#8月11日(土)
3時くらいに一瞬満席になり、夕方以降、5時以降くらいに5つくらいのご予約があったから、いくらか混乱して席の、予約システム上でのコントロールというか、苦心して、そうしていたら5時のときにはお一人だけという状況になった、
と打ってから、また満席近い状況に夜、なり、一日、ひたすら働いていた、そのひたすらの中で、最近書いた原稿の、著者校正というのか、わからないが、ファイル名が「著者校阿久津様」というやつを、印刷したのを、読み直し、赤入れというのか、をし、それが6000字くらいだった、それから日記を印刷して校正、それが20000字くらいだった、それをしていた、だから、一日中自分が書いた文章を読んでいた、夜、閉店後、日記のほうの校正というか推敲をやりながら、ビールを飲んだ、今日は、「Make America Juicy Again」というビールだった、それが済んだらハートランドを飲んだ、世界の箍が外れてしまった、と、どうしてだか打って、『ポーラX』の、最初の、それで、世界の箍が外れてしまったで合ってたっけな、と思って、シェイクスピアの何かだったはずだよな、と思って、調べると、世の中の関節は外れてしまった、みたいな訳文が出てきた、『ハムレット』。
今日、これから、『ハッピー・アワー』を見てきます、という方がおられた。濱口竜介。オールナイト。わあ、いってらっしゃい、がんばって! と言って、愉快な心地で見送った。
帰宅後、今日はじめての読書、プルースト。
##8月12日(日)
忙しい日だった気がした日だった、夜、柴崎友香を読んでいた、最初のうち、韓国の作家とよく一緒にいた、というようなことが書かれていて、そのあたりで、二人組の方が来られ、おしゃべりまったくできないですけど、と言うと、どちらも日本語が第一言語ではない人のようだった、どうするかな、と思っていたら、少ししたら、写真を撮ってもいいですか、と言われ、撮るだけ撮って帰るってことかな、と思って、それはなしだなと思って、なんのためですか、と、なんのためというのも変な質問だったなとあとで思ったが、聞いて、観光客なんですけど、SNSにアップしたいので、というような答えが返ってきたため、ダメです、みたいなことを答えた、どうするのかな、と思ったら一人が座って、一人が外に出て、ちょうどお会計の方があったので、見送りに出たところで、その外に出た方が、外から撮るのはいいですか、ということなので、さっき撮らないでって言ったのは撮って帰るからかと思ったからなんですけど、それは嫌だなと思ってそう言ったんですけど、中で撮っても別に大丈夫ですよ、でもあんまりバシャバシャ撮るのはなしだし、他の人が映るのもなしで、というようなことを言ったあと、どこからなんですか、と問うと私は韓国で、彼はアメリカ人でこのあたりに住んでいる、それで今日彼のところに来た、という感じだった、日本語ってわりと読めますか、けっこういろいろ面倒くさい店なんですけど、と聞くと、私は翻訳をやっているんです、ということだった、小説とかの、そうなんですね、編集者なんですか、なんか前に韓国の本屋さんの本を読んだときに、韓国はわりと編集者が翻訳をするって読んだんですけど、私は翻訳です、編集者から翻訳家に転職する人はいっぱいいます、ということだった、そうなんですね、韓国の小説、最近なんかいくつかシリーズのやつがあって、人気みたいですね、僕はパク・ミンギュの『ピンポン』を読みました、『ピンポン』が出てるんですね、あれは変な小説ですよね、変な小説で面白かったです。
なんというか期せずして和やかな会話になって、よかった、そのあと、オーダーされたカレー等を持っていったとき、アメリカ人という男性は韓国語のテキストを読んでいて、韓国人という女性は英語のテキストを読んでいて、なんだかそれがとてもよかった、それから、グーグルマップでアイオワ大学周辺をストリートビューで散歩した、シャンバウ・ハウスはこのあたりのはずだけどな、見当たらない! というような。
