読書日記(130)

2019.04.07
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##3月29日(金)  スラックを始めたのは直接のきっかけは遊ちゃんが今いっしょに仕事をしている人が夫婦でスラックでトレロでスプレッドシートでという話を聞いて「愉快」と思ったことだがLINEに対する圧倒的な不信感というか決別したいと思ってということが最たるところで遊ちゃんが機種変更を先週したところトークの履歴が飛んだ。途中まで復元していたら途中で終わってそこでなにかゼロになった。問い合わせてみても埒が明かなかった。僕は僕で先月だったか今月だったかに機種変更したときに危うかったというか一部飛んだ。僕らそれぞれに何かしら不手際があったのだろうとは思うのだけどそういうことではなくてこの調子だったらものすごくたくさんの人たちが自分たちの宝物のような会話をあえなくふっ飛ばしている。それに対してケアをする気が全然ない。インフラみたいなものとしての自覚とか責任感とかが致命的に欠如していてだから不真面目で、僕は先日、週末だったか、遊ちゃんがデータが飛んだということを聞いたときにLINEへの怒りが「むおおおおお」と仕事中だったが上がってそれでしばらくピリピリしてしまって少しあとに横にいた山口くんを外に手招きで呼んで「ピリピリしててごめん」と言った。だからそれでそういうタイミングでスラックの話を聞いて「愉快」と思ってスラックに昨日から引っ越した。現時点でのLINEの最後の発言は僕の「ちょっと場所変えようか」で、「合コンかな? お持ち帰りかな?」というふうで「愉快」と思って、昨夜は帰ってからも二人でスラックをああだこうだ言って布団とソファの距離で画面を見せ合うことをせずにスラック上でスクショ画面を共有して見ていたりした。
そういうことだから読書をしている暇はなくて椎名誠を少し読んだがあまり乗れなくて吉田健一に移って体も布団に移して2ページで眠ったのが昨夜で、今日は起きて遊ちゃんの姿が見えたが遊ちゃんにiPhoneを取ってもらってスラックで「おはよう!」と送って一日が始まってトレロ、グーグルフォト。今日は寒い。最初の1時間で4人の方が来られて「昨日」と思った。
それでも今日も今日だった。
やることもそうなく、それで「「本の読める店」のつくりかた」を書いたら書けたので満足した。ぼんやり、だらだらと、いた。椎名誠を長々と読んでいた。昨日の夜に読んでいたところでちょっと自分のテンションが落ちたような気がしたが今日開いたらそういうこともなく面白いまま読んでいた。数日前、『親密さ』や『ハッピーアワー』のツイートを見かけて、そうか、今どこかでやっているんだな、と思ったことを思い出した。春。春の『親密さ』。いくつかの記憶。地下室。
メルマガの登録人数が150あたりで増えも減りもしないままずっと過ぎていく。増えたら減って、150あたりをずっと推移している。今日ふと、いや、150くらいなんじゃないか? という気になった。考えてみたらメルマガ以前の読書日記のアクセス数は毎回500とかそのくらいで、たしかSNSでシェアをする前にも見に来てくれるような方というのはどうやら150人とかで、ということをメルマガを始める前に見ていたのだけれども、だから、150くらいというのは妥当なのではないか、そして、それはなかなか増やせるものではないのではないか、とふと、思った。そう思ったから増やすことを諦めるのかと思ったらメルマガページの文言を少し書き換えたりしていた。
春。野球が、始まった!
