バーで村上春樹を読む

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高校生のときに村上春樹にハマった。
その体験が、僕にとって、読書というものを確固たる趣味にさせたように思う。
そういう人は僕の他にも少なからずいるのではないか。
であるとしたら、それには理由があるように思う。
まず当然だが、「うわあ、小説ってマジで面白い!」という経験を味わわせてくれること。
なぜか履修していたポルトガル語の授業中に机の下で『羊をめぐる冒険』を読んでいた場面。アルバイトの10分休憩のバックヤードでも取り憑かれたように『ダンス・ダンス・ダンス』読んでいた場面。なぜか妙に印象に残っているのだが、とにかく面白くて面白くて面白くて面白くてしかたがなかった。ひたすらずっと読んでいたかった。こんなことは僕には初めてのことだったのではないか。
それからもうひとつ、これは実は大きいのではないか、という理由。
「なんだか主人公の暮らし方や態度はかっこいいかもしれない」→「そのかっこいい彼は本を読んでいる」→「本を読むのってもしかしたら全然かっこいいこととしてなされうるのかもしれない」→「主人公はやたら簡単にセックスをしている」→「本を読めば俺もさくっとセックスできるようになる!」
これだ。
これは、高校生にとってはかなり強力な魅力だ。
容姿とか、運動能力とか、ノリとか、面白さとか、そういうところではとうてい戦えない。しかしもしかしたら、「僕なりの戦い方(モテ方)」というものを構築することはできるのかもしれないぞ、という危うい気づき。
これはけっこうなところ驚くべき気づきで、それまでは誰も、「違う土俵」というものがあるということなんて教えてくれなかった。痩せた想像力の17歳は、いい大学に入っていい企業に入っていい稼ぎをして、「金銭力」で戦うしかないかな、つまり向こう10年くらいは諦めかな、そんなふうに思っていたところでの村上春樹だ。これは天啓だった。
今になって考えてみるとこの二重の導きはことのほかに強力だった気がする。
「読書はすごく面白い、けれど読書はなんとなく暗い趣味に思われる」よりも、「読書はなんとなくクールな趣味に思われる、けれどいざ読んでみたらなんだか難しくてしんどい」よりも、「読書は面白い、そして読書はモテとも関係するかもしれない」という認識は、それが誤ったものであろうとなかろうと、ずっと強く明るく、読書という行為を肯定してくれる。
その村上春樹の「鼠三部作」と呼ばれているらしい作品群において、「ジェイズ・バー」というバーが登場する。
デビュー作『風の歌を聴け』では、「床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻」がまきちらされているというその「狭い店」に主人公の「僕」はひと夏のあいだ日参する。
「僕はビールとコーンビーフのサンドウィッチを注文してから、本を取り出し、ゆっくりと鼠を待つことにした」
このイメージは僕の中に憧れの対象として植えつけられ、長い時間を掛けて育っていったように思う。「酒を飲みながらゆっくりと本を読みたい」という、うっすらとした欲望の始まりはこの情景にあったんじゃないかとあとになって気がついた。
「いつもと同じカウンターの端に座り、壁に背中をつけて」、そしてサンドウィッチとビールを片手に本を読む。なんと贅沢で、なんとクールなのだろうと、それを是が非でもしたいと、そう思うようになった。
それでちょうどフヅクエの工事の真っ只中の夏、バーというものに行ってみるということをやったことがあった。駅からの帰路の途中にある、何度か前を通って目星をつけていた店があった。外から見ただけでも静かで重厚そうな雰囲気が漂っている。
意を決した日、カバンにはいつもの通り本を入れて、緊張を覚えながら重い扉を開いて店内に入る。バーコートをまとった背筋の伸びたバーテンダーが顔をこちらに向ける。あいさつを交わす。10席ほどのカウンターには数人の先客がいて、静かに話している。そのうちの一人か二人がこちらをちらっと見やり、すぐに戻す。新たな来店者が顔見知りかどうかを確認したのかもしれない。僕は空いている席に腰をおろし、どうなさいますかなどと言われてどうにか聞き覚えのあるような気がおぼろげながらするウイスキーを注文して、煙草に火をつけて、このときにはもう「まあ、これはきついよねwww」と思っている。「とてもじゃないけど無理www」と。