##8月13日(月)
平日だと思っていたら、ゲリラ豪雨が、長い時間のゲリラ豪雨があった、その時間も含め、始まりからだったが、まるでめちゃくちゃ調子のいい休日みたいな、そういう前半だった、わあ! わわわわわあ! というようだった、驚き、ヘトヘトに疲れ、ヘトヘト、もう大丈夫、もう大丈夫、というふうだった、満席の時間がしばらく続き、雨が止むと、減っていった。
夜8時には、誰もいなくなって、新たにおかずを作ったりして、そのあとは、座って、本を取る気も起きないというか、疲労して何も考えられないようだった、それで文字起こしをいくらかして、それから先日書いた『ユリイカ』の「特集=濱口竜介」の号のエッセイの原稿の、編集者の方とのやり取りが済んで、終わった。原稿でも触れた『親密さ』の上映のことをSNSに書こうかなと思って、書くなら『ユリイカ』にエッセイを書きまして、ということを書かないと、なんで『親密さ』の上映の案内してるのか意味わからんよな、情報は公になっているのかな、と青土社のサイトを見ると、近刊情報ですでにあって、見ると僕の名前もあった、その横に、大学の先輩というか同じゼミだった方の名前もあり、わはは、悠三さんだ、と思って、愉快だった、そもそも、やり取りをしていた編集者の方というかググってみたところどうやら編集長らしい明石陽介さんはゼミの一学年下だった明石くんで、わりと仲良くしていた人の一人だったような気がした、四人で、明石くんと深沢くんとカンジと四人で、しばしばゼミのあとにご飯を食べたりしていたような気がするが、でももしかしたら記憶違いというか一回くらいしかなかった出来事が、わりとよくあったこととして記憶されているだけかもしれなかった、わからなかった。とにかく、だからなんとなく、この『ユリイカ』の話は愉快だったし、最後に原稿料の振込先等の情報を記載したシートを送ったときに、湘南台支店、と打ちながら、面白いなあ、人生というのか、何かは、と思った。続けること。
時間になって、ご飯を食べて帰った、作った、なすのおかずが、カレーを作るようになすの、なすとズッキーニとパプリカときのこの炒めものを作ろう、と思って作ったなすのおかずが、やたらにおいしくて、マスターピースと思って、ご飯がはかどった、疲れて帰ると遊ちゃんはまだ起きていて机に向かっていて、僕はソファに座って、あれこれと話してから風呂に入った、上がって、少し本を読もうと、リュックから持ち帰った本を出したら、そのうちの一冊の『彫刻1』が、赤いかっこいい造本で、そのカバーの上の縁のところと帯の上のところが少し折れてしまっていて、かっこいい本だったから、ほんの少しの折れというかよれなのにやたらしょんぼりとした気分になったというか、どうにかもとに戻らないか、こうならなかった過去に戻らないかと祈るような気分が微弱ながらあり、それは叶わなかった。
柴崎友香を読み、「ニューオーリンズの幽霊たち」を読み、第二次世界大戦の博物館に入ったあたりで眠気がやってきた、3時を回っていた、布団に入り、レリスを少し読んだ、すぐに寝た。
##8月14日(火)
山梨のお土産で「おざら」という、冷やして食べるほうとうを遊ちゃんが買ってきてくれたのがあって、それをお昼に食べることは昨日から決めていたことだったため、昼前に起きて「ニューオーリンズの幽霊たち」を読み終えると家を出て、スーパーに行って鶏肉としいたけと大葉を買ってきた、ほうとうのその箱の裏面の作り方のところに、「鶏肉としいたけと人参を入れ」と書いてあり、「人参等を」ではなく「人参を」という、これを入れろ、というふうで、愚直に受け取り、そのようにしようというところでスーパーに行った、今日も暑かった。
それで、それを作って食べ、おいしかった、つけ汁の具が大量になったため、麺は2玉はやりすぎかもしれない、と思って、1玉茹でて食べたが、もう1玉いける、と判断されたため2玉目も茹でて、冷やして、食べた、2玉目の途中で遊ちゃんが帰ってきて、遊ちゃんはひやむぎを茹でてピーマンをナンプラーとかで炒めたもので合わせて食べた。