球春が本日到来した。それで一気にうれしい気持ちになった。店は静かで人は少なく、野球場にみな詰めかけていたからしょうがなかった。日ハムは上沢で対するオリックスは山岡だった。
ちょこちょこと、野球のスコアを見ながら、働くというよりは本を読んでいた、途中でごぼうときのこの山椒味噌炒めみたいなものをつくってこれがおいしかった。
暇なのは、困る。それにしても、どうしたのだろう、いつもそう思うように「なんか俺やっちゃったっけ?」と思う。なんかやっちゃったりということはありうるだろうけれどそんなことでこんなふうになるものだろうか。あるいは謳い方が急進的になっているとかがあったりするのだろうか。怖い、というような。あるいは「「本の読める店」のつくりかた」での物言いが悪かったりとかもあったりするだろうか。排他的というような。あるいは定食の変更がダメだったのだろうか。あるいは「今日の一冊」改め「今日も読書」がいけないのか。あとは1月2月に疲れたしんどいきついみたいなことを書きすぎたとか。あるいはほぼ無休でやっていると平準化されるというかその分一日あたりの数が減るとか。2月はそうならなかったが。というか2月で全員来ちゃったとか。というか2月が忙しすぎて引かれちゃったとか。あるいはあるいは。とかとか。いつも思うことを思う。 他球場のスコアももちろん見ているが見ていると横浜の今永が7回まで0点で抑えていて100球くらいでその裏だか表だかに筒香が先制打を打っていて次に見ると今永は8回もマウンドに上がったらしく120球0点となっていて胸が熱くなった。今永は無性に好きな選手で今年は活躍する。どの球場も、スコアを見ているだけで胸が熱くなるいろいろがあった。山川穂高の満塁弾とか。前の打席も満塁で迎えてそれはセンターフライだった。
……と思ったら中田が満塁ホームランでサヨナラ勝ち……
泣くかと思った。今日は途中までずっと1対3で負けていてそれで近藤のタイムリーで追いついて次が中田でそこは凡退していた。そこまではずっと凡退で、というところだけ知っていたら今見たら7対3で勝っていてサヨナラ勝ちでそれは満塁弾しかありえないから「誰だ?」と思って見に行ったら中田だったときの感動。
レアードの逆転3ラン……藤原にプロ初安打……丸の4打席4三振……
野球が始まった!
閉店後、パ・リーグの試合のハイライト動画を見た。中田のホームランで鳥肌。どの試合のどの人もみんな全力でがんばっていた感動
今日も心細い一日だった 胸がザワザワしていた 一体どうした
帰宅して読書。椎名誠を開いたら椎名誠は店で読むものなのか昨日だかおとといだかも家で開いたら違っていてすぐに吉田健一に切り替えていたが今日はどうしたのか突然プルーストになって「それから私は電話口に出た、するとしばらく沈黙があったあとで、突然私はあのききおぼえのある声をきいた、いや、ききおぼえがあるというのは正しくなかった、なぜなら、いままで祖母が私とおしゃべりをしていたときは、私はいつも彼女がいっていることを彼女の顔のひらかれた譜面の上にたどっていたにすぎず、その譜面のなかに大きな場所を占めていたのは彼女の目であったのにひきかえ、彼女の声そのものをきくのはきょうがはじめてであったからである」とあって唐突によくて、途端によくて、今は一体なんの場面だったかな、どこにいるんだったかな、避暑地で乙女たちとともに過ごしているのだったかな、と思ったらドンシエールでサン=ルーのもとにいたのだった、そして祖母と電話をしていたのだった。しかしふいに互いの声が聞こえなくなる。
私の胸に波うつ不安は、遠い過去の昔に、小さな子供だったある日、群衆のなかで祖母を見失ったときに私が感じたのと同じ不安であった、それは祖母が見つからないという不安であるよりも、祖母が私をさがしているのを感じる不安であり、祖母がさぞあの子は自分をさがしているだろうとやきもきしているのを感じる不安であった、その不安はまた、われわれが、もう二度と答を返してくれない人々に、いっておく機会がなかったあれやこれやのことを、そしてもうわれわれが苦しんでいないという安心感を、せめてつたえることができたらと思って語りかける、そんな運命の日が私にくるとき、私に感じられるであろう不安に似ていた。私にはこんな気がするのであった、私がいま亡霊たちのあいだに迷いこませてしまったのは、早くも亡霊となってしまった一人のいとしいひとであると。 マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈4 第3篇〉ゲルマントのほう 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.224,225
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##この週に読んだり買ったりした本 マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈4 第3篇〉ゲルマントのほう 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)https://amzn.to/2F1r8vn
椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ(上)』(小学館)https://amzn.to/2OpwKRX
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)https://amzn.to/2T9uGTj