読書日記(105)

2018.10.07
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#9月29日(土) 頭が朦朧としていて思い出せない、一日が終わった、雨で、この土日は雨ということだった、台風が来るということだった、予報を見たら途切れず二日間雨マークで、これはこの週末はもう惨憺たるものになるだろうなと思った、思って、今日が暇であることも確信していた、どうしてかはわからないが確信だった、台風が来て雨が激しくなるのは日曜の夕方以降という予報だったが今日も完全に暇になると、確信していた、その確信は間違っていないように見えた、実にゆっくりしたスタートで、まあ、そりゃそうだよね、むしろこんな日に来てくださる方いてサンキュサンキュ、と思いながら、ゆったり、いくつかの仕込みをやりながら営業していた、土曜日なので日記の推敲をしながら、営業していた、経理をしたりしながら、営業していた、とん、とん、とお客さんは来られ、その都度、こんな日に来てくださってなあ、ありがたいなあ、と思っていた、そうしたらそのとん、とん、の集まりによって、そしてみなさんゆっくりされていった、集まりによって、5時前に満席になった、でも、予期したようにそれは一瞬で、すぐにほどけるように帰っていく人が出てきて、そうなるよね、ここらがそういう時間帯だよね、入れ替わる時間帯、でも今日はきっとほどけてそのまま暇な夜になるそういう時間帯、夜は何を読もうか、『クラフツマン』を持ってこなかったのは失敗だったか、でも『エコラリアス』もあるし他のもあるし、何を読もうか、そう思っていた、思っていたら、そこからがとんとんという感じで、どんどん忙しくなっていった、席が埋まるというようなことはなかったけれども常にオーダーがある感じというかオーダーが重なりまくる時間帯があり、うわあ、これはヘビーだ、と思いながら、やっていたら、あれ、これ仕込まなきゃ、あれ、これもだ、それもか、みたいになり、どんどんとタスクが増えていった、夜、忙しかった、ずっとフルスロットルで働いていた、5時くらいからだから7時間以上か、休憩する暇もなくひたすら働いていた、完全な憶断で今日は完全に暇と決めつけていたからエンジンが暖まっていなかったというか暖める気がはなからなかったから、びっくりして仰天で、そのギャップもあったのかヘトヘトに疲れた、終わって、食べるものはなかった、ラーメンだラーメン、と思い、ラーメン屋さんは1時で閉まる、行かなきゃ、というところで一度店を出てラーメンを食べてビールを飲んで、大ライスを食べて、それでまた店に戻り、仕込み等の続きをして、ビールを飲んで、朦朧とした。
帰宅後、なにを読もう、と思って、ヘロヘロだし新しいものを読み始めるとかそういうのではない、と思って、プルースト。
一つの名が、事後に、われわれにとって、非常に深く心をとらえるあの茫漠性と新しさとをふくむようになるあの場合であって、そういう名は、たえずわれわれがそれに注意を向けているために刻々その文字が深く心にきざみこまれてゆくのであって、そのときの時間や空間の観念より先に、ほとんど「私」という語より先に、まるでその名の当人がわれわれ以上にわれわれ自身であるかのように、そしてその名のことを考えない数分間の無意識の休戦期限が切れると、何よりも先に意識によみがえるのがその名の当人の観念であるかのように、(目ざめの瞬間とか、気絶のあととかに)、そういう名は、最初に思いだされる単語となるのである(シモネの娘について、そういうことが私に起こるのは、数年後のことでしかないだろう)。 マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈3 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 2』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.191,192
##9月30日(日) 一転して、早起き、いつもより30分くらい早い、今日はやる気というかちゃんとエンジンを掛けるぞ、というか開店までに終わらせないといけない仕込みがいくつもある、必然的にエンジンを掛ける、知ってる、今日はきっと逆だぞ、今日こそ台風の日だった、今日はきっと逆だぞ、エンジン暖めまくって備えて、そして肩透かしを食らうことになるぞ、でも準備をしっかりしないわけにはいかなかった、それで、だから、今日もまたKOHHを聞きながら精力的に働いた、12時、開店時間を迎え、やるべきだったことはちゃんとできた、今日はもう働ききった、と思った。