お腹がいっぱいで、ソファに体を横たえていたが、散歩に行こうよ、ということだった、僕も遊ちゃんと散歩をしたかったのでそれはたしかに妙案だと思った、それで散歩をした、リトルナップコーヒースタンドに行って、アイスのアメリカーノを外に出て飲んだ。リトルナップは今日は、わ、とても久しぶりだ、というお姉さんが立っていて、外で、手すりのようなところに腰掛けて飲みながら、2014年の秋ごろから翌年春くらいまでの時期、とても頻繁に行っていて、その時期はオーナーの方とあのお姉さんが立っているのが大半で、それ以降はたまにしか来なくなったから、今どのくらいの頻度で立っていらっしゃるのか知らないけれど、とても久しぶりにあのお姉さんでなんだかすごい安心感というかよかった、行ったところで話たりするわけでもないのに、安心感みたいなのはあるものだね、というようなことを言った、遊ちゃんもあのお姉さんを知っているようで、同意してくれた、4年とかが経って、4年かあ、と思う、というようなことを話した、先日思い出したがB&Bは今年6周年で先日イベントがあったけれど、そういえば僕があそこで、移転前の2階のあそこで、呼んでもらって話をしたのは3周年記念イベントだったんだ、ということを思い、3周年、あのときのB&Bよりもフヅクエのほうが長くやっているのか、と思うととても不思議な感じがした、3周年のB&Bはもうとっくに「B&B」という感じで、多くから強く認知された場所だったような気がしていたのだけど、でもたった3年だったんだなあ、と、とても不思議に思った。
背中の公園では、親子が野球をやっていて、お父さんと、ちびっこ二人が野球をやっていて、お父さんが投げて、ちびっこ一人が打って、一人が守って、ということをしていた、けっこう速いボールを投げ込んでいた。途中、ファウルフライというか上がったのだろう、打球が高いフェンスを越えてこちら側の道路に落ちて、バウンドして、それを僕は捕球した、ちゃんと投げられるかな、と思いながら、投げるよ、と言ってから、投げた。軟式のボールをつかむのなんて、何年ぶりだろうか、10年以上だろうか。ちょうど家を出る前に武田さんから連絡があって、「あしたですが、午後気温やばいので、11時から少し投げて、下北でランチしつつ、マリオでグローブみましょう!」と連絡があって、これはまるでデートだ! というような連絡があって、だから明日、キャッチボールをする予定があった。
グラスを返しに店内に入ってグラスを返すと、お姉さんが声をかけてくださって、うれしい&うれしいとなって、うれしくなって、帰った、歩いていると、背の高い白人の男性がデニムの短パン、スニーカー、ナップザック、という出で立ちで歩いており、つまり上半身は何もまとっていなかった、歩幅が大きい、足取りも力強い、どんどん先に歩いていった、見えなくなると、今度は背の高い白人の男性が向こうから歩いてきて、短パンで、シャツを着ていた、着替えて引き返してきたのかな、と思って笑った、それから、柴崎友香がそのアイオワの滞在中に、周りが背が高い人ばかりで、自分の背の低さに驚くことがあった、と書いていて、そういう驚きがあるのだなあ、と新鮮に思った。帰って、少しだけ『彫刻1』を読んで、昼寝した、夢を見た。
5対4で巨人がリードしていて、9回裏だった、開くと、無死一塁で山田哲人が「ヒットゴロ」とあって、同点、逆転のチャンスが広がったらしかった、次の打者、そのときの4番打者はバレンティンではなく藤井とあって、どうしてかな、とスコアを見ると、7回裏までヤクルトが4対0でリードしていた、8回に巨人が一挙5点をあげて逆転した、そういう試合だったことがわかった、守備固めで、バレンティンはもうお役御免、というところでの、この展開だった、どうなるかな、と思いながら、画面は一球速報の状態にしておいて、柴崎友香を開いた、「生存者たちと死者たちの名前」だった、1ページ読んで画面に目を移すと、1死満塁となっていた、藤井の代打が三輪で、三輪が犠打を決めて1死二三塁、そのあとの雄平が敬遠。