「ブックカフェ」にまつわる二重の誤解

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「ブックカフェ」という場所に本を読みたくて行った者からすると、読むことに力点を置いていない環境を提示されたら憤りたくもなる。
「なんだよ、ブックカフェとか言って、全然読ませる気がないじゃないか」
そんなふうに糾弾したくもなる。
しかし、これは正当なことだろうか。
残念ながら不当なことだ、というのが僕の考えだ。
本を読みたい者と「ブックカフェ」のあいだには、不幸な行き違いがあるように思う。不幸な誤解が二つある。
1.「別にブックカフェじゃないしwww」
僕はずっとカッコ付きで「ブックカフェ」と記してきたが、ここに実はポイントがある。
この章の始めの「俺、ブックカフェに行く」で行ったところもそうだし、本を壁一面に並べていたという僕の前の店もそうだし、フヅクエもそうだが、どこも「ブックカフェ」と名乗ってなどいない。また、前述した「ブックカフェ」特集の雑誌で紹介されていた16のお店のうちに、その店名なりなんなりに「ブックカフェ」という言葉を入れているお店は一つしかなかった。
つまり、「ブックカフェ」と呼ばれるお店のほとんどが、自分から「ブックカフェ」だと名乗ってなんかいない、ということだ。
いい加減なメディアと消費者が、そこに本があるというただそれだけを根拠に、とても雑に、無自覚に、都合よく、勝手に、「ブックカフェ」とラベリングしていく。(そもそも「カフェ」という呼称だって本当にいい加減なものだ。みんななんでもかんでもカフェと呼ぶ。人がどんな定義でカフェと言っているのかひとりひとりを捕まえて聞いてみたいくらいだ)
そんなつもりはないのに勝手にそう呼ばれるもの、勝手にそう思い込まれるもの、それが「ブックカフェ」だ。
そのことを忘れて僕たちは、「ブックカフェなのに!」と憤ったりする。憤られたほうはたまったものではない。「いやいや、うち、別にブックカフェじゃないし!」というところだろう。
「え、でも、インターネットを見たらブックカフェって書いてありましたよ」
「粗悪なまとめサイトとかでしょw 一体どうしろとwww」
という、それが一つ目の行き違い。
2.「読むための場所なんてひとことも言ってないしwww」
たとえ「ブックカフェ」と名乗っていたとしても、なにを売りにして誰に訴求するかなんていうことは当然、店それぞれが決めることであって、本を読みたい人をターゲットにしなくてはならないなんていう法はひとつもない。そして実際、「読む」を謳う店なんてほとんど存在してない。
つまり、「うちでは快適に本を読んでいただけますよ! らっしゃいらっしゃい!」と言って手招きをしている店なんてそもそも皆無だ、ということだ。
たとえば僕が「ブックカフェ」だと思って行ったお店のWebを見てみると、そこにある言葉は「食事やライブが楽しめる場所」や「食事・カフェやライブステージを楽しめる、新しいお酒や本や音楽に出会えるレストランです」だった。
どこにも「読書を楽しんでください」なんて言っていない。僕の見る限りこれらの言葉の中に嘘は一つもない。
また、「ブックカフェ」特集の16店を見てみても、やはり、「とにかく快適に本を読んでもらいたいんです!」みたいなことを言っているお店は、一つしかない。一つというのはもちろんフヅクエで、フヅクエ以外はもっと大らかというのか、幅の広い店として作られているように見える。そして誰も、「ここでは最高に本が読めます! そのための店です!」なんて言っていない。誰も、嘘をついていない。
つまり、「なんだよ、全然本読めないじゃんかよ!」という憤りや非難やどこまでも筋違いということだ。
店からしても、「なんでそんなディスをされなければいけないんだよ」というのが率直なところだろう。
お門違いなものでも筋違いなものでもなく「全然読めない」という憤りや非難が成立するとしたら、それは、「うちはとにかく快適に本を読んでもらいたくてやっているんです」と言っている店が全然そういう環境を用意していなかった場合だけなんじゃないか。つまり、「本を快適に読みたい!」と欲望して、行ってみて、全然読めなかったとして、怒ってみることが馬鹿げた振る舞いにならないで済むのは少なくともこの特集においてはフヅクエだけだ、ということだ。
それ以外は残念ながら、ほとんど無意味な非難にしかならない。豆腐屋に行って「なんで肉を用意していないんだよ!」と言っているようなものだ。肉豆腐をつくりたかったのだろうか。
そろそろ「ブックカフェ」を巡るこの章は終わりにしよう。この章をまとめると、次のように言えるだろう。
「ブックカフェ」は「本のあるカフェ」というだけであり、それ以外の点については店によって様子もコンセプトも狙いも異なる。
そして、「ブックカフェ」と呼ばれる店のほとんどが、自ら「ブックカフェ」と名乗っているわけではない。また「ブックカフェ」と呼ばれる店のほとんどすべてが、「読んでもらう場所」として売り出しているわけでは全然ない。
つまり、本が快適に読める場所かどうかについては、「ブックカフェ」ということだけでは何一つわからない。
だから、「なんだよ、ブックカフェなのに全然快適に本読めないじゃないか」という文句に対しては、こうなるだろう。
「いやいや、自分のその文句、どれだけ正当性あると思ってんの? あんたのその、なんだ、本を気持ちよく読みたいとかいう極々個人的な欲求にどうして応えなきゃいけないと思ってんの? そもそもここは、ブックカフェと名乗ってもいなければ、本が読めますとも謳っていないのですが。勝手な願望を押し付けないでいただけますか?」
ぐうの音は、まだ出るだろうか。
もちろん、期待値のコントロールのようなものを店ができていない、というケースだってあるだろう。あたかもとても読めそうだけれども、その実は本を読む人に対する意識なんてひとつも持っていない、という、嘘まであと一歩、みたいなところだってあるだろう。だけど、売りにしていないものに注意を喚起するということは、店の宣伝としてなかなか現実的とも思えない。「当店は本がたくさん並んでおりますし静かな時間が流れていることが多いですが、ことさらに快適な読書環境の実現を目指して運営しているわけではありませんので、読書目的の方はその点ご留意ください」とか、なかなか求められるものではないように思う。
さて。さてさて。
本を、読みたい。俺は本を読みたい。引き続き、本を読みたい。今夜はしこたま本を読みたい。まだそれができる場所は、見つかっていない。もう少し街を、ぶらついてみるべきかもしれない。
次章では、街に存在する「本を読みうる場所」が持つ「本の読める性/読めない性」を点検していくことで、「本の読める店」をつくるためのヒントを得ていきたい。