管啓次郎『斜線の旅』(インスクリプト)

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3月29日(日)
帰りながら、やる気が上がらないなと思う。いろいろ面倒だと感じている。本当に4月1日から営業ができるのかわからない、不透明、先が見えない状態で準備をするのはけっこう僕にはつらいところがあって、開幕が延期になったスポーツ選手たちは、本当に大変だろうなと思う。4月。本当はたくさんのことが始まるはずの4月を、どんな気分で僕たちは迎えないといけないのか。
初台で本棚が目いっぱいになったときに除外され、下北に持ってきてはみたが、やはり置き場がわからない本たち、それを山口くんからもらった紙袋に入れて、重い、重い、と思いながら歩いていると、あと数分で家というところで紐が切れて、道路にぶちまかれた。「あーあ」と言って数秒見下ろして、拾っていると後ろから歩いてきた人がそのまま向こうに歩いていって、それがいいよ、こんな夜の暗い道で、人の手伝いなんてしないほうが賢明だよ、と思いながら、一抹の恨みがましさを感じてしまっていた。
暗い気分が収まらず、家に着いて放心したように座っていた。なにもかもが面倒。「なにもかもが面倒」がぶり返してきたぞ!w と笑って、味噌汁をあたため、おかずを盛り付け、たくさん食べた。
寝る前、管啓次郎。コンゴの話。墓地。
カトリック教会の隣にかなりの広さの、ぽっかり開けた空間があって、そこが墓地。緑がまったくなく、白い砂利の浜の延長のように見える。ひとつひとつのお墓は四角い区画に珊瑚礁のかけらや貝殻が多く混じった砂利をうずたかく盛り上げたもので、それを飾りつける。きらびやかな刺繍の入った布を着せかけたり、写真を飾ったり、造花をそなえたり、瓶入りの飲み物をそなえたり。横断幕のようにして何か信仰にまつわるトンガ語の言葉を記しているものもある。墓地そのものは荒涼とした姿なのに、どこかお祭りめいたはなやぎが飾りによって与えられる。キリスト教化されてはいるものの、こんなお墓は他のキリスト教国では見たことがない。盛り土がしだいに風に飛び雨に流されてゆくと、また白い砂利を運んできて山を作り直す。どのお墓も思い思いに飾られているので、特別な、たとえば「お盆」や「死者の日」のような期間なのかと思うと、そうではなくお墓は一年中こうしてきれいにしておくのだそうだ。島の人々に死者を思う気持ちが強いことは、黒一色の服を身に着けている人をときどき見かけることでもわかる。近親者が亡くなれば一年間は、そうやって服装で服喪を表すのだ。けれども墓地は明るい。ぼんやりと明るいのではなく、くっきりと明るい。満月の夜にはさえざえと白く明るく、そよぐ椰子の木のもとでにぎやかにざわめいているようにすら思える。 管啓次郎『斜線の旅』(インスクリプト)p.34,35
けれども墓地は明るい。ぼんやりと明るいのではなく、くっきりと明るい。
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