マウンドにはアダメス、打席には川端で、カウントは2-0となっていた、「捕手マウンドへ」と出ていた、2ページほど読んで画面に目を移すと、ヤクルトに2点が入って逆転でサヨナラ勝ちをしていた、2-0からの3球目、インコースのストレートをどこに打ったのか、2塁打となり、終わったらしかった。「わたしが受け取ったIDは、Hindaのだった。Maryのだった。Grantのだった。Claytonのだった。アメリカで、わたしは四人の生を、ほんの少しだけ、確かに知った。」とあった。次のページで終わり、とてもよかった、それで、左ページには、「言葉、音楽、言葉」というタイトルがあり、もう、最高だな、と思った。今日は野球は混戦というか、見ていて面白いだろうなという試合が多かったようで、ベイスターズも9回表に2点を取って逆転勝ちした、阪神も8回裏に4点を取って逆転勝ちした、西武は1回表に6点を先行されて、徐々に返し、8回に追いつき、10回にサヨナラ勝ちをした、日ハムは8月に入ってどうも調子がよくないらしい、今日も負けた。
疲れていた。昨日で、金土日月で疲れ果てて、この数日は日記を書く気も起きないような疲れ方をしていた、今日はものすごく寝るぞ、と思って昨日は寝たが、存外に7時間ほどの睡眠で起きたが、睡眠時間は関係ない、それはそれとして疲れが溜まっていて、夜はもうゆっくりするぞと、相変わらず夜だけの日は労働意欲に欠けていた、たいがい座っていた、その一方で、そろそろやらないとな、と思っていた掃除を奮起しておこなうなど、勤勉なところも垣間見えた、それはそれとして、肩が重かった、重く、ダルかった、今日は何もしていないけれど疲れ溜まってるってことだよね、と思ったあとに、まさか、今日、フェンス越しに投げたあの一球、あれなのか!? だとしたら、ウケる、と思って、ウケた。
そのあと、「言葉、音楽、言葉」は帰ってから読もうかなとも思ったが、最後のお一人だった方が11時前に、ドリンクを追加されて、こういうとき僕は、いいねいいね、ぜひ最後までいてください、僕も読書タイム突入するんで、という感じで、楽しい気持ちになる、なったので、読むことにして、読んだ。
九月の終わり、シカゴ旅行から戻ったあと、わたしはオラシオ・カステジャーノス・モヤさんに連絡して、ダウンタウンのバーで会うことになった。コモンルームで話しているときにわたしが三日目のパーティーでオラシオさんに会ったと言ったら、ファンだと興奮気味に話していたヘンズリーとカルロスもいっしょに来ることになった。ホテルのロビーで待ち合わせて、オールド・キャピトル・ホール前の広々とした芝生を横切りながら、わたしは自分が読んだラテンアメリカの小説について二人と話した、というよりは、タイトルと作者名を列挙した。
時間が早いのでまだがらんとしているバーでビールを飲んでいると、オラシオさんが店に入ってきた。アートのコースで教えているという女性もいっしょだった。山盛りのフライドポテトをつまみにビールを飲みながら、わたしたちは英語で話した。ときどきは、彼らはスペイン語になることもあったが、ほぼ英語だった。ヘンズリーは、日常生活に困らない程度は話せるが英語がそんなに得意ではなさそうだったし、カルロスもネイティブのように流暢に話せるというわけではなかった。それでも、おそらくはわたしがいるから英語で、彼らは話していた。彼らは自分たちの言葉でもっと話ができるのに、不自由な英語で話してくれていた。
柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社)p.260,261
なんだかとても感動的な場面で、感動して、他でもたくさん感動して、感動した。