午後、いくらかお客さん来られ、そのあと、「JR 首都圏の在来線 午後8時以降すべて運転見合わせへ」というニュースを見かけ、そんななのか! と驚いた、こんなん絶対フヅクエ来ちゃいけないやつじゃん、と驚き、今日は何をして過ごそうか。『GINZA』の原稿を書こうか、経理は、毎日コツコツやっているから溜まっていないが、せっかく末日なので今日の伝票も今日入力して、スパッと今月の数字がわかるようにしようか、おとといまでの数字を見ると今月のバジェットはすでに達成しているようで、よかったというか、よかったのかなんなのかわからない、達成したところでなんなのか、なにを目指したらいいのか、目指したらというか、どうなったら、いいのか、どうなる、べきなのか、どうある、べきなのか、今はわからない、数字を見てもときめかない、なので『GINZA』の原稿を書いたところ書けた。よかった。
それで、リチャード・セネットの『クラフツマン』を読み出した。6時には誰もいなくなった、今日はもうこれはもう本当に完全に読書だ、あと6時間もある、めっちゃ読む、と思って、読み出した、途端に、眠くなった、別に読みたくもない、そういう気分になった。読めなければ読めないで読みたいとなるし、読めたら読めたでたいして読みたくないとなる、すぐ飽きる、すぐ疲れる、それにしても今日のすぐはすぐすぎる。眠くて、明日更新しようかと思っているスタッフ募集の記事を確認した、こんなんで人が来るとも思えない、よくわからない。それから、『クラフツマン』の、ツイートするために、写真を撮って、ソファに寝そべって撮って、撮ったらいろいろ撮ってみたくなったらしく、それと明日のブログ用にも必要だしというところで、なったらしく、店のなかをいろいろと撮る、近づければかっこいいのかなというたいへん安易な方法でいろいろ撮る、すると安易でかっこいい写真が撮られたような気になっていい気になった。
それから、ブログを別に明日に更新しなければならないいわれはないので今日更新した、スタッフ募集。人が来ればいい。
そのあと、やっと落ち着いて読みだした。読んでいたら、双子のライオン堂に行く前に南青山で見た展示で本と箱を見て、目の前で造本家の方がそれを作っていった経緯であるとかを語ってくれるのを見て、聞きながら、すごいなあ、そうやってひとつひとつ、作っていくのか、寸分違わぬいろいろを、と思った、すごい手だ、と思った、手仕事、と思った、それで、双子のライオン堂で『クラフツマン』という本が目に入り副題が「作ることは考えることである」であり、結びついたのだろうと初めて気がついた。
「デミウルゴス demioergos」。クラフツマンの主神ヘファイストスに対するホメロスの賛歌、でクラフツマンを指した言葉。「公共の demios」「仕事 ergon」の合成語。
手を使うこと。
CADが初めて建築学教育に導入されて手描きによる製図に取って代わったとき、マサチューセッツ工科大学(MIT)の若い建築家は次のように述べたものだ。「用地の図面を描いたり、等高線や樹木を描き入れたりするとき、そうしたものはしっかりとあなたの頭の中に植え込まれる。コンピュータではできないようなやり方で、あなたは現場サイトを認識するようになるのだ。……地勢は、何回も図面を描き直すことによって認識されるようになるのであり、あなたの代わりにコンピュータにそれを「再生」させてもそうなる訳ではない」。これはノスタルジアではない。彼女の意見は、ディスプレイ上の作業が手描きに取って代わった場合に精神的に失われるものについて、述べているのである。他の視覚的な実践の場合と同じように、建築用のスケッチはしばしば可能性の像である。つまり手描きによって可能性を結晶化し精緻化してゆく過程で、設計士はちょうどテニス選手やミュージシャンと同じように前進し、その過程プロセスに深く関わり、それについて思考を成熟させてゆく。MITの若い建築家が述べているように、建築用地が「頭の中に植え込まれる」のである。 リチャード・セネット『クラフツマン 作ることは考えることである』(筑摩書房)p.80,81
感触、相関性、不完全なものは、図面を手描きしているときに生じる身体的=物理的フイズイカル経験である。まだ手描き製図ドローイングは、それ以外のもっと広い範囲の経験を象徴するものでもある。例えば、編集や書き直しをしながら文章を書いているときや、難解きわまりないある特別な和音の音色を究めようと繰り返し楽器を演奏しているときの経験である。何かを理解しようとするとき、困難や不完全なものは建設的ポジテイヴな出来事であるべきなのである。なぜならそれらは、完成した対象をシミュレーションしたり手軽に操作したりするときにはありえないようなやり方で、私たちを刺激するはずだからである。 同前 p.86
時間を掛けること。接触の回数を多くもつこと。たぶん、それは別に機械というか新しい道具を使うことがいけないわけではなくて、新しい道具を使うなら使うでその経験が身体化される程度に使いまくること、なんじゃないかと思うがどうか。
