「本の読める店」再定義。短い時間でのご利用がしやすくなります & ますます読書に特化します

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12月1日から、初台・下北沢ともにいくつかのことが変更されます。
本の読める店はますますハードコアに、そしてより開かれた場所に、という変更です。
・短い時間のご利用がしやすくなります
「1時間読書:(ほぼ)オーダーに応じたお代をいただく制」と称し、60分プランみたいなものを導入します。
「2時間3時間の時間はないけれど、今日は1時間だけぎゅぎゅっと本読みたいぞ」というときにぜひ、というやつです。
こちらの過ごし方については席料は発生せず、ご飲食分のお代をいただきます。ただしご注文の合計が1000円未満の場合は1000円に切り上げさせていただきます。また、1ドリンクのご注文はいただきます(フードのみはなしです)。
こちらはご飲食分のお代をいただきます。オーダーが「ドリンク1杯」あるいは「フード1つ」の場合は300円のお席料をいただきます(12月13日に変更)。
短いからこそいっそう時間を気にしてもらいたくないため、基本的にオーダーの際に「この1時間のやつで」みたいに事前申告をいただいて、時間になったら僕らが「あちょいと」と声を掛ける感じになります。
・「勉強・仕事・執筆・作業・動画視聴・ゲーム」ができなくなります
(下北沢では11月から「勉強・仕事・執筆・作業」までは導入済み)
・ペンの扱いについての制限が大きくなります
「本に書き込みをする」、「ときおりメモ帳を開いて読書のメモを取る」、「読書の休憩時に手帳を開いて5分10分なにかを書く」、みたいな過ごし方はしていただけますが、常にノート等を開いてなにかを書いている、という過ごし方についてはご遠慮いただく感じになります。
(下北沢では11月から導入済み)
新たな案内書きデータを公開しますので、詳細をしっかりお読みになりたい方は読んでみてください。なんかおもしろいと思います。
・案内書きPDF
初台12月1日下北沢12月1日
・案内書きPDF
最新版はこちら
経緯
これまでのフヅクエは、数時間過ごすことを前提に組み入れた変動的な席料制によってすべての方から2000円前後はいただくことで、どれだけ長くいていただいても全力大歓迎、とにかく気が済むまでここで本を読んで過ごしていってください、という状態を実現していたわけですが、その仕組みはそのままに、今度は短い時間でも選択しやすい仕組みも並行して走らせる、という感じです。
フヅクエは7年目になりますが、これはフヅクエ史上でも何番目かの大きな変化で、僕は大変革と思って興奮しています。フヅクエの定義を書き換えた感じがあります。
これまでは、「今日はがっつり本を読みたいぞ」という方の快適さを最大化することだけを考える、その人を幸せにすることだけを考える、ということをけっこう突き詰めてやってきたつもりです。それは、そのニーズの外にいる人については考慮しない、ということでもありました。
「本の読める店」として、これこそが正解だろう、これ以上美しい形はないだろう、と僕は長らく考えていたのですが、先日ふと、「あれ、これ、本当かな」という考えが唐突にやってきたのでした。「本の読める店」の本義に「がっつり長時間」が入っているのって、嘘じゃない??? というような。
僕自身が、「2時間3時間の時間はないけれど、今日は1時間みっちり集中して読みたいな〜」と思うことは多々あるわけなんですが、同じような人は少なからずいるはずです。だけど、それに応えようとはせず、「あくまで長時間の滞在を前提にしている」という姿勢を取り続けていました(もちろん短い滞在でも満足して帰っていただけるならば歓迎でしたが、短い方を見るとどうしても不安を感じてしまっていました。「え、大丈夫かな、ただの高い店って思われておしまいになってたりしないかな」みたいな)。
この、「短い時間ぎゅぎゅっと読みたい」という欲求に正面から応えようとしないのって、「本の読める店」の役割のわりと小さくない一部を放棄しちゃっているのではない? と思ったわけです。
「本の読める店」のあるべき姿は、過ごす時間の長さに関係なく、「愉快な読書の時間を過ごしたい」と思ってやってきた人たちすべてを幸せにしようとすることなんじゃないのか、という、気づいてみてしまえば実に当たり前に思えることに、長い時間を経て初めて気づいたのでした。