途中、「ハレルヤ」のことが出てきて、最初はジェフ・バックリィの曲として出てきて、そこで、わあ、ハレルヤ! と思って、そのあとにレナード・コーエンの名前が出てきて、レナード・コーエンも! と思って、保坂和志の「ハレルヤ」と響き合うなあ、と思っていたら、初めて、自分でも驚いたことに、初めて、「ハレルヤ」というタイトルがレナード・コーエンの曲名から取られたことに気がついて、自分の遅さに驚いた。遅さについても書かれていた。
(日本ではよくある、と答えたものの、娘には頼むが息子にはあまり頼まないという不均衡に気づき、数日後にヴァージニアに説明した。ヴァージニアは、アイオワを離れる直前に香港の新聞に記事にするからとわたしにロング・インタビューをしてくれて、そのときに、トモカはなぜdelayなのか、と聞かれた。何時間か何日か経ってから、このあいだ言ったことについてだけと、と遅れて答える、と。英語を理解していないから、というのもあるが、わたしは日本で日本語で話していてもdelayだ。そのことは、わたしが小説を書くようになったことととても深く関係していると、わたしは思った)
同前 p.256
他の短編で、パーティーがやたら多くて、ということが書かれているものがあって、パーティーの場面が書かれていて、所在なくしていた、みたいなことが書かれていて、英語が話せないからということもあるけれどそもそも日本でも、というようなことがたしか書かれていたか、書かれていた気がするが、僕が勝手に思っただけのことかもしれないが、もし自分がそこにいたらそう思うだろうなと思ったことを思い出したというか、僕もパーティーみたいなところにいたとしたら所在なくしているか、この人と話していればいいという人を定めて、ひたすらそばに張り付いているかするのだろうなと思ったというか、大人数がいる場で楽しくいられる気がしないというか、最初は、自分が英語を話せないから、と思って、そのあとで、そういや日本でもそうだわこれ、と思い直すのだろうなと思った、ということを思い出した。
「言葉、音楽、言葉」、とにかくよかった、タイトルが「ハレルヤ」でもおかしくないような作品だった、と思って奥付で初出の情報を見ると、『新潮』の2018年3月号で、保坂和志の「ハレルヤ」は同じく『新潮』でその翌月だった。
##8月15日(水)
いつもと同じ時間に起きると家を出、代々木八幡駅から電車に乗ることにして、途中のコンビニでおにぎりを買って食べながら、歩いた。食べきり、スイッチコーヒーでアイスコーヒーを買い、電車を待った。待ちながら、プルーストを読んでいた、電車は空いていた、リュックを背負ったまま座って、読んでいた、ジルベルトにどうも振られた、家に行ったら使用人頭に「お嬢様はお出かけになって家にいらっしゃいません」、云々と告げられた。
だから、使用人頭がこの言葉を口にすると、たちまちそれは私の内心ににくしみの炎をかきたて、私はそのにくしみをジルベルトにではなくて使用人頭に集中したくなった、彼は私が女友達に向けるはずであった憤りのあらゆる感情を一身に受けたのであって、あんな言葉を口にしたばかりに、憤りは全部彼のほうにぶちまけられ、残ったものといえば、ジルベルトにたいする恋ばかりになった、
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈2 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.271
残ったものといえば、ジルベルトにたいする恋ばかりになった! と思って、電車はひと駅ひと駅、止まった、下北沢でちびっことお父さんが乗ってきて、どうしてひとつひとつ止まるの、とちびっこが聞いて、お父さんだと思しき人が、なにか答えていた、ジルベルトからの手紙を待った。
