「クドさ」か「察するコスト」か

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昨日の続きで、メニュー表のメニューに至るまでの文章がやたら長いよね、という話になるのだけど。
昨日はそれで「無理、押し付けがましい、腹立つ」となる方だったら相性が悪いんだろうからしょうがないよね、どうせだったら双方にとって幸福な関係がいいからね、というようなことが書かれたと思うのだけど、もう少し「クドさ」について。
実際、実にクドいことをやっていると僕も思っていて、クドいとも思うし、野暮という言葉でも考えていて、「こういう過ごし方、全然オッケーです、で、この点についてはこう思っています」とかがひたすら連ねられているわけだけど、そのあり様は野暮も野暮。粋ってものがまるでわかっちゃいねえなお前さん、というふうな感じだ。
ただ、僕がフヅクエという店で実現したいのは粋でかっこいい空間を作るとかではなくて、野暮でもなんでもいいから「楽に過ごしていただく」という状態を作ることだ。
粋方向って、暗黙の了解とか「察する」みたいなものをお客さんに強いるというか、そういうことになりやすいんじゃないかと僕は思っている。
例えばバーとか、僕はほとんど行かないからよくわからないのだけど、昔なにかで、バーで飲むんだったら15分に1杯くらいは注文をするべき、1杯でダラダラするのはよくない、みたいなことを読んだか聞いたかしたことがすごくうろ覚えだけどあって、僕の中でなんとなくそういう認識ができている。
だから、夏の時分に「ちょっと体験してみよう」とか思って2,3度一人でバーに入ったことがあったのだけど、そのときはその曖昧な記憶のルールに従って行動した。
別に長くいたかったわけじゃないからそれで構わなかったのだけど、もしかしたらその僕認識の暗黙ルールは別に何も暗黙ルールじゃなくて、そんなのまるで気にしない、というバーもあるのかもしれない、むしろそういうの気にせずにゆるっと過ごしてもらいたい、というバーもたくさんあるのかもしれない、僕が行ったところももしかしたらそうだったのかもしれない。
でも「ほとんど行かないからよくわからない」人間である僕が「すごくうろ覚え」の認識に行動を規定されているというところがすごく重要で、「うちにはそういうルールないですよ」と言われもしなければ書かれてもいない以上、悪く思われるのも嫌だし、そんなこと尋ねるのも抵抗あるし、みたいなところで僕はうろ覚え認識暗黙ルールに従い続けるほかない。
(念のために書いておくと、仮にバーにおける僕認識うろ覚え暗黙ルールが正しかったとして、この文章はそれを否定するものではいささかもない。店の数だけルールがあればいいと思っている。そこからは相性の問題だ)
そういうわけで僕はバーにおいては全然楽に過ごせないまま夏を終えた。僕にとってそこでの「察する」コストが居心地のよさを上回ったということだ。(単純に行ってはみたけれどバーテンダーの方とかとコミュニケーションを続けることが僕にはやはり難しかっただけの気もするけど)
フヅクエにおいては、だから、いかに楽に過ごしていただくか、そのためにいかに察するコストを抑えられるか、ということなのかなと。
どれだけ野暮でもいいから言葉を使って伝える、ことを選んだということだ。