####『ユリイカ 2017年1月号 特集=アメリカ文化を読む ―カウンターカルチャーの新しい夜明け』(青土社)
2017年3月27日
ともあれ大山エンリコイサムの「アメリカ文化とアルターエゴの行方」はかっこうがよくて、「グラフィティにせよブレイクダンスにせよスケートボードにせよ、どのようなストリートカルチャーであっても、その出発点においてあらかじめ反社会的・反権力的な政治的目的のもとに誕生したものでないことは明らかである。路上に名前をかくこと、地べたにダンボールを敷いて踊ること、プールの水を抜いて板乗りをすることは、政治的行為などではなく、キッズたちが夢中になれる新しい「遊びプレイ」だったのであり、」とあり、グラフィティ、ブレイクダンス、スケートボードが路上に名前をかくこと、地べたにダンボールを敷いて踊ること、そしてなによりプールの水を抜いて板乗りすること、と言い換えられるところに僕はなんだかぐっときたらしい。大山さんは、と「大山さん」とさん付けをしてみたけれども面識はないけれど大山さんは高校のたぶん1つ上の学年の方で大学もキャンパスが一緒だったからたまに見かけたけれど高校の先輩という印象でとにかく寡黙そうでかっこよい風貌の方でグラフィティをやっていて、ブレイクダンスを一所懸命やっていた同学年の友だちが仲良くしていた気がする。だから、そういう姿を覚えているから、というか、グラフィティやブレイクダンスやスケートボードといったストリートなカルチャーなことを語るときに身体的なというか抽象的でない身体を伴った言葉が出てくる様子がかっこういいようなそんな気になっているのかもしれない。先の文章に続くところもなんかとても若くからストリートなカルチャーに傾倒していたのであろう大山さんの強い実感が伴っている感じがして気持ちがいい。
それは「大人」を意味していないか。すなわち、政治的判断が十分に可能な成熟した主体が、暗に想定されていないか。
だが控えめに言って、ストリートカルチャーの先駆者たちは当時10代前半の少年少女たちであった。それは政治や社会の変革のための理性でも暴力でもなく、子供がのびのびと落書きをするような無邪気な表現欲求のセンソリアルな発露として始まったと考える方が納得できる。とくにグラフィティ文化において、その黎明期に原動力となっていたのは、特定の政治的立場やメッセージ性といったものに回収される手前で、自我形成期のキッズたちが自由に波打つ想像力によって「自分らしさ」をかたどるための、アルターエゴの造形感覚にほかならない。名前というモチーフは、その想像力を注ぎ込むことができるもっとも身近な造形素材だったのである。
『ユリイカ 2017年1月号 特集=アメリカ文化を読む ―カウンターカルチャーの新しい夜明け』p.221
それにしても『オン・ザ・ロード』を読み途中の身としては「路上」という言葉は見逃すわけにはいかなくて何箇所か出てくるのだけど次のところとかかっこういい。
路上に張り巡らされた不可視の通信網による霊的コミュニケーションへの想像力は、グラフィティライターたちが現実の都市をもうひとつのアルターシティへと読み替えている証左だと考えたい。
こうしたことが可能なのは、ネットワークを構成するひとつひとつの落書きそのものが、かき手個人のアルターエゴを表象するタギングであるからにほかならない。路上のそこかしこに四散するそれらアルターエゴの集積と接合が編み目をなし、ライターたちに都市の別の姿を幻視させているのである。
同前 p.219
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