この夕方ジルベルトから手紙がこなかったので、私は彼女がうっかりしていたか、用事のせいだろうと考え、つぎの朝にはなんとかたよりがあるだろうと思ってうたがわなかった。毎朝私は胸をとどろかせて待ったが、ジルベルトではない人々からの手紙しかとどかないか、または何もこないときには、失望落胆がそれにつづいた、どちらかといえば、何もこないほうがまだしもだった、というのは、他の人々の友情の表明は彼女の無関心の表明をいっそう残酷なものにしたからである。やがて気をとりなおして午後の配達にかけるのであった。
同前 p.272
この苦しさ! と思って、100年前のプルーストを身近に感じるようだった、そういえば返さないといけないメールがあった、それを思い出したのは梅ヶ丘の広い気持ちのいい駅のホームでだった、電車が走り去ると、ひとっこひとり、見当たらなかった。
駅からほんの少し歩くと羽根木公園の入り口が見当たり、伸び切った芝生の中ほどに立ってカメラをどこかに向ける老年の男性があった、芝生の手前のところにはそれを見守る女性の姿もあった、芝刈り部隊と思しき人たちの姿もあった、なだらかな階段を、たくさんの緑に囲まれながら歩きながらぐるぐると見廻しながらなんて気持ちがいいんだと思いながら、上がり、なんとなく見当をつけていた方向に進んでいくと、ベンチに座って肩をぐるぐると回す武田さんの姿があった、今日はキャッチボールの日だった、少ししてとんかつさんがやってきて、球戯広場というフェンスに囲われた場所に入った、人はそのときはいなかったか、バスケットボールを一人で操る人が一人あっただけだったか。
とんかつさんのグローブを僕は借りた、使うボールはM号という規格のものだった、グローブをはめてボールを握ることなんて、何年ぶりだろうか、高校のときであるとかに体育の授業とかであっただろうか、中学のときはどうだったろうか、小学校のときは野球をやっていたから、少なくとも小学校のときにはグローブをつけていた、だから最長で20年ぶり、ということだった、15年かもしれないし、10年かもしれない、それで、ボールを、武田さんなりとんかつさんなりに投じて、投じられたボールを捕って、ということを繰り返した、それだけで、なんなんだろうこの楽しさは、という楽しさが込み上げてきた、気づいたときには、キャッチャーミットをはめて座って構えるとんかつさんに、ボールを投げていた、セットアップ、ワインドアップ、左足を胸まで上げて、えい、や! と投げていた、アドバイスをもらいながら、フォームを修正していった、武田さんが動画を撮った、交代して、武田さんのピッチングの様子を動画を撮った、それから、僕もキャッチャーをやってみたいと思ってミットを借りて、武田さんのボールを受けて(速くて怖かった)、そのあととんかつさんのボールを受けた(構えたところにボールがやってきた)、1時間くらいだろうか、遊び、終わりにし、グラウンドのほうにとことこと荷物をかかえていくと水道があって、頭からかぶって、しばらく木陰に座って休憩し、風が吹けばいい心地になった、整備されたグラウンドではスプリンクラーが回っていた。
公園を出て、住宅街のアップダウンの見通しの面白い道を行って、環七に出た、道路を渡り、しばらく歩いていったら下北沢があった、蕎麦屋さんに入り、ビールとつまみを頼んで、飲んだ、とんかつさんの奥さんがやってきて、4人になって、蕎麦を食べた、そのあとでマリオという野球用具屋さんに移動した、とんかつさんの奥さんが昨日と同じだといって笑った、昨日は野球チームの練習があったらしく、とんかつさんと武田さんは同じく午前中羽根木公園で野球をして、そのあと下北沢に移動して昼飯を食べて、マリオに行ったらしかった、夏休みみたいな二人だなと思って愉快だった、今日は僕も夏休みみたいな男だった、それでマリオで僕のグローブを選ぶ会が始まり、最初に見たローリングスのグローブがやたら柔らかく、見た様子もよかった、他のメーカーは金色のメーカー印みたいなやつが、ボコッとしているのにしても刺繍にしても、あるのが多く、その金色感がどうだろうと思ったのだが、ローリングスのはそんなことはなかった、オールラウンド用、内野手用、外野手用、投手用