カフェで本を読む

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どこかでも書いたが、本というものは簡単でありがたい。持っていれば、読める。プロジェクターも必要ないし着替えも運動靴も要らない。オーブンも包丁も編み針も毛糸も要らないし広大なスペースもバットもグローブも不要で雨を心配する必要もない。ただ本があって、光さえあれば。
この本というもの、読書という行為の簡単さはありがたく、だから僕たちはいつだってどこでだって本を読みたい。
そう欲望しながら街を見回してみれば、それができそうな場所というのはいくらでも見つかる。ありがたい。
この章では、街のそこかしこにある「本の読みうる場所」を取り上げてひとつひとつ点検していく。
「ブックカフェ」でそうだったように、快適に読める場所、とても読めたものじゃない場所、快適に読めることもある場所、いろいろだろう。どんぴしゃの場所を探そうというのではない。それぞれの場所の持つ「本の読める性/読めない性」をつぶさに見ていくことで、「本の読める店」はどのようであれば可能になるのか、勝手に浮き彫りになっていくことを期待したい。
・・・
まずはカフェから始めてみよう。
……しかし、カフェとはなんなのか。これを考え出すとたぶんキリがない。キリがないし厳密に「こうあればカフェ」という定義はないはずで、カフェという言葉は今ではもはや広がりすぎて溶けきってしまっている。
「家カフェ」や「英会話カフェ」のように「それ自宅でおやつ食べることだよね?」「それ英会話教室だよね?」という、これらはまだマシというか、まだ空間だ。しかし「カフェ」はもはや空間である必要もない。スーパーで、「お仕事カフェ」というバッジをつけた店員がレジ打ちをしているところを見たことがある。どうやら派遣会社の名前か何かのようだ。今、「本当にそんなものを俺は見たのかな?」と怪しくなり「お仕事カフェ」で検索してみたところ、一番最初に出てきたのは「三茶おしごとカフェ」というもので世田谷区三軒茶屋就労支援センターの別名とのこと(探していたものも見つかったがすでに廃業した模様)。
ともあれ、もう多分「カフェ」という言葉が示すのは「なにかしら心地がよさそうな」くらいの意味でしかない。
まあ、しかし、とはいえ、何かしら広く共有されている「きっとこれはカフェだ」というものはあると思うので、喫茶と食事的な、漠然とそれに頼って話を進めていくことにする。
といってもあまりに多様なので、漠然と場合分けして考えてみる。
まずとても広いカフェだ。ホールスタッフ、キッチンスタッフとそれぞれ何人かずつが配置されて、だいたい威勢のいい若者たちが「よいしょ! よいしょ!」というふうに働いている、そういうカフェだ。音楽はテンポの速いものが大きめの音で「よいしょ! よいしょ!」というふうに流れている。フードメニューが充実していてパスタがある。コースメニューもあったりする。お酒もいろいろある。モナンのシロップがやけに充実している。コーヒーに力を入れていない確率が高め。全然おいしくないぶつぶつの泡のカフェラテが出てきたりとかする。オレンジジュースにしておけばよかった……というような。
それで思い出したが、大学時代に少しのあいだそういう感じに近いカフェでアルバイトをしていたことがあって、コーヒーやスイーツへの力の入れなさは畏敬の念を覚えるほどで、ケーキはよくわからない食材業者から仕入れたものに冷凍クランベリーを散らして完成、みたいなものだったし、コーヒー豆も同じような業者から仕入れた銀色の袋に入った挽かれた豆で、それをコーヒーメーカーで抽出。豆の鮮度とかについて考えたことはない。その豆を切らしたときに至っては紙パックのアイスコーヒーをレンジであたためてホットコーヒーとして出していた。(大爆笑)
とにかくこれがとても広いカフェで(そうなのか?)、そういうところでの「本の読める性/読めない性」はどのようになるだろうか。
本の読める性
▶長居がしやすいかもしれない
本の読めない性
▶たいていうるさい
▶食事を頼んだほうがいいような気がしてくる
▶歓迎されていない感じがする
「ブックカフェ」の章で書いたように時間制が採用されておりそもそも長居ができない店もあるだろうけれど、長居がしやすいかもしれないとして、なぜだろうか。
その理由は「匿名性」にあるだろう。
狭い店では、客にしても店の人にしても、お互いに顔があるような感じがある。それぞれが「人間」であることを忘れにくい。それはある種の息苦しさを生みやすい。自分の一挙手一投足が意味をはらみやすい。