ということを僕はたぶん日記の文脈で思っているというか、手書きじゃなくてパソコンだけど、パソコンでもクラフトじゃない? と思っているのだろう。
一万時間の法則的なもので、一万時間。僕はどれだけの時間、こうやってカタカタと言葉を打ち込んでいるのだろうか。一万時間。今が32歳だから12年間くらいこういうことをわりとやっているとして、10000割る12は、833と出てきた、それを12で割ると、69と出た、今、この69という数字はなにを表しているのだったっけか、最初に割った12は年数で、次が一年の月数だったから、だから、ひと月69時間、ということだった、だから30で割ればいいのか、2.3との由。だから、この12年間、毎日2.3時間、ところで2.3時間というのは何分だろうか、1.0時間が60分だから、0.1時間は6分で、だから0.3時間は18分だった、2時間18分、毎日もし文章を書いていたら、僕はもうエキスパートの域に達していてもいいということでよかろうか、そんなにはもちろん書いていない、そもそも、書くとは、どれを指すのだろうか、タイピング技術ということだろうか、であれば、かなりいい線を行っているかもしれなかった、ちょっと、なんのことを考えていたんだったかわからなくなった、ところでフヅクエで働くのはじゃあどれだけ働いているのだろうか、4年。4年かける350日くらいだろうか、かける13時間くらいだろうか、18200と。ということはフヅクエに関してはエキスパート認定を受けた、僕はプロフヅクエということで間違いなかった、ということだったろうか、なんのことを考えていたんだったか。
10時になって誰もいなかったら店じまいにして帰ろうと決めていたので10時になって誰もいなかったので店じまいにして帰ることにした。ご飯を食べて、西武が優勝した、西武は今日は日ハムに負けたが2位のソフトバンクが負けたので優勝した、ご飯を食べて、帰ろうとしたあたりで雨風が強くなってきたらしかった。
歩きだすと、雨よりも風だった、刻々と向きを変えながら、強い風が吹いていた。途中、ゴオオオオと、水の流れるような、車が走るような、音がして、上り坂になっている脇道を見ると太い重い風が向こうを通っていくところだった。その風はこちらには影響を与えなかった。隔たった違う世界を見ているようだった。
風向きに正対するように傘をさして、体の前面を守るようなそういうさし方だった、車は走っていたが人間の姿は見なかった、雨脚が突然強まった、傘に当たる、だからすぐそこにある耳に直接聞こえる、音の密度が一気に上がり、高く低くうねりながら、細かく傘を打った、ここまでも少しずつ濡れていったズボンの太ももはまたたく間に濡れて、べったりとはりついた。iPhoneを、ポケットに入れていたiPhoneをこれは水浸しになるかもしれないと思い、お尻のポケットに移した。ビバババババ! と突風が向かいからやってきた、これまでもそういうふうだったが今度は完全に盾の要領で傘を向けて、必死に抑えて、体を踏ん張って、なにかが起こって傷ついたらいけないと後ろに顔をそらすと、すぐ斜め後方にまったく同じ姿勢の男がいた。
家に通じる道に入ると風がおさまった、雨もおさまった、静かになった、傘をもたない男がふいに現れて、しばし止まって、僕は追い越して、それから追われる格好になった、少し怖い気持ちがした、後ろを振り向くと男は走り出して、向こうに消えていった、家の前に着いて傘をたたもうとすると、骨が二本、折れていた。
まだ12時にもなっていなかった。明日も仕込みがほとんどないから夜更かしもできるような気になる。だいぶ長いこと読んでいられるぞ、と思ったら嬉しくて、風が轟々と部屋を揺さぶるように吹いていた、ときどき少し怖くすらなった、そういう風の何度かに一度は遊ちゃんも目を覚まして半分寝ぼけて頓狂な声を発した、ちょっと怖いよねえ、と僕は言った、言ったりしながら、ソファでウイスキーを飲みながら、遅くまで本を読んでいた。
##10月1日(月) 暑かった。汗をかいた。
たいして準備をすることもなく、ご飯を食べながら野球の記事を読んでいた、小谷野栄一の引退について触れられた二つのコラムを読んだら、涙があふれた。日ハム時代、最初、なんかチャラい感じがダサい感じがしていけ好かないんだよなあ、と思っていたら、どんどん好きになっていった選手の代表格だった(他には中田や西川)。小谷野は本当によかった。打率.272本塁打7打点57のような、想像上の数字だが、好みすぎる選手だった。頼りになったというか、とにかくなんだか真面目そうだった、服装がおしゃれそうな感じだった、パニック障害で途中苦しんで、それからも病気とともに送った現役生活だった、いちばんひどかったときは二軍にいたときで打席に向かえなかった、試合中に嘔吐をした、そのときの二軍監督だった福良が試合を止めて、いくらでも時間を使っていいから、と、待った。その福良が監督をしているオリックスにFAで移籍して、福良がチームを去る年に、引退した。