「長時間という前提を外してみる」というのは、それはけっこうすごい転換で、今まで書いたり言ったりしてきたことのいくつかをひっくり返すことにもつながりかねないような危ない転換でもあったのですが、考えれば考えるほど、長時間だけを前提とする姿勢は、やっぱり「本の読める店」として本当の姿じゃないな、と思っていきました。
そして、その転換が発想されたときに次に思ったのは、「それ、もうできるかもしれないな」ということでした。これまでだったら難しかったかもしれないけど、もうできる気がする。ゆっくりゆっくり読書の時間を贅沢に過ごしたい人の特別な時間をこれまでと変わらず守りながら、「1時間ぎゅぎゅっと読みたいぞ」という人に楽しんでいってもらうことも、もうできる気がする、と。
そもそも、長時間の滞在を前提にした変動的な席料制がもたらそうとしてきた(そしてこれからももたらそうとする)最大の効果は、「気兼ねのない長居を完璧に実現する」というものでした。
「ゆっくり本を読みたい」は、「あれこれ飲み食いしたい」と必ずしも連動するわけではなく、飲みたいのはコーヒー1杯だけという方もいれば、ビール飲み飲み軽くつまもうという方も、今日はご飯を食べて食後に紅茶とデザートだという方もいるはずです。
ゆっくり過ごしたいと思うすべての方に心地よくゆっくり過ごしていただくためには(そしてそれを建前でなく本気で実現するためには)、ゆっくり過ごされるすべての方が店にとって必要な対価を提供してくださる存在である必要があり、そして、過ごす方にとっても、自分が他の誰とも変わらず同等に完全に歓迎された(そして何時間いようとも歓迎され続ける)存在だ、と認識できている必要がある、と考えました。それを実現させるのが変動的な席料制でした。これがあることによって(自動的に全員が「2000円前後は払う客」になることによって)、一瞬たりとも、「そろそろ出たほうがいいかな」「もう少し頼んだほうがいいかな」と思わないで過ごしていただける。これはやっぱりすごい仕組みで、すごい効果だと思っています。すごい発明。
一方で、この席料制がもたらそうとした効果は他にもあって、それは「ゆっくり本を読みたい人以外にとってできる限りつまらないものにする」ということでした。「読書なんてどうでもいいっすわ、本の読める店とかいってほんとにみんな本読んでてウケるwww」みたいな人たちにとって、この場所で過ごすことを選択するインセンティブをなくしてあげる。「なんか2000円前後掛かる」ということによって、「なんでお茶したいだけなのに2000円も払わねばいかんのか。しかもおしゃべりも一切できないとかメリットゼロ過ぎる。これは一体なんの罰ゲームかと」と思ってもらって、「それならスタバ行くっしょ」という判断をしてもらう。その人たちにとっても店内で過ごす本を読む人たちにとっても働く僕たちにとっても面白くない、つまり誰も得をしないミスマッチを防ぐことができる。
もしこの席料制がなかったら、「おしゃべりできないとかクソウケるけどちゃちゃっとコーヒー飲んで出ようか」みたいな人たちが入ってくるのを防げない。だからこの仕組みが必要だ、と考えていました。
だけど、「なんかもう大丈夫」という気になっていきました。理由はふたつあって、ひとつは「もう読書する以外ほとんどやれることがない」という状態になったこと、もうひとつが「もう読書をしたい人以外めったに近づいてこない」という状態になってきたことです。
席料制導入以降も快適な読書時間のためのチューニングを重ねていったわけですが、最初からそうだったおしゃべり不可にとどまらず、タイピングはできないし勉強にも制約がある、という状態を経て、今回、いよいよパソコンは開くのもダメ、勉強・仕事・執筆・作業・動画視聴・ゲームも不可になった。もう、マジで本読むくらいしかやれることが限りなくない。
そして、そういうあれもこれもできないということがいくらかは浸透していったのか、もはやつまらない事故がめったに起きないという状況もできあがっていきました。
なので、もう、気持ちよく本を読みたい人のことはちゃんと守れる気がする。そうであれば、これまでうまく迎えることができなかった、1時間みっちり読みたいぞという人のことも受け入れられるし、そして、「知らないで入っちゃった本を読む気だったわけじゃなかった人」にも、もっと軽やかに読書の事故みたいなものを起こせるような気がする。「なんかたまには読書もいいもんだね」という気分を与えることができる準備が整ってきた気がする。
