(追記:現在の店のあれこれは
aboutページで。)
掲題の通りで明日の10月14日からお支払いの仕組みを少し改定します。この改定によってフヅクエで使う金額がこれまでより多くなる方と、何も変わらない方の両方がいるような改定です。それぞれのメニューの金額は変わらず、オーダー内容によって数百円のお席料が発生したり発生しなかったりするような感じです。
(具体的なところはご来店の際にメニューの説明文を読んでいただきたいのですが、これまでも長かった説明文が今回の改定でべらぼうに長くなった。言葉を費やせば費やすほどに狂気に近づいていくのを感じたというか)
なんで変えるの?というところなんですが、売上作り急いでるの?というわけではなく。
現状のまるでままなっていない集客でちゃんとした売上こしらえちゃうぞとなったときにはお会計で電卓叩きながら「ええと…コーヒーとケーキだから…はい、じゃあ、1万ね」みたいな、いま電卓でなに計算してたの!?というか、鼻ほじって白目むいて口から泡を吹きながら放言する感じになるかと思われるのだけど。だから現時点での売上をどうこうというわけではなく。
じゃあ何かっていうと、そんな日が訪れるのかどうか知らないけど、将来的に「集客ばっちりOK!」となったときに(いつかなるといいよねほんとに)、ここで過ごされる方の時間の質と量を守り、なおかつ店の健全な運営を続けていくために、早めに手を打っておこうと判断した、というところです。
逆に言えば、今までのままでは難しかったということで。ごくたまに訪れる「お、絶好調!」という日に僕が必要と設定している売上に達さないというのは、これはもう仕組みが間違っているということに他ならないと。
「そんなんお前がかぶれよ」という人もあるだろうけど、僕がかぶるということは店がかぶるということは今のこの場所での時間を心地よく思ってくださる方がかぶることに結局なるわけで、かぶらない。
「ほんとに仕組みのせいなの?」という人もあるだろうけど、ああだこうだ考え続けた結果、「仕組みです」となった。もちろん店の魅力みたいなものを高めていくみたいなことはこれからもしていくけれど、仕組み以外では変えようがないところが絶対にある、となった。
そういうわけでこの場所を維持し、より良くしていくためには必要かつもっとも美しい打ち手だと僕は思っている。
(この去年の冬に3つ続けて書かれたエントリーがことのほかに重要な気がしていて。
http://fuzkue.com/entries/41
http://fuzkue.com/entries/42
http://fuzkue.com/entries/43
漠然と謳われた自由よりも制限され明文化された自由の中でこそ本当に自由でいられる、少なくとも僕というかフヅクエはそちらを選ぶ、という)
なんというか、この改定がどう受け止められるのだろうな、というのはよくわからなくて、「何も変わりませんね」の人もいて、「あ、」の人もいて、「あ、」の人の中にも「そんくらいは必要だったんだ、言ってくれたらよかったのに、全然付き合いますよ」の人もいれば「そこまではちょっと…」の人もいるだろう。「そこまではちょっと…」の人の中にも「財政状況的に」の人もいれば「貴店にそれだけ払う価値はありません」の人もいるだろう。全部しょうがない。願わくは、「全然付き合うよ」の人の数が一人でも多くいらっしゃることを、というところだ。
という、おそらく発生してしまうだろう一定の「フヅクエもうなしです」の人たちの声を「しょうがない」と頭では思いながらも恐れるというか残念に思うような消極的な気分がある一方、なんかこれすごいいい変更なんじゃないの?これまで以上にいい時間がこの店に流れることになるんじゃないの?お客さんの体験の質を向上させられるんじゃないの?みたいな、そんな気分もはっきりとあるんですよね。
開店以来変わっていない、説明文の冒頭部にはこう書かれている。
「本日はフヅクエにお越しいただきありがとうございます。店主の阿久津と申します。
貴重な一人の時間を大切に、ゆっくり、贅沢に、心地よく過ごしていただき、ここでの時間が、明日への活力というか、よりよく生きるぞみたいなモードというか、をもたらすことができたら最高だな、そんな場所であれたら最高だな、と、そんな気持ちでやっています。
いくらでもお気兼ねなく、心ゆくまでゆっくり過ごしていただければ嬉しいです。」
これからもそれを目指していくだけです。
(追記:現在の店のあれこれは
aboutページで。)