8月25日(火)
疲れている。いつの間にかどっしり疲れていた。何もする気が起きなくて、どうせ店は暇なんだから、みんなにやってもらったらいい、というかみんなが仕事をする機会を奪うよりも、そちらのほうがいい、みたいな正当化をして座っている。本当は、どう考えてももうできてしまうこととか、完全な雑用とかこそ僕がやって、なにかしらまだでききっていないこととか、まだ遊べる余地があることとか、少しでもチャレンジの幅があるものにどんどん時間を割いてもらえるようにするのが僕の仕事かもしれない。ごめん、今日なんもやらなかった、と言って森奈ちゃんと引き継ぎ、いろいろあるけど、まあ、ひとつずつ、適当に。
今日は昼から夕方までずっと、広場でたくさんの子どもたちを見かける日だった、やたら子だくさんの日で、丸テーブルを囲んだ6人くらいのちびっこが、なにかを食べていたり、駆け回ったり。青と緑と光の中で、子どもたちが笑う。なんだか天国みたいだなと思って、いい広場だった。
初台は8時交代で2時間くらい時間があったから、とどまり、ラウンジで仕事。ノイズをキャンセルした中で先日永山に教わったRas Gの『Raw Fruit Vol. 5 & 6』を聞きながら、仕事。体が勝手に動く、ゆらゆら揺れながらタイピングをしているとき僕は気持ちよくなっている。いい時間だった。
初台に移り、マキノさんとバトンタッチ。わりに忙しかったようで、そのなかでも仕込み等もたくさん進めていて、すごい、と思う、今日はもはややることはないとのことで、俺はそしたらゆっくりさせてもらうよ、と言う。座っていた。ぼんやりとメールを返したり事務的なことを進め、いよいよ特に何もなくなったし疲れ切った、本棚から『盆栽/木々の私生活』を取ってきた、11時、お客さんは2人、ソファ、ソファ、ぼく、一直線になって、全員で本を読んだ。「盆栽」を読むのは7年ぶりくらいだろうか、この小説を読みながら、真っ昼間のタリーズで、道路に面したガラス張りのところで、道路の向こうは工事中の大きな敷地がぽっかりとあって、クレーン車がいつもあった、そこで、読みながら、僕は悲しくて悲しくて、だらだらと涙を流し続けていた。本を読みながらそんなふうになることは、めったにないことだった。
フリオがエミリアについた最初の嘘は、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。読んだ本のことで嘘をつくことはあまりなかったが、あの二度目の夜、何かが始まりつつあることが、その何かがどれだけの期間続くにせよ大切なものになることが二人にわかったあの夜、フリオはくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、十七歳の夏、キンテーロで、と言った。当時はもう誰もキンテーロで夏を過ごしたりはせず、かつてエル・ドゥラスノのビーチで知り合ったフリオの両親ですらキンテーロには行かなくなっていた。美しいが今ではルンペンたちが押しよせるあの避暑地で、十七歳のフリオは『失われた時を求めて』を腰を据えて読むため、祖父母の家を借りた。もちろんそれは嘘だ。たしかに彼は、あの夏キンテーロに行き、たくさん本を読んだが、読んだのはジャック・ケルアック、ハインリヒ・ベル、ウラジーミル・ナボコフ、トルーマン・カポーティ、そしてエンリケ・リンであって、マルセル・プルーストではない。
アレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』(松本健二訳、白水社)p.22
だから僕は26とか27とかだった。なんであんなに、というくらいに、ユーモアとペーソスと絶望と無力感の入り混じった文章に、打ちのめされて、笑いながら、笑うからこそ、とにかく悲しかった。二人はともに、プルーストを読んだ、という嘘を二人の関係の始まりの時期についていた。二人はベッドでたくさんの本を一緒に読んだ。とうとうプルーストを「再読する」ときが来た。
二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり、いかにも勝手知ったる場面であるかのごとく、感情あらわに見つめ合ったりした。フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ、それに対しエミリアは、かすかに悲しげに手を握って応えるのだった。
彼らは聡明だったので、有名だとわかっているエピソードは飛ばして読んだ。みんなはここで感動してるから、自分は別のここで感動しよう、と。読み始める前、念には念をということで、『失われた時を求めて』を読んだ者にとって、その読書体験を振り返ることがいかに難しいかを確かめ合った。読んだあとでもまだ読みかけのように思える類の本ね、とエミリアが言った。いつまでも再読を続けることになる類の本さ、とフリオが言った。
同前 p.37
・・・