喫茶店で本を読む

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少しカフェのことを続けるがカフェという場所の難しさとして「店の人間の自意識みたいなものが見えやすい」ということが挙げられると思う。我々はこういうものをかっこいいとし、こういうものをおしゃれとし(少なくとも格好悪くはないとし)、こういう価値観で店をやっています、そういう自意識が伝わってきやすい。そこに自分がフィットできたとき、そこでの時間はいいものになりうる。要は共感ができたり憧れのようなものを感じられたら過ごしていても気分がいい。
一方で、そうなると、当然ながら、合わない、という状態がいつだって予期できる。
内装の雰囲気、流れている音楽、出している料理、メニューの書き方、店の人の感じであるとか立ち振る舞い、売っている雑貨、それに置いてある本。それらが自分にとって気持ちの悪いものだったとき、そこにいること自体がそこはかとなく違和感に満ちた時間になる。そしてそこに集う人たちがそれを享受し「この場所に今いる自分」というものをうれしい状態として思っている人たちなのかと思うと、自分だけが間違った場所にいる存在のようにすら感じてくる。
以前、名前をしばしば目にするたぶんとても知られたカフェに行ってみたときのことだった。着席した瞬間、あるいは扉を開けた瞬間だったろうか、すぐに僕はなんだかぴったりしない気分に見舞われてしまった。静かに雨の降る日でゆったりした夜にしたかったし、夕ご飯とコーヒーと甘いものでも食べながら二時間くらいは本を読もうと思って行ったにもかかわらず、オーダーをしたときには「ちゃちゃっと食べたら出てあの喫茶店に行こうかな……何時までやっていたかな……」と営業時間を調べ始めていた。ハリボテのようなぬくもり、偽装された機嫌のよさ、押しつけられた安らぎ……ほっこり……やさしい……自分へのご褒美……
まあとにかく相性が悪かったという話だが、カフェという場所では、その場所が表現するあれこれに対して合う合わないがどうしても付きまといやすいようには思う。
その点、喫茶店というものはとてもいい。
ここでは何十年もやっているような感じの喫茶店のことを考える。
もちろん喫茶店にだって当然いろいろな自意識や自己主張があるだろうとは思うのだけど、「時間の厚み」みたいなものがそれを和らげてくれるように思う。
その場所にそれまで流れ続けてきた時間、その積み重ねによって生まれた歴史、そういうものが全体をマイルドに包む。そうなるともう、気が合うとか合わないとか、そういう次元はとっくに超えていく。
美意識みたいなもので来る人に攻撃を仕掛けてこないから、いろいろな人がすっと入れる。誰もがそこに馴染めるような懐の広さがある。一人で本を読もうとする僕のような者もいれば、マッチングサービスで知り合って初めて顔を合わせているらしい男女、新聞を広げるおじいさん、商談中のサラリーマン、パソコンを開いて仕事をしている人、華やかな声でおしゃべりに興じるおばあちゃん、多様な人が自然に同居できる。
そのバラエティに富んだ顔ぶれの中、席数の多い店であればなんとなく紛れられるし、いろいろな用途の人がいるから出入りの動きも頻繁にあるためか、あまり自分の長居具合であるとかを気にかけなくて済む。とにかく楽にいられる。
そういうわけだから、本を読む時はひたすら喫茶店に行く、という時期があった。休日ごとに一回は喫茶店に入ってそこでコーヒーを飲み、煙草を吸い、本を読む、そういう時間を設けていた。うっかりするとこの「本の読める店」考察の結論も「喫茶店で読めばいいのでは?」に落ち着きかねないほどに僕は喫茶店がいい。
ただ、本を読む場所として完璧かといえば当然そういうわけではなく、それは喫茶店の豊かな多様性ゆえのものでまったくしかたがない。
ひとつは言うまでもなくおしゃべりの声で、近くで野球の話をしている定年退職後のおじさんたちでもいようものなら僕の耳は全部持っていかれてしまうし、なんなら話に加わりたくもなってしまう。
また、すでに眉をひそめた方もあるかもしれないが、喫茶店の多くはいまだに煙草が吸える。店によっては喫煙者の休憩所となっているようなところもありそうだ。僕は喫煙者だから「煙草が吸える」というのは選択しやすい一つの理由になっているが、吸わない方にとっては地獄にもなるだろう。(だからといって口コミとかで「煙が臭いから星1つ」とか言っているバカには「禁煙の店なんていくらでもあるんだからそちらに行けばいいだけなのに勝手に自分から喫煙の店に行っておいてその点について文句言ってんなよ」と思う。なんであの手合いは自分の基準を正義みたいにみなす愚かな態度に無自覚でいられるんだろうか。と知人が言っていた。そこまで怒らなくてもいいのでは、と僕は思ったためそう言いました。)
それから、これはちょっと恐る恐るな物言いになるけれど、コーヒーの味は、はたして、どうだろうか。
コーヒーを追求しています、という店ももちろんある。もちろんあるが、喫茶店、といって頭にパッと思いつく店の大半は、僕にとってはおいしいコーヒーを提供してくれるところではない。
僕は浅煎りも深煎りもどちらも好きで気分に応じて飲んでいるから浅煎りばかりが好きなわけでは一切ないとはいえ、「こんにちは、サードウェーブです」みたいな、そういうコーヒーに慣れ親しんでしまっている僕の舌が悪いのかもしれない。僕には、焦げた、煮詰まった、エグい、黒い液体、みたいな、そういう味のコーヒーに出くわす機会が圧倒的に多い。まとめて淹れておいたものをコンロで温め直した、そして喫茶店サイズのすぐに飲みきってしまう量の……
僕は、せっかくのうれしい読書の時間は、できるならば自分にとっておいしいと思えるコーヒーをそばに置いて過ごしたい。
いくつか読書という過ごし方における難点を挙げることになったが、それでも僕は喫茶店に流れる時間が好きで、これからも何度だって重かったりする扉を開けて、買ってきたばかりの本を開くことだろう。
また、余談だが、老後は小さな喫茶店でもやって、座りながらコーヒーを淹れてその姿勢のまま腕だけ伸ばして「ほい」とか言いながら出す、そんなことをしたいなとたまに考えたりする。
「本の読める店」のためのメモ
美意識みたいなものが表立たないほうが楽かも(しかし若い店にはそれは難しいことなのかも)。
紛れられるとゆっくり過ごせるかも。
煙草は吸いたくなったときに違うところで吸えさえしたらそれでいいかも。
おいしいコーヒーが飲めたらうれしい。
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