####東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)
「「居る」を脅かす声と、「居る」を守ろうとする声をめぐる物語だ」というこの本をめっぽう面白く、それとはまた別にフヅクエのことをちょこちょこと考えながら読んでいた。
読書という行為は、具体的なアクションを考えてみれば限りなく「ただ居る」に近いもので、そのとき人は言葉を発さないし頻繁に食べ物を口に入れるわけでもないしゆっくりとページをめくりはしてもキーボードをパチパチとわかりやすく叩くわけでもなければペンをさらさらと紙の上ですべらせるわけでもないしひっきりなしに画面の上の指をぬるぬると動かすわけでもない。その挙動だけを見れば祈りのそれとほとんど同じだろう。その「ただ居るだけ」という行為は多分とても脆い。いつ壊されてもおかしくないし、その行為を守りたい人以外からすればもしかしたら得体が知れないとすら思うかもしれない。その「居る」というスタティックでフラジャイルな状態の居心地をどう好ましいものにするか。どうすれば「居る」は可能になるか。
「居場所」を古い日本語では「ゐどころ」と言ったらしい。「虫の居所が悪い」の「ゐどころ」だ。おもしろいのは、この「ゐどころ」の「ゐど」には「座っている」という意味があり、さらには「尻」という意味があったことだ。
居場所とは「尻の置き場所」なのだ。タカエス部長のテキトーな研修は深い真実を語っていたのかもしれない。居場所とは「とりあえず、座っていられる場所」のことだからだ。
こう言い換えてもいいかもしれない。居場所とは尻をあずけられる場所だ。尻とは、自分には見えなくて、コントロールするのが難しくて、カンチョーされたら悶絶してしまうような弱い場所だ。僕らの体の弱点だ。そういう弱みを不安にならずに委ねていられる場所が居場所なのではないか。そう、無防備に尻をあずけても、カンチョーされない、傷つけられない。そういう安心感によって、僕らの「いる」は可能になる。
東畑開人『居るのはつらいよ』(医学書院)p.55
僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。
同前 p.57
ずっぽりとフヅクエという場所に身を委ねられる状態をつくること。
そしてまた読書は「遊び」であり、それは極端に静かな一人遊びだ。遊びはどう維持されどう鼓舞されるか。
砂場で遊んでいる子どもを思い起こしていただきたい。彼は熱中して砂のお城をつくっている。僕らから見ると、彼は一人で遊んでいる。
だけど、ウィニコットに言わせると、彼は一人で遊んでいるわけではない。彼の心には「母親」がいる(当然のことながら、べつにこれは生物学的な母親でなくてもいい。お世話する人、つまりケアしてくれる人であればいい)。ここがウィニコットのわかりにくいところだ。少年は砂の城のことしか考えていないし、外から見ている僕らにも彼は一人で遊んでいるように見える。だけど、実際には彼の心の中にはきちんと母親がいる。それがわかるのは、彼の遊びが中断するときだ。
少年はときどき手を止めて、後ろを振り返る。後ろのベンチに母親がいるのを確認する。そこに母親がいるか不安になるのだ。すると、遊びは中断する。このとき、母親はスマホでツムツムをやっていて気がつかないこともあるかもしれないけれど、多くの場合、手を振ってくれる。すると少年は安心して、ふたたび遊びに没頭しはじめる。
そう、遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない。それが消え去ってしまうと不安になって、遊べなくなってしまう。少年は心の中で母親に抱かれているときに、遊ぶことができる。他者とうまく重なっているときに、遊ぶことができる。
同前 p.153,154
スタッフ募集の要件に「電車とか、なんかの待合室とか、公園のベンチとか、どこでもいいんですが、人が本を読んでいる光景を見るとなんとなく「あ〜なんだかいいよねえ」となんかつい思う人であること。また、「今晩はひたすら本読んじゃうぞ〜」というときのワクワクした気持ちを知っている人であること。」と書いているがきっと同じことで読書という遊びをしているその同じ場所に「いいじゃんいいじゃん」と思っている他者がいることは実は肝要で、それは店の人間が果たす役割でもあるし他のやはり同じように本を読むお客さんも知らずその役割を担っている。担い合っている。担い合って盛り上げ合ってそれでその場にグルーヴが生まれる。
「居る」を守ること。「遊ぶ」を増幅させること。
というようなことを読みながら考えている時間もあったがたいていはただただ面白くむしゃむしゃと読んでいた。
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