それと比べて広い店というのは客にしても店の人にしても、個々の顔が見えにくくなるというか、弱まる。記号としての「客」「スタッフ」になる。そうなると、なんというかいろいろ気にしなくていい気がしてくる。周囲の目みたいなものを気にせずに過ごしやすい。
無数の記号のひとつに埋没することで、なにか自分の振る舞いをあまり鑑みなくても済むようなそういう気楽さがある。傍若無人は言い過ぎにしても、傍らに人がたくさんあるがゆえの無関心を維持できる。別にコーヒー一杯で粘っていても、誰も気にしていないような気持ちになれる。
しかし一方で、「ブックカフェ」の章で書いたことの繰り返しになるが、たいていうるさい。そもそも一人客に向けたつくりをしているわけでもなく、たいていみんなおしゃべりに興じたりしている中で、あるいはパソコンを広げて猛烈に仕事していたり華麗に打ち合わせをしたりしている中で、ぽつねんと本を読んでいるというスタティックな状態は、ある種の孤立感を生じさせやすくもある。
また、やたらフードメニューが充実していたりプッシュされていたりすると、コーヒーだけのオーダーで問題ないのかな、ご飯も頼んだほうがいいのかな、という気兼ねが生まれもしやすいかもしれない(気にしないで過ごしやすいと言った矢先にあれですが)。
総じて、「本を読んでゆっくり過ごす」ということに対しての応援意識など当然持つ理由もなく、あらゆる要素がそれをはっきりと感じさせてくるから、「自分は今アウェイの場所にいる」という気分になりやすいかもしれない。気丈な人でないと、けっこうしんどいという状況がありがちかもしれない。
次に見てみるのは、個人が営む感じのほっこりした、あるいは街に根付いたりしていそうな、そういうカフェだ。もう漠然としすぎていてどうしていいかわからない。
ちょっとどうしていいかわからずに二週間くらい連載を前に進められないままなので、ここは諦めて適当に行かせていただく。
本の読める性
▶なんとなく読書みたいな過ごし方も歓迎されているかも
本の読めない性
▶話し声は当然あるしなんならアットホーム(地獄)だったりするかも
▶どれだけ長居して大丈夫なのかわからないかも
まず、なんとなく歓迎されているかもしれない感じというのは、あるかもしれない。ほっこりしていたり、街に根付いたりしていそうな場所は、読書という行為に敵対的な態度は取らない。総じて表向き、みんなに親切だ。笑顔で迎えてくれる。なぜならほっこりしていたり街に根付いたりしているからだ。なので、一見すると歓迎されているようにも感じる。
が、警戒したいのは「アットホームさ」だ。特に街に根付いていそうなお店はこれが怖い。地獄のサードプレイスと手を取り合うあの恐るべき「アットホームさ」。こういうものは、広い店ではほとんど現れない現象だ。
アットホームさとは何かポジティブな言葉として発せられることが多い気がするが、それはその場所を自分のホームだと感じられる人だけが享受できる類のものだ。家族団欒をしている赤の他人の家のリビングにいる様子を想像してみたらわかるが、そのときその家の中で自分はただの正体不明の闖入者でしかなく、勝手もわからないし際限なく気も使うし、こんなに居心地の悪いものはそうそうない。
入ってみたら自分以外のだいたいの人が顔見知りの状況でお互いに声を掛け合っていたりする。そんな状況は一人で本を読もうとして来た者にとってはただの悪夢だ。
「今日はたまたま?」「ええ」「よかったら一緒に飲みますか?」「……」
さすがにこれはカフェでは起こらないか。飲み屋の話になってしまう。
でもたとえばこういうことはあるだろう。というかあった。買った本を読もうと入ってみた店で、スタッフは二人、先客は一人。オーダーを済ませて本を袋から出してカフェラテを待っていると、それまで雑誌を眺めていた客が突然スタッフに向かって「今度のキャンプさあ」と言ったではないか! キャンプ行くの!? しかもより悪いことにその客とスタッフのあいだにはそれなりの距離があり、さらにスタッフ同士も少し離れた場所にいる。その三人が話し始めた! 会話が作る三角形は小さな店においてかなり大きな割合を占めることになった。僕のいる位置は、ちょうどの一辺が触れるあたりだった。声と視線の通り道じゃないか……これが魔のサードプレイストライアングル……噂通りのつらさ……
僕はまったく窮屈な気分になって、早急にカフェラテを飲み干して店を出た。
それから、読書という、できたら時間を気にせずゆっくり過ごしたい行為をするにあたって、小さな店で特に生じやすい、重大でそして簡単には答えの出ない問題がある。
それは「自分はどれだけの時間ここにいることを許されているのか」という問題だ。