開店してしばらく働いていると、税務署から電話があった、税金はちゃんと納めているよなあ、と思いながら出ると、消費税の書類、届いていますか? という話だった、送られているんだったらきっと届いていると思います、と言った、開けてはいない、来年の31年の分から消費税の還付の事業者になる案内で、届け出を出してね、という話で、ということは32年の春とかに消費税を納めることになるということですね、というと、31年分の確定申告のときに、そうです、ということで、我々はあたかも、平成がこのまま続くかのように話していた。
それにしても、そうか、消費税か、というところだった、来年から外税にする、ということでいいのだろうか。お客さんからしたら値上げになるが、その上がった分は僕が代わって国に納めるだけだから、といってもお客さんからしたら値上げになるが、受け入れられるだろうか。2000円で済んでいたものが2160円になる、という変化は、どう影響するだろうか、しないか、しないといいな、と思った。
夕方から、『クラフツマン』を読みながら過ごしている、少し読んで、他のことをして、少し読んで、他のことをする、ということを繰り返している、本当に集中力がまったくない。「他のこと」のひとつはホットサンドメーカーを購入することで、これは僕の空腹に起因する。ホットサンド食べたいな、ということはしばしば思っていたことで、今日もそう思った、腹が減っていた、それで、調べ始めて、買ったわけだった、バウルー、というメーカーの、ダブル、というものだった、明日届くらしい。早くやってみたい。おいしいものができるならメニュー化したい。
暇な日で、スタッフ募集のお知らせをシェアし、するとたちまち応募があり、はやっ、と思った、いくらか掃除などをし、勤勉で、それから、11時には誰もいなかった、ソファで、30分と決めて『マーティン・イーデン』を読んでからご飯を食べた、『マーティン・イーデン』は、最初からいい、そこからもグッとよかった、本を読む人、それが描かれていた。ストラグルする人、俺はやっぱり好きだよ。
##10月2日(火) 朝、起き、遊ちゃんとパドラーズコーヒー。外の席でカフェラテ。気持ちいい。10時半、出、店。11時から取材。楽しく話す。1時間はあっという間だなと思い、終わり。12時、少しだけ仕込みし、ひきちゃんと外で歓談と連絡事項の伝達をおこない、出。帰宅。うどん茹でてかぼすしぼって食う。洗濯機が回っている。仕事の電話をしていた遊ちゃんが取りに行ったので受け取って、干す。遊ちゃんは話しながら器用に干している。いくつかをどさっと僕の手に渡したので、ボソボソした声で「タオルは一枚ずつしか持てない」とつぶやき、それから、電話口から「ちょっと原点に帰って」という言葉が聞こえたので、「ちょっと原点に帰ります」とボソボソつぶやき、笑わそうとしたら僕がいちばん笑った、遊ちゃんは廊下の奥に避難した。
遊ちゃんが仕事でどこかに出、僕もそろそろ本を読もうと、『マーティン・イーデン』開く。すっかり面白くなっている。開き、どこまで読んだかな、と思って、ここだった、と読みだすと数行後、
彼はこの世のこの上ない美に悶々とし、ルースと一緒にその美を共有したいと願った。それで、南海の美の断片をいろいろと彼女に書いてみてやろうと思った。すると、内にあった創造的精神が燃えあがり、ルースだけでなく、もっと多くの聴衆のために、この美を造りなおしてやろうという気に駆られた。さらに、後光を受けて、すばらしい考えが浮かんだ。そうだ、物を書くんだ! 目や耳や心になってやるんだ。それらを通して、世の中の人たちは見たり聞いたり感じたりするんだ。書くんだ——何もかも——詩や散文、小説や叙事文、それにシェイクスピアのような劇も。 ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』(辻井栄滋訳、白水社)p.92,93
という箇所にぶつかって、高揚した。それから、ブルーハーブの「ILL-BEATNIK」が頭の中にあった。「偉大な哲学者達にはとても及ばないが、進むという点においては、成し遂げるという点においては、ブッ飛ぶという点においては、物を書く、奏でる、踊る、感じるという点においては、百年前と何もかわらねえ」という箇所だった。先は長い、深い、言葉にならないくらい。歌詞は調べた、調べたら2009年のサマーソニックのバージョンも、前も見たことがあったが、久しぶりに、と思って見たら、すごかった、2001年のフジロックバージョンの方が好きだけど、2009年もすごかった。
で、本に戻り、読んだ、そのあいだマーティンは書いた、読んだ、恋をした、しばらくしたら眠くなった。
