####滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(新潮社)
2017年4月24日
窓の外も室内の空気もだんだんと青っぽくなっていく。誰も来ないで、背中では冷蔵庫のファンがずっと鳴っている。「でも、まずは不安に折れないことだ。思考停止して嘘をついたり、楽な波に乗らないことだ」と開いた小説に書かれていた。不安に、折れないこと。不安とはしかしこの場合いったいなんなんだろう、とは思う。この場合というのは今の僕の場合ということだ。たとえば今日誰もお客さんが来なかったとして、そのときに僕の生活は困窮するのか。僕はそれでもう食べていけないようになるのか。と言われたらまったくそうでは当然ないわけだった。なにに対する不安なのだろうか。このような日が続けば、食べていけないようになる、ということだろうか。ではこのような日が何日続いたら食べていけなくなるのだろうか。いやそういうことではないのだろう。食べていけるとかいけないとかではなくて自分が世に問うているというか、どうだ、と言っているものを誰も欲望していない、その手応えのなさ、そういうものが虚しいということだろう。不安ではなく虚しいということだろう。それとて、今日だけの話じゃないか。虚しさは、そこそこの日曜日だった昨日の晩から貼り付いている。これは何に対する虚しさなのだろうか。ちゃんと考えてしまうと行ってはいけない場所に足を踏み入れることにもなりそうな気がするので考えるのはよすことにした。もう一杯コーヒーを淹れよう。その前にトイレに行こう。そのあとに外に出て煙草を吸おう。それから店に戻ってコーヒーをもう一杯淹れて、小説の続きを読もう。滝口悠生の『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』をけっきょく読み始めた。とても心地にフィットする感じがあっていい。まだ30ページくらいなのに、次も滝口悠生を読もう、と思っている。
あれから、いったいどれくらいの時が過ぎ去ったのだろうか。いま僕は、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』を読み終えて「DeNA・須田幸太、防御率108・00からの逆襲に刮目せよ」という記事を読み終えたところだ。眠気に見舞われている。あたたかい風呂に入りたい。 夜になり何人かお客さんが来てくださり、彼ら彼女らは本を読んでいた、その姿を見て僕の心は落ち着き、安らいだ。落ち着き、安らぎながら先ほどまで読んでいた小説のことをぽんやりとした頭で考えるというよりは思っていた。いろいろな書店のブックカバーに巻かれた本が机にあった、それを何かを運んでいくときにちらっと見やったりして、落ち着き、安らいだ。落ち着き、安らぎながら先ほどまで読んでいた小説のことをぽんやりとした頭で思っていた。そこに書かれていた出来事や考え事に対してどうこうと考えるというよりはあんなことがあった、こんなことを言っていた、というそれをただ反芻していく作業という時間だった、それは心地のいいことだった。
ボールペンで書かれた荒々しい筆跡が大きくなったり小さくなったり、曲がり落ちたりしていた。変わらない房子の文字だった。時々文字の間にコーヒーのしみとか油じみがあって、それが強烈にその手紙を書いていた時間の房子の存在を感じさせた。房子がもうアメリカで死んでいて、この文字としみだけが残っているのだったらどうしよう、と思い、そう思うあたりでそれを思っていたのがいつのことだったのか、私の記憶が怪しくなる。十月に届いたはずの手紙を、あの東北の田んぼのなかで読んでいる気がしてくる。順を追って考えればそんなはずはないことがわかるのだが、順を追わずに考えるとそうだったとしか思えなくて、順番の方が間違っているのかもしれない気がしてくる。
滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』p.19,20
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