コーヒー一杯、この一杯でいったいどれだけの時間いてもいいのか。そこのところについて店としてはどう考えているのか。
この問題も大きな店での場合よりも小さな店での方が直面しやすいと思う。なぜといえばぐるりと見渡せば全体が見えるような店においては、広くて客席数の多い店と比べたときに、店の人間と客の双方が固有の顔を持っているし、客一人一人の存在のウェイトが大きくなるからだ。一人の客としての自分の重みをより実感しやすくなってしまう。
たった500円の客を、この空間は何時間もいさせるわけにはいかないよな……そんな余計な心配が出てくる。じゃあおかわりをしてこれが1000円になったら? 1500円になったら? 実際どれくらいいてもいいものなんだろうな……考えても答えが見えない。
これがさらに満席にでもなっていて次にやってきた方を断っているような場面に出くわしてしまったときには事態はより深刻になる。もう出るべきか。出れば、店の機会損失を防ぐことができる……
さてさてその次。だいぶ静かなカフェ。静けさをわりと謳っているようなカフェ。
本の読める性
▶店の後押しがある
▶静か率高い
本の読めない性
▶ここでもやはり長居問題
▶静けさは約束されていない
店の後押しというのは、うれしい。本を読んで静かに過ごしてほしいんです、と言ってもらえるのはとてもありがたい。いていいんだ、という気になる。ただ、わからない部分がある。長居問題は上記と変わらないので、その次の約束問題に触れる。たとえばこういうことがあった。
三名以上での利用は不可。一人での来店を推奨。二人は可だが落ち着いた会話を。一人で静かに過ごす方の邪魔にならないよう声は大きくならないように。
とても期待ができそうだ。読みたかった本を持っていく。思っていたとおり静かでゆっくりした時間が流れている。ほどよい大きさで流れる音楽は白い壁のミニマムで静謐な内装とあいまって心地よく響いている。丁寧に作られたおいしい食べ物と、一杯一杯真剣に淹れられたコーヒーが体にも心にもじんわりとうれしい。
そんな店で、男と女が楽しそうに話している。大きな声ではないが少し浮き足立ったようなトーンで、間断なく話している。とても気になるわけではないが、静かな店内だけあってチクチクと話し声は耳に届いてくる。
という、その声を発していたのは僕だ。僕こそが店の静けさを壊していた。
とても凛としたかっこいいカフェがあると聞き、その時分にしばしばデートをしていた女の子と二人で行ってみたのだった(デートといっても、そう呼んだほうが気分もいいため僕はそう呼んでいたが向こうさんにとって何だったのかはわからないが)。聞いていたとおり出てくるものはどれも本当においしいし、場所も人も強い矜持を感じさせるかっこいいものだったし、これは凄いお店だなと感銘を受けながら、僕らはぺちゃくちゃと喋っていた。
後になって「あのときの我々の過ごし方はあの店での過ごし方として正しかったんだろうか」と省みはしたものの、そこにいるあいだは「自分たちは今この店を十全に楽しんでいる」と思って満足していた。実際それはとてもいい時間だった。
ただ席数20にも満たない小さな店内で、店の意図するようにたしかに全体としては静かな空気ができていたが、僕ら以外にも何組かの二人組が同じように話していて、そこで読もうと本を持ってきていた人にとってはどうだったか。難しい時間だったのではないか。
たとえ店が一人で過ごす時間を後押ししていても、会話が完全に禁じられていない限りは、いつもこの不安定さがつきまとう。行くに当たって、賭けの感が強くなる。「静かである可能性は十分にある」「しかしそうでない可能性もある」というリスクを行く者は常に抱えなければならない。
たぶん僕がぶち壊したその店でも、まったく誰もしゃべっていない、読書を遮るもののない、本を持ってきた人にとっては格好の時間が流れていることもあるのだろう。もしかしたらけっこうな頻度でそういう時間が流れているかもしれない。だからこそ、それを期待して行ったとき、そうじゃない場合の落胆は大きくなる。
はー、カフェむずかしいな。いろいろありすぎて何を書いても何かが抜け落ちるというか「そんな場所ばかりじゃないよ」という例が浮かびすぎてにっちもさっちもいかなくなる。
ちょっとまた書き直したりしようかなというかするだろうなというかしないとな。とりあえずこれで更新しちゃお、という、以上、カフェでした。おつかれさま〜!
「本の読める店」のためのメモ
匿名化できると長居しやすい
静かかどうかのリスクが取り除かれたら安心して行ける
注文するものがなんであろうが歓迎してもらえている感じを受けられると助かる
長居について明示されていると余計な気をもまないで済む
・・・