まったく集中されなかった。キャッチボールをしたいなと考えていたところ、明日キャッチボールをすることになって喜んだ。まったく集中する気配がなかった。こんなに読むのにおあつらえ向きの日だったのに、さっぱりだった。夕方、そろそろ昼寝をしようかなとタオルケットをかぶっていたところ、遊ちゃんが帰ってきて、話した、欲望、美意識、それ大事、ということを話して、遊ちゃんは今度は歯医者に行くために出ていった、そうしたら妙に寂しく、悲しい気持ちになって、しょうがないので、寝た、いい気持ちになって、暑くなってきて、アラームで、起きた、僕も出た、皮膚科に行った、調子は変わらずですか、と言われ、手荒れがひどい、と手を出したら「あそう」という感じで一瞥するだけで「じゃあいつもの薬でいいですかね」という感じになったから、この人は本当にやる気がないよなと呆れて、手がひどいんです、と手を見せて、別にどんな助言も要らなかったが、見ろよ、と思って、手を見せた、で、出た。まだ時間があって、フヅクエで本を読んでというのでもよかったが、営業中の店に足を踏み入れるというのはどこか闖入者的な感覚が僕のなかにある、恐れのようなものがある、店主なんだけどな、と思いながら、あるので、ある、店主よりもフヅクエが偉い、それで正しい、なので、なのでというかドトールに入ってコーヒーをすすりながら『クラフツマン』を今度は読んでいた。
文化は、啓蒙運動のことが書かれていた、文化は、とメンデルスゾーン、ドイツの哲学者であり啓蒙思想家、とウィキペディアにあった、作曲家の祖父ということだった、メンデルスゾーンによれば文化は、「よい行儀作法や洗練された趣味ではなく、「したりしなかったりする事柄」からなる実際的領域のことである」とのことだった、「日常に生起する「したりしなかったりする事柄」はいかなる抽象的事柄にも劣らず価値があると信じていた」とあった。
夜、店、ゆっくり、働いたり働かなかったりしていた。昨日シェアしたスタッフ募集のツイートがずいぶんシェアされて、よかった、たくさんリツイートされていた、このツイート及び記事は目論見としては募集それ自体に反応してくれる人に対してでももちろんあるけれどもきっといつもよりリツイートとかでインプレッション数が増えるんじゃないかと思ったから、フヅクエの存在を知らなかった人にも、そんな素敵げな店があるの、と知ってもらう、ということも念頭に置いて書いていて、だからいい宣伝になったならばよかった、と思って満足した。
閉店後、ホットサンドメーカーを出してホットサンドをメークした、メイクした、メイカーで、して、おいしかった、最初はわりと焦がしたがそれでもおいしかった、鶏ハムとチーズ、それで、夜ご飯はそんなのでは到底足りないのでトマトソースとチーズで第二弾を作って食った、それもおいしかった、満足して帰った、帰って、遊ちゃんとぺちゃくちゃおしゃべりをしてから、『クラフツマン』を読もうとしたら酔っ払っていて眠かったため『マーティン・イーデン』を開いた。
おまえは誰だ、マーティン・イーデン? その夜、自分の部屋にもどって来て、彼は鏡に映った自分に自問した。長いあいだ、物珍し気に鏡を見つめた。おまえは誰だ? おまえは何者だ? おまえの階層はどこだ? おまえは、当然リズィー・コノリーのような女と同じ階層にいるんだ。おまえには踏んだり蹴ったりの苦労、低級で下品で汚いものが合っているんだ。悪臭にまみれた汚い環境にいる雄牛や、あくせく働く連中が合っているんだ。今だって、腐りかかった野菜があるじゃないか。あのじゃがいもだって腐りかけだ、においを嗅いでみろ、ちくしょう、嗅いでみな! それでも書物を開いたり、美しい音楽を聴いたり、美しい絵画を愛好したり、正しい英語を話し、おまえと同じ階層の連中などには及びもつかない思想をめぐらしたり、雄牛やリズィー・コノリーを振り捨てて、おまえなどからは百万マイルも隔てた星々に住む女性の蒼白い精霊を愛そうって言うのか? おまえは誰だ? 何者だ? ちくしょう! うまく行くとでも言うのか? 同前 p.123,124
おまえは誰だ、阿久津隆? と、6月とか7月とか8月とかに思っていたよな、ということを思い出した。
##10月3日(水) 起きたり起きなかったりしながら遊ちゃんと話していたら餃子を食べたいような気になって、遊ちゃんは午後遅い時間からしか用事がないようだったから、中野坂上行こうか餃子、と言って、起きて、家を出て、中野坂上にバスで行った、大竹餃子に行った、優くんがプロデュースというのか立ち上げの片棒を担いでいた、一度行ってみようというそういう大竹餃子だった、僕は焼餃子定食で遊ちゃんは紫蘇の入った焼餃子定食で水餃子を単品で頼み、ビールを、飲みたい気にもなったが飲まなかった、餃子はとてもおいしかった、野方餃子とまったく同じなのだろうか、わからないが同じようにとてもおいしくて、これはおいしい餃子だよなあ、と思って、満腹になった、満足した、急速に眠くなって馬鹿らしさに笑った、バスで、戻った、中野坂上はたくさん、高いビルがあって、働く人口を数えたところ5万人だった、東京ドームに入りきらないぐらい、ということだった、もちろん、グラウンドを開放すればもっと入る、グラウンドを開放したら、どれくらい入るのだろうか、そもそも中野坂上の労働人口5万人というのは僕の指が勝手に打った数字であってなんの根拠もひとつもなかった、想像もつかない。
