おしゃれアイテムとしての本

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ところでここまでの書き方はいささか皮肉めいた印象を与えているかもしれない。
「本を空間演出のアイテムとして使う? それって本に対する姿勢として誠実ですか?」みたいな、そういう調子がもしかしたらどこかに見えるかもしれない。だとしたらまったく本意でない、ということを付記しておきたい。
むしろ僕は本はもっともっとおしゃれであるとか便利であるとかなにかしら勝手のよいものとして利用されていけばいいと思っている。だから、「ブックカフェ」であれなんであれ、本が並べられた場所が増えていくということに対しては、本が本としてちゃんと敬意を持たれて扱われていることを前提にするならば肯定以外の気持ちがない。
本がより様々なところに置かれ、それが意図されたものであれ大した目的意識もないものであれ、本との偶発的な出会いがより多く創出されていく世界は、僕が思うになんだかより豊かな世界だ。
そして本が、今よりももっとおしゃれで愉快でポップでクールなものになって、それを持つ人が今よりももっと何かクールな存在として眼差される、そんなアイテムになっていったら、それはなんだかシンプルに歓迎していいことなんじゃないの? と思っている。
僕はたとえば「スケボー」というと「あ、なんかかっこいい」と感じるのだけど、たとえば「ボルダリング」というと「あ、なんか充実してそう」と感じるのだけど、本も何かしらそういうものに近づいていったらいい。それで今よりも多くの人にとって本が身近な存在になり、今よりも多くの人が本を読むようになったらいい。入り口のハードルは下がれば下がるほどいい。
だから僕はおしゃれな雑誌であるとかで本の特集や本屋さんの特集が組まれているのを見ると、いいじゃんいいじゃん、と思う。星野源や蒼井優みたいな人たち、誰でもいいけれど、読書芸人とか、たくさんの人たちに影響を与える人たちが、「この本が好きなんですよね」だとか「この本に影響を受けて」だとか言って見せることは、「本」にとってとてもポジティブないいことだと思う。
僕が高校時代にナンバーガールに熱狂して、そこから坂口安吾や萩原朔太郎を手に取ってみたような、林静一の漫画を読んでみたような、そういうことがたくさんの場所でたくさんの人に起こったらいい。
そういうものの積み重ね、刷り込みの継続によって、本であるとか読書であるとかのイメージが今よりも明るいキャッチーなものになっていったらとてもいい。
本というアイテムには、そうなるポテンシャルが十分に備わっているのではないか。
なんせ、本は移動中や店の中とかで手に持てる。手に持てるということは、人に見せることができるということでもある。その見せられるものが、かっこよかったら、存在がかっこよく、きっとなる。かっこいい装丁の本なんていくらでもある。いちばん簡単なのは、文庫本のカバーを取ってしまうことだ(そうなのか?)。
つまり、かっこいい装丁の本かカバーを外した文庫本を持って町に出よう。そうしたら君は、かっこいいから。というのは簡単にいけそうな気がするが、どうか。
ところでどうして今よりも多くの人が本を読むようになったらいいと思っているかといえば、これはごくごく個人的な理由でしかない。
本を読み続けて本に人生を支えられてきた者として、これからもたくさんの本を読み続け本に人生を支えてもらいたいから、そのためにもこれからも本がたくさん出版され続けてほしいから、本を売る場所にあり続けてほしいから、というそれだけだ。
好きな本を作ってくれる出版社が消えるのは悲しいし、好きな作家が十分な収入を得られないなんて悔しい。よく行く書店がなくなるなんて聞きたくない。それは僕にとって完全に損失。そういう損失や喪失を味わわないで済むためにも、今よりも多くの人が本を読むようになったらいいなと素朴に思っている。
本というジャンル全体に流れ込むお金の量が増えたほうが、きっとそのジャンルの末端でちびちびと読んでいるだけの我々にとっても、何かしらいいことになっていく(悪いことにならないでくれる)んじゃないかと素朴に思っている(トリクルダウン)。素朴すぎるだろうか。そうかもしれない。
でも少なくとも、本というものをなにか高尚な、限られた人だけが享受できる、排除の身振りを伴うような、選別的で排他的な、総じて内側に閉じられた態度よりも、ずっとずっと健康的だと僕はわりと信じている。
その一方で、本にまつわる言説や態度の中で、明るいキャッチーなおしゃれな愉快な読書の対極にある、僕が強い嫌悪感を覚えるものがあって、それは「読書離れを憂う」というたぐいの話だ。最後に憤って、寄り道を終えようと思う。