読書日記(121)

2019.02.03
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##1月22日(火)  昼過ぎ起き、今日はひきちゃんの日で仕込みもなかったから店は交代のときに行くことにしていたから好きなだけ眠ることにしたら昼過ぎ、いや11時過ぎだったか、に起きた、布団でiPhoneを触りながらうろうろしていた、起きて、奥歯が痛かった。
うどんのストックがないことは昨日の時点でわかっていたし煙草が切れることも計算ずくだった。コーヒーも飲みたいし、というところで家を出て、コンビニで煙草、スーパーでうどん、それから少し歩いてコーヒー屋さんに行きコーヒーを買い、家に戻った、午後で人々は活動していた。 家に戻りうどんのお湯を沸かそうかとも日記の推敲をしようかとも思ったが一番最初にするのは「アイオワ日記」を今の、なにかクリーンな状態で、読むことだった、それが今日の楽しみだった、それで『新潮』を開いた。あと10日でアイオワ滞在は終わりだった。
ずっと、ずっと、胸がいっぱいになりながら読んでいた、このいっぱいの胸はなんなんだろう、と思いながら、ずっと、さみしく、うれしく、幸せで、とにかく、いっぱいだった。
余って持って帰ってきた日本酒やたこ焼きなどをコモンルームに持っていくと、廊下からモハンの声が聞こえてきて、電話で誰かと話している。コモンルームに入ってくると、楽しそうに、自分の国でけんかが起こっている、といまの電話の内容を教えてくれた。
何のけんか?
詩人のけんか、と言って殴り合う動きをして見せながらたこ焼きのパックを手に取ったので、それ食べていいよたこ焼きだよ、と言い、うまく開けられないので開けてあげると、ひとつつまんで、指で丸をつくって見せた。
アマラが来て、お腹が減ったと言うので、たこ焼きをあげる。タコ? 私タコ食べたことない、とおそるおそる口にしたが、だめだったようで大笑いして、足をばたばたさせた。隣に座っていたモハンは、タコとは全然関係ない話をアマラの向こうのカイに話しかけているがカイは何のことだかわからず、何度も訊き返している。アマラはたこ焼きを諦めて、ボウルに入った魚のフライみたいのを食べはじめ、こちらは悪くないようで、どじょうに似ている、と言った。カイが誰かと電話をはじめた。モハンはラッパーの話をしていたらしい。ケンドリック・ラマーとか、JAY-Zとか言っている。私はビールを飲んでいる。モハンはコーラを飲んでいて、スマホをいじりながら、アマラに魚の話をはじめた。インドの南にあるモハンの街は海沿いで魚をたくさん食べる。英語がネイティブに近いふたりの会話は私には内容が拾えず、ふたりの向こうでは窓際に移動したカイが中国語で誰かと電話をしている。アマラがテーブルを何度か叩いて、なにか嘆くようにテーブルに突っ伏しておどけた。それを見てモハンは笑っている。テーブルの上には、何日か前にアマラが持ってきた大きなハロウィンのカボチャがある。アマラが自分でつくったと言っていたが、いつどこでつくったのか私は知らないアマラが箸を打って鳴らし、モハンが何か歌を口ずさんだ。アマラは、とうとう私は人生ではじめてタコを食べた! とサムズアップして両手を広げ、ガッツポーズをした。モハンがスマホをいじりながら、やったね、みたいなことを言い、アマラは、でも二度目があるかはわからない、とたこ焼きのパックを少し押しやって遠ざけた。
アマラとアウシュラが来て、バイサも来て、音楽を流し、踊り始める。モハンが、この曲が好きだ、と言ってYouTubeでエミネムをかけた。モハン、レッツダンス! とアラムが言い、モハンはぎこちなく身体を揺らす。 滝口悠生「続続続アイオワ日記」『新潮 2019年2月号』(新潮社)p.112
むねが、いっぱい、と思いながら、涙を目にあふれさせながら、読み終えて本を置くと、ベランダに出て室外機に腰を下ろして煙草に火を付けた。