ウィキペディアを見ると、「1日平均乗車人員」がメトロと大江戸線で2017年は合わせて5万5千人ほどで、なんか、わからないが、規模感はそんな感じで、僕の予想を遥かに上回る僕の直感の精緻さが実証されたということだろうか。でも乗車人員というのはどういうものなんだろうか、「1日平均乗降人員」というのもあった、というかそちらのほうが先にあった、これを見ると11万5千人ということだった、2017年。乗降ということは、中野坂上駅で電車に乗る人と、降りる人の数で、乗車人員は、乗った人の数だった、5万と11万。住んでいる人は、こうだ。つまり、乗って、降りる。働きに来ている人は、こうだ。つまり、降りて、乗る。どうだ。
わからなくなって、家を出た。
内沼さんのところに行って打ち合わせ。今晩なにか映画を見たいかもなと思っていたところだったので映画の話を差し向けてみると『黙ってピアノを弾いてくれ』がよかった、感動した、うれしくなっている、というようなことをおっしゃっていて、ほうほう、と思った。
『読書の日記』の今の売れ行きを仔細に教わり、それから、第二弾について、双方の思っているところを話した。なんというか、これは先週だったかにちょっとそういう話を聞いて、それで今日打ち合わせということになったのだけれども、先週だったかにちょっとそういう話を聞いたとき、うわあ! と思った、というのは僕も日記二年目も終わるしまた本になったりしたら楽しいけれどもどうなのかなと思っていて、大した利益も生まないだろうし労力は大きく掛かるし、版元として、もう一度やろうという判断はなかなかやっぱりしづらいのではないかな、と思っていた、だから、どこか他の出版社が声をかけてくれたりしたらいいかもなあそれ待ちになるかもなあと思っていた、そうしたら続きもやりたいんですよねと言ってくださって、他から出るっていうのは違うというかそれは癪というかそれはうちがやりたいと思ったんですよねと言ってくださって、うわあ! なんてっこった! かっこいいなあ! うれしいなあ! となった、のが先週だったかのことで、それで話した、その結果、第二弾は出る、なんならずっと続く……。ずっと出し続けることを前提に、高山なおみの『日々ごはん』のように、これはアノニマスタジオからずっと出続けていて今はどうも16冊まで出ているようだ、ずっと出し続けることを前提に、続けていきやすいやり方を考えましょう、判型もそうだし進め方もそうだし、ということになった。それで僕は、すごいぞ、内沼晋太郎、と思った。
あれこれ、話し、事務所を出るときに「今日の話って日記書いて大丈夫ですか」と聞くと「なんでも」とのお答えだったのだけれども、この問いを発する感じは我ながらバカみたいでいいなあと思って、笑って、出た。
家に帰り、僕の人生は本当にちょっと内沼さんに相当のところ導いてもらってのものであるなあ、足を向けては寝られないが、向けてはいけない先は、事務所のある代々木八幡方面なのか、お店のある下北沢方面なのか、青森なのか、長野なのか、神保町なのか、他にもきっといろいろ津々浦々行かれているだろうから、ソウル、台北、足を向けないことを意識したら立って寝るしかなくなってしまいそうだから、気にしないで寝ようと思った、思わなかった。
夕方、遊ちゃんが戻ってきて、今日はキャッチボールはなくなった、戻ってきて、さっきの話をした。それから映画を見に行こうかということになり渋谷に出た、またシネクイントだった、頻繁なるセンター街。サービスデイだった。それで、『黙ってピアノを弾いてくれ』を見た。チリー・ゴンザレスと名前を聞いて、あの人かな、白黒のジャケットの、という程度にしか知らないが、よくよく考えたらその白黒のものである『Solo Piano』とその2は、岡山のときにずっと店で流していた、とても好きだった、そういう人だったがどういう人なのか等はまったく知らなかった、それで見たから冒頭からびっくりした、ずっとびっくりしていて、それで、かっこよかった。
