####ジェームズ・ジョイス『ダブリンの人びと』(米本義孝訳、筑摩書房)
幸いまだまわりで誰が死んだとかそういう話はほとんどなくてだから死は日々を取り巻かないがこれが変わるのが実家だ。年末に帰ったときも家に着くと珍しく両親が不在で少ししたら戻ってきた二人は喪服姿で親戚の誰かの葬式に行っていたということだった。この年の瀬はもうひとつ親戚に不幸があったらしかった。夏には祖母が亡くなった。
その祖母が編んだ夫のつまり祖父の遺句集というものが、こたつを囲んで過ごしていると父の小学校のときの通信簿や叔父の大学のときのイヤーブックなどとともに出されて開くと祖母の前書きがあり祖母の文章をだから初めて読んだ。そうしていると若くして亡くなった義理の叔母が参加していた翻訳グループの文集というものも出てきてやはり初めて読んだ。そういうもうない人たちの思い出話は生きている人の最近の話や昔の話と地続きに自然に出てくるのが実家の団欒でとっくに会わなくなった知り合いなんかよりもここで話される死者たちのほうがずっと身近でずっと輪郭があるそういう場が実家で死という出来事自体は僕はまだそういうようには受け取れないが死者たちは穏やかにアンビエントに存在し続けている。幾人もの死者たちについて考えられ話されていたその晩遅く外に出て冷たい星空の下で煙草を吸っていたらジョイスの「死者たち」をわかりやすく読みたくなって、大学時代に読んでずいぶん面白がったはずだったし僕が持っていたのは新潮の『ダブリン市民』だった、もう何年も見かけていなくていつかなくしたらしかった。この夜に限らずふいに読みたくなる瞬間があってでもそれはほんのたまにだからすぐに忘れて思い出したときには手元になくてまた忘れる。
年が明けてしばらくが経って書店で見かけて「あ」と思ったので買った。まだ開いていないがテーブルの上のそれはずっとかすかな引力みたいなものを発しながら置かれていて見るたびに読みたいという欲望が湧くのを感じる。近く手に取るかもしれないしずっと先かもしれない。
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