「ブックカフェ」と「本を読む」は無関係

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さて、考察は十分に深まったと思う(果たしてそうだろうか?)。
「ブックカフェ」という場所が本を読むことに適した場所なのかどうか、ここまで検討してきたわけだが(そうだったろうか?)、結論はこのようになると言わざるを得ない。つまり、
「ブックカフェは他の場所で本が読めなかったりするのと同じように本が読めない」
あるいは
「ブックカフェは他の場所で本が読めたりするのと同じように本が読める」
明快なつもりだったがむしろわかりづらいかもしれない……
どういうことかといえば、「ブックカフェ」が意味するのは「本があるカフェ」ということだけであり、それ以外にはどんな共通点もない、ということだ。
「ブックカフェ」という呼び名は、心地よい読書時間の提供を約束する、あるいはそれを理想として掲げる、そういう場所を指すものではまるでない。
だから、「ブックカフェ」には、読めるところもあるだろうし、読めるときもあるところもあるだろうし、とても読めたものではないところもあるだろう。
「ブック」は「リーディング」についてなにも語らない、ということだ。
「本のある店」と「本の読める店」は、まったくの別物、ということだ。
それなのに、どうしてだろうか、「ブックカフェ」と聞くとつい、「お、ブックカフェですか。本読めるかな。今度行ってみようかな」と思いそうになるところがある。共感してくださる読書好きの方はきっといるんじゃないだろうか。そして大抵の場合は、「あ、違った……」という苦い思いを味わって帰ることになる。もちろんそうならないこともある。要は、繰り返しになるが、「ブックカフェ」というだけでは全然なにもわからない。
この、期待と実態のあいだのズレのようなものはいったい何によって生まれているのだろうか。 読書好きであればあるほど、「本」といえばなによりも「読むもの」であって、まさか「本」があって「読む」が想定されていない場所があるなんて思いもしない、ということかもしれない。
「本」が「読む」ためのものではなく、「空間を演出する」ためであるとか、「コミュニケーションのハブに使う」ためにだけ使われるなんて、許しがたいと思う人もいるだろう。
では、読むことに重きを一切置いていない「ブックカフェ」は、僕たちを裏切る悪者なのだろうか。どうもそうとは思えない。
そもそもここには何か誤解があるのではないか。それを考えてこの章を終わりにしたい。
先に一言でまとめておくとこうなる。
「それはもう、俺たちが悪い」