今日の一冊

2019.05.19
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####ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(土屋政雄訳、新潮社)
2017年5月19日
先日の休みの日に「今月他にどこか入れる日あったりする?」とスタッフのひきちゃんに尋ねてみたところ「今週の金曜夕方からならいけますよ」とのことだったので、金曜は忙しくなる可能性もあるしどうだろうと思っていったん保留したのだが、火曜日にやるべきことをやれなかったのでお願いすることにして、そうしたら6時に来てくれたのでそこでバトンタッチをして僕は渋谷のいつものカフェに行った。自転車が気持ちよかった。
今日はだから形としては半休だったのだけど意識としては「別の場所で仕事をする」という感覚になっていて、3時間くらいのあいだひたすら仕事というかやるべきことを真面目にやっていた。「真面目」というのをどう定義するかによるが。途中で可笑しな気分になったので両手で顔を抑えて笑っていた。
休みではなく別の場所で仕事、の意識はそのまま行動にもあらわれて酒も飲まず、11時過ぎに店に戻り、ひきちゃんが帰ったあとに少し仕込みをし、夕飯を食べ、それからやっとビールを飲んだ。 寝る前に『人生の段階』の続きを読んだ。
二年目は一年目ほどひどくないはずだ、と思う。堪えなければならない苦痛は、どれも一年目に遭遇ずみだ。だから、二年目を迎える用意はできている、と思う。二年目はただそれを繰り返すだけ、と。だが……繰り返しだからといって、痛みが和らぐ保証がどこにあるだろう。そして実際に繰り返しが始まり、私は今後やってくるすべての繰り返しのことを思う。悲しみは愛情の裏返しだ。長年にわたる愛情の積み重ねがあるのなら、悲しみにも同じことが起こって不思議ないのではないか。
ジュリアン・バーンズ『人生の段階』p.110
会場の暗さと悲しみの暗さが重なり合うなかで、突然、この芸術の嘘っぽさが消えた。人々が舞台に立ち、互いに歌い合うことがまったく自然になった。思えば、高さと深さの両方において、歌唱は話し言葉より根源的な伝達手段だ。ベルディの『ドン・カルロ』では、主人公がフォンテーヌブローの森でフランスの王女に出会い、たちまちその前にひざまずいで、「わが名はカルロ、あなたを愛します」と歌い出す。そうだ、と私は思った。それでいい。それが人生のあるがままの姿であり、あるべき姿だ。
同上p.113
私も絶えず妻に話しかけている。それがごく自然なことのように思うし、必要なことでもある。いま何をしているか、今日一日何をしたかを語り、感想を述べる。運転中に何か目につけば指し示してやり、妻から返ってくる答えを声にする。失われた二人だけのやりとりを復活させる。私が妻をからかい、妻がからかい返す。もうすべてそらんじている。妻の声は私の心を静め、勇気を与えてくれる。いま、あそこにあるデスクの上の小さな写真の妻は、表情がなんだかいぶかしげだ。だから、私は何だろうと思い、その問いかけに答えてやる。家の中のつまらない問題でも、短いやりとりで楽しくなる。あのバスマットはもうみっともないから捨てていい、と妻も同意する。こんなやりとりは、外部の目には奇妙で、病的で、自己欺瞞にも見えるだろうか。だが、外部の目とは、すなわち悲しみを知らない目のことだ。私の内部にはすでに血肉化された妻がいて、いまでは簡単に、自然に、外に投影できる。妻の不在を私が四年間も堪えぬけたのは、その四年間、妻の存在を感じていたからにほかならない。
同上p.127
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