いろいろを経て『Solo Piano』を発表して、というあたりからずっと感動していて、ウィーン交響楽団とのコンサートのところとか、すごかった、感動していて、でも決して『Solo Piano』の場所に安住しないのだということが映されていて、もっとずっと感動した。変化をいとわないことというか何かをずっとやっていたら変化は起きることが自然だけれども受け手はそれを自然のことと思う訓練がたぶんそんなにされていない、あの名曲はあの演奏で聞きたい、そんなアレンジは余計、俺の思い出をそのまま演奏してくれよと、思わないでいられる人はもしかしたらそう多くない。ライブは現在の場であるはずだが過去の再演もっといえば再現を期待しないでいられる人はもしかしたらそう多くない。あの曲のイントロが聞こえたときに他の曲のときよりも盛り上がらずに済ませられる人はもしかしたらそう多くない。思い出を聞いている。変化しようとしたときそれはそれを仕事としてやっている人にとってはそれなりに怖いことであるはずで、なぜなら今ついてくれている人たちがそっぽを向いてしまう、彼らを置いていく、そういうことになるかもしれないからで、怖いことであるはずで、そういうだから変化を、いとわない、チリー・ゴンザレスの場合はもしかしたら「どんどん変わっていく人」というポジションを手に入れているのかも知れなくてそうだとしたらいくらか変化のハードルは異なるのだろうとは少し思ったが、とにかく、いとわない、自分の思うままに、思うというのはこの場合きっとそこまで能動的ではない、完全な受動でもない、中動態的な思うそのままに、足の進むままに、違う景色を見にいくその姿に、こっぴどく感動したらしかった、盛り上がった、元気になった、うれしくなった、こういうことか。
すごかったねえと話しながら、一度家に寄り、それから店に行った、鶏ハムをこしらえないと明日出せない、ということがあったので行く必要があった、鶏ハムをこしらえ、そのあいだに他のことも少しやり、遊ちゃんはソファで仕事をしていた、それが済むと向かいの居酒屋に入ってビールを飲んだりあれこれを食べた、ホタテの生海苔のやつがとてもおいしくて、これおいしいですねえ、というと、それ残りのところにご飯混ぜて食べるとやばいんですよと教えてくださり、ご飯を乗せてもらった、で、食べたらやばかった、きのこのきんぴらもおいしく、これは今度店で作ろうと思った、あれや、これやと話して、愉快な時間を過ごした、過ごして、帰った、地震速報が鳴った、それから、町のスピーカーみたいなところからくぐもった男性の聞き取れない言葉が発せられた、地震が来るのだろうか、と思いながらいささか緊張していた、いささか緊張していたがいささかだった、遊ちゃんはもっと怖そうな顔をしていた、こわばっているような感じもあった、震災のとき、遊ちゃんは福島にいた、僕は岡山にいた、僕は震災を知らない、僕の怖がっていなさは無意味な無価値な怖がっていなさだ、僕が怖がっていないのはただ知らないからというそれだけだ、それだけだった、地震は起きなかった。
寝る前、『マーティン・イーデン』を開いた、今日初めての読書だった。おとといくらいの時点では水曜は一日家で本読んで暮らそう、と思っていたが、たいがいの時間を外で暮らした。 マーティンは、ルースにこれまで書いたものを読み聞かせていた。どう思われましたか?
「ちょっとまごついたわ」と、彼女が返答した。「全体的にはそうとしか批評できないの。話にはついて行けたけど、余計なことが大分多すぎたようね。冗漫すぎるの。いろいろと関係のないものまで入れるから、筋の運びがうまく行かないのよ」
「そのところが大事な主題なんです」と、彼は急いで説明した。「底流をなしている主題、広大で宇宙的なものというわけです。何とか話そのものと調子を合わせようとはしてみたんですが、そんなことをすると、結局、深みがなくなっちゃうだけなんです。手がかりはうまく得たのですが、やり方がまずかったようです。自分の言いたいことを、それとなくうまく示せなかったんです。でも、そのうちいつか覚えます」
彼女は、彼の言うことがわからなかった。文学士だったけれど、彼女の限界のかなたに彼がいた。それが彼女にはわからず、わからないことを彼の話の筋道がはっきりしないことのせいにした。 ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』(辻井栄滋訳、白水社)p.150
教師が教え語に乗り越えられるときの気まずさというか気詰まりがあって、気が詰まった。滑稽さもつきまとった。冒険だった、読んでいると、途中、『ストーナー』を思い出すことがあった、次の読書会はこれでやろうかと何度か思っているが、なんでかためらっているところがある。
##10月4日(木) 朝、今度は「Number Web」で小谷野栄一の記事を読み、読んだら、また涙がじっとりと溢れた。僕は小谷野がすごく好きなんだろう、そんな気ではいたが、よりその気が強まった。思い違いがいくつかあった、オリックス移籍当時は福良は監督でなくてヘッドコーチだった、嘔吐はその一番ひどい時分だけでなくオリックス時代も続いていた、「試合前は毎日吐いていましたし、チームのみんなも見てましたけど、それでも野球がやれるんだったらという思いだった。それが僕の個性だから」とあった、「僕、最初、超ビックリしちゃったんです。でも栄一さんは、『気にしないで。オレ、これしないと試合に入れないから』って」とあった、小谷野栄一。どのタイミングで好きになったんだろうな、思い出せないな、とても好きだったな。
