####マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈1第1篇〉スワン家のほうへ』(井上究一郎訳、筑摩書房)
2018年5月27日
ゆったり、しているので『失わた時を求めて』を読む。昨夜は寝る前にも読んでいたが驚くほどすぐに眠りに吸い込まれていった、今日も、営業中だが、眠りが手招きしてきて困る、面白い、とても面白い、と思いながら読みながら、いっぽうで眠気が立ち上がっている、面白い。ひとつの鈴の響きから、進んで、進んで、また鈴の音に戻るまでに15ページを要する、この戻ってきたときの喜びは強い。ということを、10年前に引かれた赤や青の線やメモが教えてくれる。また、線が引かれたところが、同じように面白かったり、もう特別面白くは感じなかったりするその変化も面白い。線が引かれたその直後がむしろ今は面白い、というようなこともあって面白い。
そののち私が正確に知ったスワンから、私の記憶のなかで、この最初のスワンに移るときには、一人の人物とわかれて、それとは異なるもう一人の人物のところへ行くような印象を私はもつのである。この最初のスワン——そんな彼のなかに私は自分の少年時代のかわいらしい過失を見出すのであるが、その彼はまた、のちのスワンよりもむしろこの当時に私が知った他の人々に似ているのであって、この人生にあっては、あたかも一つの美術館のように、そこにあるおなじ時代の肖像画はすべて同一の調子をもち、同一家族のように見えるものなのだ——
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.33
かつてのある人は、そののちの当人とよりもかつて同時代を生きた人々との方が似ている、というそれに感心した。そういうことはありそうなことだなあ、考えてみたこともなかった! という感じで。
それにしても、ママからおやすみのキスをしてもらいたい、という欲望が、微細に微細に描かれ続けているのだけれども、謀略をめぐらせた末にどうやら部屋に来てくれそうだというところに漕ぎ着けて叫ぶ「ママはたぶんきてくれるだろう!」というこの叫びにこちらまで喜びを感じ、そして失敗したことを告げる「母はこなかった」というそっけない言葉に、ああ……と落胆する、させられる、この切実のありようはすごい。え、マジで、来てくれなかったの…? と思った。この、大人から見たら極めて些細なことでああだこうだ言っているように見えておかしくなってしまうようなことを、ここまで切迫したものとして描き出すこのありようはすごい。すごい、すごい、と思いながら読んでいる。暇だ。
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