ただ、「マジで本読むくらいしかやれることが限りなくない」とは書きましたが、これもまだ穴はあって、たとえばスマホの利用を制限するような記載はないから、スマホぬるぬる触り続けて終わり、みたいな人が現れちゃう、みたいなリスクは今はまだあって、これについては今回けっこう迷いました。でもスマホに言及し始めると、読書の合間にちょっとスマホ、みたいなまったくOKな行為にすら後ろめたさや萎縮を与えてしまいそうで、タッチしづらかった。今回はそこにタッチはせず、「1時間読書」のページ内に「本をお持ちでなかった方も」という項目を立てて、
「店内の本は自由に閲覧いただけます。楽しい読書の時間をぜひどうぞ。この案内書きを熟読してみる、というのも楽しいかもしれません。なお、「たしかに快適に本の読める状態」を守るためにみなさんにご協力いただいていることがいくつかありますので、特に「本を読む場所だったのか、知らずに入っちゃった」という方はp.27からのところを一度ご確認ください。そのうえで、「今日はやめにしてまた今度本読みに来よう」というのもうれしいですし、「せっかくなので読書の時間にするのもまた一興かも」と思って過ごしていただけるのも、なおうれしいです。」
と書くことで、「読書だよ〜ここは読書だよ〜それも一興かもだよ〜〜〜」というふうに、本を取って過ごすことを促してみる、ということにしました。どうなるかな。もしかしたらご遠慮項目を「〜〜〜動画視聴・ゲーム・無限スマホ」としたらよかったかもしれないな、とも思ったりしていますが、まあ、つまらない感じになったらまた仕組みを研磨すればいいだけで、大きな方向性としては、今は、これこそがそれだ、これこそが「本の読める店」の進むべき方向だ、と思っているところです。「今は」と書いたけれどこの気分が変わることはないような気がしていて、なぜなら「長時間の読書だけ」に戻すのは明確に後退だから。一度気づいてしまった以上、もうそれを正当化できる理路を僕は持っていないから。
ともあれ、これはだから本の読める店フヅクエの期を画する大変化で、「この店が幸せにしようとする対象」が「今日はがっつり本を読みたいぞ〜という人」から、「愉快な読書時間を過ごしたいすべての人」に変わりました。
過ごす時間の長さは異なれど、みんなが本を読んで過ごしている。
その景色さえ生み出せれば、これまでと変わらない強いグルーヴみたいなものは生じ続けるのではないか、というのが今の仮説。
そんな感じで、思考と試行錯誤をやめないで歩き続けていたら、思ってもみなかった美しい景色が目の前に開けたものだな、という心地です。読書に特化していった先に、ハードコアになっていった先に、こんな開かれ方の景色があったなんて、まったく考えてもみないことだった。しかもこれは窮余の策じゃない。むしろ短期的に見たら売上を減らしさえするかもしれない。売上を増やそうお客さんを増やそうという考えで生まれたものではない。増やしたいのは増やしたいけれど、それとは関係が全然ない。ただただ「本の読める店」として正しい振る舞いはこちらだと気づいてしまったからやるしかなくなった。ドゥーザライトシングスに則ったらこうなった、というだけというのがどこまでも清々しい。
という感じで、本の読める店フヅクエ、再定義でした。
愉快な読書の時間を過ごしたくなったら、ぜひいらしてください。
追記:
やっぱり「スマホの利用を制限するような記載はないから、スマホぬるぬる触り続けて終わり、みたいな人が現れちゃう、みたいなリスク」が看過できないというかそれこそ「おしゃべりできないとかクソウケるけどちゃちゃっとコーヒー飲んで出ようか」が容易に選べること、今の制御の仕方だと祈るしかできないこと、は、よくないなと思い、面白くないなと思い、「本をお持ちでなかった方も」の項目を書き換えることにしました(もう案内書きは入稿しちゃったのでシール貼って対処)。こうかな。
「店内の本は自由に閲覧いただけます。楽しい読書の時間をぜひどうぞ。この案内書きを熟読してみる、というのも楽しいかもしれません。なお、こちらの過ごし方については、読書に関わる用途(読書、メモや調べ物、記録しておきたいページや表紙等の撮影)と緊急連絡および飲食物の撮影(p.31)以外の用途でのスマホの利用はご遠慮いただきます。あくまで本を読んで過ごしていただくための仕組みだからです。「そのつもりはなかったけれど、せっかくなので本読んでいこう」と思っていただけたら嬉しいですし、「また今度本読みたくなったら改めて来よう、今日は帰ろう」というご判断も嬉しいです」
追記:
補遺みたいなものを書きました。
案内書き刷新のほんとうの革新について | 本の読める店 fuzkue