に交番があったので十五秒で被害届を出しました。被害届の最後に拇印を押すところがあって、人差し指でぺたんと押すと、警察官が「それ親指とこすると取れるから」と、ティッシュの一枚もくれなくて、なんだか自転車を盗まれたことよりもそっちの方がおいおいおいと思って、「だごいらちゃあ、だごいらちゃあ(熊本弁で「とてもイライラする」の意)」と呟きながら家に帰った二十四歳の夏でした。しばらくして、中野のファミリーマートに打ち捨てられていた俺の青い鉄馬は帰ってきました。てっきり各パーツごとに分解されてメルカリにでも出品されてるのだろうと思っていたので驚きました。恋人と一緒に保管所に受け取りに行くと、おじいちゃんが七人ぐらい出てきて、うわ人件費どうなってるんだここはと思い、「ありがとうございました」と言い、家に帰りました。恋人はバスで、僕は自転車で。ペダルを漕いで、タイヤが回り、バスの中で立っている恋人に手を振って、家に向かって自転車を漕ぎながら、恋人がそのままあのバスでどこかわけのわからない土地に向かっている気がしてきて、自転車がなくなった時もそういう風に、いとも簡単に夜風に少し吹かれるような爽やかさでいなくなったものだからめちゃめちゃに怖くなってきて、大急ぎでバスを追いかけました。
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