、捕手用、一塁手用、いろいろあるようだった、もっと細分化しているかもしれなかった、オールラウンドのやつを見ていた、途中、日ハムの中島卓也のグローブを検索したら久保田スラッガーという内野手用のグローブに特化したかなにかのメーカーのグローブを使用していることがわかり、でもこのメーカーのものはここにはないらしかった、それで、ローリングスのやつにすることにした、そういう相場だと聞いていたので上限2万円と思っていたが、値札を見たら8900円だった、ラッキー、と思って、色はどうしよう、と考えた結果、深いオレンジ色のものと、黒とベージュのものが候補に残り、黒とベージュ、これは、日ハムカラーじゃないか! と気づき、完璧な決定打となった、他に、型崩れしないように巻くやつと、塗るやつと、入れる袋と、ボールを一つ、買うことにした、会計を待っていると、お父さんと息子、みたいな組み合わせがよく見当たり、よかった、坊主、大事に使うんだぞ、という気になった。それから、かつて、自分もきっと父親と野球用具屋さんに一緒に行って、買ってもらったんだよな、と思った、グローブというものは買ってもらうものだったんだよな、と思った、それから、自分のお金で買ったグローブ、と思った。僕もずいぶん大人になった。
とんかつさん夫妻と別れ、武田さんと下北沢をぷらぷらした、この町はいつもどこを歩いているのかわからなくなる、Zoffで武田さんは注文していたのか何かの眼鏡かなにかを受け取り、それから近くの喫茶店に入って、コーヒーを飲み飲み、先ほど撮った動画を見ていた、武田さんは立ち上がって、ここをこう、こうなんだよなあ、というようなことを何度かやっていて、僕のフォームは癖がないらしかった、武田さんは高校まで野球をやっていて、途中でサイドスローに転向したりしていて、考えることがたくさんあるらしかった、羽根木公園でも、武田さんもとんかつさんも、ここをこうしたらいいんじゃないか、こうなっているよ、等々すぐに指摘していて、二人の解像度の高さに驚いていた、僕は一時停止したりスロー再生させたりしたものを見ていてもたいがいわからなかった。見えるようになるのだろうか。途中、リリースした手はクイッと、外側に向くときれいだと武田さんが身振りで見せてくれて、僕は、えーどうしたら外に向くんですか、見当もつかない、と言って、自分の動画を再生して見たら、あまりにきれいに外側に向いた右手が映っていて、面白くて噴き出した、噴き出した息が灰皿の灰を巻き上げて、笑いながら掃除をした、ブホッ、とやって粉が散るとき、『アニー・ホール』でウディ・アレンがくしゃみをしてコカインを撒き散らす場面を思い出すため思い出して、愉快だった。
いろいろと反省点があるようだったからそれにかこつけて、もうちょっとやりましょうよ、第二ラウンド、という提案をして、やることにした、僕はとてもやりたかったから受諾されて嬉しがった、それでユニクロで涼しい半袖を買い、代々木八幡に移動し、昨日「ここならキャッチボールができる!」と気づいたリトルナップの向かいの公園に行った、そこでまたキャッチボールをした、だんだん日が暮れるというか陽光の強さが弱くなっていって、景色の彩度が落ちていく、そのなかで、すぐそばの線路を電車が通っていく、僕たちはキャッチボールをしている、その組み合わせがやたら強い多幸感をもたらして、途中、「わあ!」と思った。最後のほうは体がはっきりと疲れて、僕はぽーんと山なりのボールを投げるだけだった、1時間少しでおしまいにして、また水道で顔と頭を洗って、ベンチに並んで座ってグローブに油を塗った。
夜は優くんと3人で代々木で飲む予定だった、遠くないし時間もあるしちょうどいいし歩きましょうか、ということにして、リトルナップでカフェラテをテイクアウトして、飲み飲み、暗くなっていく速さに同期するくらいの速さで、歩いた。
