####ロラン・バルト『テクストの出口』(沢崎浩平訳、みすず書房)
2017年4月22日
朝起きた瞬間から体が疲れていてバカかと思った。昨夜は銭湯に行って体をゆっくり休めたつもりだったが、そのあとラーメンをどこかで食べようと思っていたためそれで気が焦ってあまりゆっくり湯船に浸からなかった、それが原因かもしれない。あるいはラーメンが、僕はほとんどのラーメンは、というよりラーメンというものはおいしくいただけるものだと思っているのだけど珍しいことに食べながら「全然おいしくない」と思って食べた、そのせいかもしれない。ただ腹が膨れるだけで、なんとなく気分悪い思いをしながら食べていた。もちろん野球の記事を読みながら食べていた。長い間、私は早くから床につかなかった。
私は小説が私自身の眼から見て三つの使命を果たしてくれるよう要求することはできます。第一の使命は、私が自分の愛する人々を語ることを可能にしてくれることであって(サドのように。そうです、サドは小説とは愛する者を描くことにあるといっていました)、私が彼らを愛すると彼らにいうことではありません(それでは、まさに抒情的な試みとなってしまいます)。私は「小説」に、いわばエゴティスムの超克を期待しているのです。愛する者たちを語るということは、彼らが生きたのは(そして、多くの場合、苦しんだのは)《無駄》ではなかったことを証言することです。
ロラン・バルト『テクストの出口』p.131
昨夜はバルトを読んでいた、この「《長い間、私は早くから床についた》」と「人はつねに愛するものについて語りそこなう」を読んでいた。
今日から『ハッピーアワー』のイメージフォーラムでの上映が始まる。というか先ほど始まっただろう(今は13時34分)。愛する人々を語ること。彼らが生きたのは(そして多かれ少なかれ苦しんだのは)いささかも無駄ではなかったことを証言すること。今ごろ芙美は、あかりは、桜子は、純は、どうしているだろうか。フェリーには乗ったか。接岸されていた町はもう動いたか。
暇な、静かな、どんよりとした、おだやかな土曜日で日ハムは今日も負けているらしい。5回の時点で0-6で負けているらしい。日ハムが度し難い弱さで現在弱い。昨日は0−9で敗れて、その前日は4−8で負けた。9回にレアードのホームラン等で3点返したからまだマシなスコアに見えるがそれがなければ1−8で、1−8、0−9、0−6、と、ひじょうに弱いことになっている。ここに来て投手陣が毎日打ち込まれている。打線は相変わらず湿っているというよりはなんというかカラッカラに乾いている、乾ききっている、そんな感じがする。そう打っているあいだに0−9になっていた。でも大丈夫、日ハムはきっと大丈夫。そう信じるほかない。誰よりも野球を愛して、必死になってやるしかない。栗山監督が最近何度か言っていることで、愛の過剰が失語症的状態を選手にもたらし、語ることの無能に直面した身体は言葉に規定された身体よりもずっと遠くまで跳ぶことができるだろう、ということだった。彼——つまり愛を語ろうとして言葉を常に中断される選手はそのとき彼自身にとっても思ってもみなかった力を発揮して、慌てふためきながら「主題が言語の限界を超えている……」とどうにかこうにかつぶやくことだろう。栗山監督が言っているのはそういうことだった。そういうことだったし、次の文章の「イタリア」をすべて「野球」に置き換えて読みなさいと、選手に訴えている。
イタリアは読みません。語りません。感嘆の声を挙げ、歌います。そこにイタリアの精髄があり、《本性》があるのです。だからこそ、イタリアはすばらしいのです。
ロラン・バルト『テクストの出口』p.151
遠く離れた東京でそれを聞いた一人の男が頷いていた。それは何を聞かれても「最高です」とだけ答えることを十年以上続けてきた男だった。彼は今季これまで17試合に出場し、打率.371、ホームラン5本、打点23という素晴らしい数字を残していた。
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