圧倒的な暗がり、広くはない空間でおこなわれる客やバーテンダーの会話の声。ご親切にも時おり振ってこられる話(「今日はお仕事帰りで?」「この店のことはどこで知って?」等々)。
しかし、話し声がどうのこうのという話はもうし飽きた。バーにおける読書の難しさは、会話の声や暗さといった具体的な状況に起因してのものよりも、もっと抽象的で漠然とした問題に依っているように思う。
つまり、過ごし方の正解不正解がわからない。この場所において正しく空気を読むとはどういうことなのかがわからない。
僕にとってはこれに尽きた。
たとえばどれだけのペースで杯を重ねることが必要とされているのか、という問題。
特に本当かどうかの判断がされないままなぜか自分のなかに定着してしまう規範というものがある。大学時代、所属していたゼミの時間で先生が言ったのだったか、ゼミ生との会話の中でだったか、「バーにおいては15分に一杯は頼むのが客の取るべき振る舞い」という話を聞いた。
今思えばもしかしたら先生や古参のゼミ生が好んでいそうな「ゴールデン街での飲み方」みたいなものだったのかなと思わないでもないが(そのときはゴールデン街というものを僕は知らなかったし、今も何回か行ったことがあるだけのあのエリアにどんな掟があるのかは知らないままだが)、僕はなんとなく耳にしたそれを丸々、そしてぼんやりと、規範として自分のなかに持つようになってしまった。
それから10年近くの歳月が流れていたその夜も、僕はそのなんとなくの規範にしたがって15分おきくらいに酒を頼むことになる。これはお酒が強くない僕からすればとても速いペースで、とてもじゃないがゆっくり本を読んでいられるものではない。
それにそもそも、本なんて出していいのか? ということもわからない。お店にもよるだろうけれど、うちは談話のための場所である、というところもきっとあるだろう。そんな場所で本を出した日には冷たい目で見られるだろうし、もしバーテンダーがレイ・オルデンバーグであったら、その場で激しく厳しく叱責される場面だ。「談話がないところに生命はないって我が本にさんざん書いてあんだろ!」と。よしんば怒られずとも、お店の方に寒々しく思われ嫌がられる振る舞いなんてできれば取りたくない。
また、もし本を開くのは可能そうだとして、やはり談話の声は気になる。では、イヤホンは? バーという場所で、イヤホンを耳に挿して音を遮断することなんてしてもいいのだろうか。とてもいけないような気がしてしまう。
とにかく、わからない。作法がまったくわからない。これが何よりものネックだった。
もちろん、こういったバーで本を読むこともできるだろう。「え? 普通に読んでるよ?という人もいるだろう。その実現のためにはふた通りの攻め方があるように思われる。
一つは何度も足を運んでその店の暗黙のルールめいたものを熟知する、店の人にもこちらの過ごし方を熟知させる。もう一つは初めての店であれなんであれ気にしないで済ませる胆力を持つ。
ハードル高くない?
というわけで僕は本をリュックから出すこともせず、他の方とおしゃべりすることもほとんどなく、お酒を2杯あるいは3杯飲んで帰る、滞在時間はだから30分から45分。そういうことをおこなった。
バーでの読書は初心者にはとても難しいものだった……
後日談というか余談をひとつ、後学のためにお伝えしたい。
その後、また別のオーセンティックな佇まいのバーにやはり一人で行ってみたことがある。客が僕だけだったこともあってバーテンダーの方と談話をするという過ごし方になったのだが、そのなかで「お店としてはお酒はどのくらいのペースで空けてほしいものなのか」と尋ねてみたところ、「客単価とか回転とかそういうこと以前に、おいしいうちに飲んでもらいたい。例えばカクテルだったら氷が溶けて薄まっていくわけだから、せめて30分くらいで」というような話だった。「おいしいうちに」。情けないことに考えたことのなかった観点だったけれど、それはそうだよな、なるほど、と思った次第だった。
「本の読める店」のためのメモ
暗黙のルールの内実がわかれば読めるかもしれない。
「長い時間を掛けて飲んで大丈夫」「グラスが空いてもすぐにおかわりをしなくてもいい」という認識を持てれば心地よく自分のペースで飲みながら読めるかもしれない。
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