行ったのはカンボジア料理屋さんのアンコールワットで、あれこれを食べてどれもおいしかった、僕はビール2杯で十分で、あれこれとおしゃべりをして過ごした、まだ9時くらいで、もう一軒というところで、僕がジントニックみたいなものを飲みたい、といったため、店を決め兼ねた、歩いていたら、新宿になった、思い出横丁とか行ってみますか、と通り抜けながら店をキョロキョロしたが、人がたくさんで歩くのも少し詰まるようだった、焼き物の煙にむせるようだった、結局、このメンバーだといつもそのあたりになる西新宿のエリアに入り、バガボンドの1階のほうに入って、ジントニックを飲んだ。
9時くらいには眠くなっちゃったりして、と思っていたが、11時過ぎまで愉快に、眠くもならずに過ごし、帰った、帰って、遊ちゃんに買ってきたグローブを見せ、投球動画を見せ、ぺちゃくちゃしゃべり、風呂にゆっくり浸かり、プルースト読み、寝た。
##8月16日(木)
筋肉痛は、寝る前はお尻の左側が痛かったが、そこではなく腰回り、というような箇所にきた、いくらか体がギシギシとするようだった、店行き、仕込み、店開け、開けてからは今日はあまりやることもなく、でもいろいろを見ていたら明日明後日あたり一気にいろいろありそうだなといくらか暗い気持ちになって、日記を書いていた、瓶の煮沸をしていたら落として火傷をして瓶も割れた。どうしてだか、SHAZNAの「すみれ September Love」が頭のなかに流れている時間帯があった、カバー元は一風堂というバンドか何かなのかと知って、今、知って、ラーメンを食べたい気持ちにはならなかった。
日記を書いていて、ボールとグローブを持ったのなんて何年ぶりだろうかというようなことを書いていたら、そういえば岡山のときに何度かソフトボールをやったな、と思い出した。小学校のグラウンド、照らす、煌々とした光。
結局やはりわりと忙しいというか、今週の平日はどれも毎日金曜日みたいな調子だった、調子のいい金曜日みたいな調子だった、もう一日分働いた、じゅうぶん働いた、と思ったところ、夜、ひきちゃんがやってきたので感謝の意を表明してバトンタッチして出て、渋谷。丸善ジュンク堂、フアン・ホセ・アレオラ『共謀綺談』を買う。それから泉と合流し、道玄坂のとりしょうで飲む。今は札幌で、もう3年との由。その前は岐阜に7年いた。10年。10年、と思う。高校時代から様子が変わらない男だった、ゲラゲラ笑った、酔っ払って帰って、プルーストを読もうとしたが、どこまで読んだっけか、と探している途中で寝た。
##8月17日(金)
早めに出、10時に店、24時半まで座ることなく、同じ速度と強度で働き続けた。
疲弊を通り越して憔悴した。大忙しであると同時に、たくさん仕込みのある日で、常に後手、という体感のまま一日を過ごした。終わり、ビールを開けると、そのまま眠ってしまいそうだった。
「へとへと」と言いながら帰り、寝る前にプルースト。読みだしたら、乾いたスポンジが水を吸収するような様子で、なんだか体に何かが満ち満ちていくような感じがあった。
しかしそうした菊の花が、十一月の午後のおわりの夕もやのなかにあんなにもはなやかに落日が燃えあがらせている、おなじようにピンクの色に映え、おなじように赤がね色に映えるあのつかのまの色調ほどあっけないものではなく、その点では比較的生命の長いことに、私は感動させられるのであった、そしてスワン夫人の家にはいるまえにながめた夕やけの色が、中空にうすれて消えそうになりながら、そのひととき、花々の燃えたつようなパレットにのびているのを、ふたたび部屋のなかで見出すのであった。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈2 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.284,285
ずっと読んでいたかった、そういうわけにはいかなかった、眠った。
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