目の前には梅の木があり小さな鳥が飛来して、その気配というかはっきりした枝の揺れる音で気づき目を向けると鮮やかな赤い実をくちばしに挟んでいる、と認識した瞬間にお尻からピュレみたいなものが垂れたのでフンをして鳥の排便はこんなにもシームレス、と思って鳥をそのまま見ていると赤い実が飲み込まれて、と思っていると目がなにかを感知して焦点を手前にずらすと梅の木に薄い淡い灰色がかったピンク色の芽が小さくついていることがわかって花が咲こうとしている。
そのあとは日記の推敲を2時間やっていた、今週も面白い日記だった、疲れ、寝ちゃうなと思い、おいしいコーヒーが飲める店に行こう、と家を出て、フヅクエに行った、ゆっくりそうだった、ひきちゃんにコーヒーを淹れていただいて、カウンターの端っこの席について、本を読んだ、『文化のなかの野生』を読んでいる。
これを言葉で表現しようとすると言葉は見事に私をだまし始めるのがわかります。というのは言葉は私を「われわれ」に変えた上で「われわれ」に対する責任を捏造する働きがあるからです。 中島智『文化のなかの野性 芸術人類学講義』(現代思潮社)p.84
その認識の上で紡ぎ出される言葉を読んでいる、僕はたくさんがしっくりとは体に入ってこなくてどういう態度で読んだらいいのかわからないでいる。
ひきちゃんと交代の時間になり、外でいくらかおしゃべりしたのち、交代し、佐久間裕美子を読む。ずっと面白く読んでいる。「どこに行っても、みんなが政治の話をしている。政治が日常のすべてに入り込んでいる」とあった。僕の日常に政治の話はまだ入り込まない。入り込むように、なるのだろうか、いつか。
暇。昨日も今日も暇でどうしたのだろうというか僕は暇で、体の疲れが抜けない。
夜になり、コーヒー屋さんの定期便というのかサブスクリプションのサービスを見かけ、それでウェブサイトでどういうふうに案内しているのかを見て、見たりして、他のお店や、それから「ロードサイダーズ・ウイークリー」であるとか、見、ふむふむ等を思い、メルマガ告知ページをどうにかしようという気になっていった。開始から20日、初動はもう終わった、ここまでは、もともと読書日記を知っていたりフヅクエを好きでいてくれたり、そういう人たちだったのだろう、方々、だったのだろう、ここからは、そうでない人たちというか、そうでない人たちをその気にさせないといけない、となったときに今の告知の書かれ方は不親切で、もう少し情報として整理されていないといけないし、なにかしら惹句めいたものも必要なのかもしれない、と思って、思って、閉店したら元気が余っていたのかやろうやろうと思ってやっていなかったエアコンフィルターの清掃をおこなった、きれいになった、今度はレンジフードのフィルター清掃を元気な日におこないたい、飯食い帰りの道すがら、ここで阿久津隆は告知者としての意識をあらためて検証します。「メルマガ、メルマガ、と阿久津は小声で繰り返した。私はこんな風に告知を書くべきだったのだ、この壁面のように、同じフレーズに何度も立ち戻り、書き直し、膨らみをもたせ、何層にも重ねて。私の告知はあまりに乾いていて、少しも練られていなかった」
家に着いてシャワーを浴びると意識は明瞭だった、パソコンを開き、項目を立てていく、必要に応じてページ内リンクを用い、また、フォントをゴシックにしたり、サイズを調整したりテーブルを組んでみたり、そして文言を書き換えたり、書き加えたり、していく、夢中になってやっていたら気づいたら4時で、4時半で、バカが、バカが、と阿久津は小声で繰り返した。眠くないが眠らねばならない、ベケットを開いて頼むから眠気に引きずり込んで、と小声で繰り返し、するとその願いは叶えられた。
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