たいしてやることのない日だったが、だからのんびりと過ごすのだろうかと思ったが、夕方、友人が今度やるお店のことでどうのこうのということだったので差し支えなかったら事業計画書見せてもらえますかと尋ねたところオッケーとのことで、送られてきて、僕は胸がひたすらにワクワクするようだった、楽しい! 楽しい! 楽しい! となり、それでExcelで皮算用というか試算というか、ここに記されている売上目標が現実的なものなのかどうか検討しようとExcelで皮算用というか試算というかをして、した、したら、夕方以降はひたすらそれをしていた、暇な日だったわけではなかった、平日としては妙に忙しいというかコンスタントにお客さんがある感じがあり、最終的には「調子のいい金曜かな?」という数字に着地するそういう木曜だったから暇な日だったわけではまったくなかったが、隙間隙間はとにかくExcelとたわむれていた、40人とあるけれど、9時間営業で10席で40人ってどういう感じなんだろうな、滞在時間をどのくらいに見ているんだろうな、仮にフヅクエと同じで2.5時間だとしてみると、どうなるんだろう、と計算してみたら計算してみるまでもなくはみ出した、じゃあこれ滞在時間的にはどのくらいだったら回る話だろう、と、思い、フヅクエの最大値というか限界値というか、今年でいったらそれは35人という日で去年とかもそのぐらいの日があった、30人を超えることなんてまずありえなくて、年間でも数日だろう、片手で足りるくらいの数日。だからその、だからというのかその、例えばその今年の一番だった35人の日の平均の滞在時間を見るとやっぱりきれいに2時間半で、正確には2時間24分、立派な日だなあと思うわけだけど、だからその、フヅクエの限界値はここだ、10席、平均2.5時間、3.5回転。それは、席はつまりどのくらい稼働しているということなのだろう、と計算したら70%ということで、100%だったら10席すべて12時間埋まり続けているというそういう100%での70%ということで、仮説:もうめいっぱい! これ以上はどう考えても無理な気がする! という日の飲食店の席の稼働率は70%。それで、じゃあその9時間営業で10席で4回転させたい場合、滞在時間をいくつに設定すれば稼働率70%になるのだろうか、と考えてみて、この理路でいいのだろうか、なにか間違っているのではないだろうか、と思いながら考えてみた、そうしたら1.5時間だった、平均滞在時間1.5時間の店であれば、限界まで稼働したら40人いける、ということがわかった、そして、それはあくまで上限で、そんな日があることは考えないほうがいい、ということだった。じゃあ、どうしたら、4年目のフヅクエの現況をひとつの基準にしてみるならば、等々、ずーっとずーっとExcelをいじりながら、考えた、結果、まあ、そりゃそうなんだけど、単価が上がればいろいろ解決、ということではあった、そんな話だったか。でもやっぱりというかやっぱりなのかわからないが結局、欲望と美意識でしかないというか、欲望と美意識が設定されればやることというか取るべき態度はわりと自ずと決定される気がする、それだけ、考えればいいように思った。
思うんですよ、そういうふうに、と、閉店後、LINEをしていた、そうしたらまた楽しくなって、ああだこうだと好き勝手なことをたくさん言って、楽しくなった、気づいたら2時で、まずいまずい帰らないと、というのでおしまいにした。
帰って、帰ると遊ちゃんはまだ起きていて、夜に『寝ても覚めても』を見てきたらしかった、怖かったということだった、終わりの引っ越した家の前で子どもたちが遊ぶ、ボールが転がってくる、投げる、亮平がいる。そのことを遊ちゃんは言った、つまり、冒頭が川、子どもたちの遊び、爆竹、麦、だった、終わりも川、子どもたちの遊び、ボール、亮平、だった、うわ〜そうだった〜! と思った。それから、キッチンに突っ立っている朝子の姿のこと。
あれこれと話していたら4時近くになっていて、あっぶねー、と思って、本を読んでいなかった、寝るときは何かを読んでいたい、ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』をだいぶ久しぶりに開いて、開いたら9月25日くらいの記述だった、少ししたら今日に追いつけそうだった、読んで、そうしたら面白くて、寝た。
##10月5日(金) 朝、「文春オンライン」で矢野謙次の記事を読み、読んだら、また涙がじっとりと溢れそうになった、ぐっとこらえた、とどまった。なんだか今年は感傷的だ。感傷ではないか、ではなにか。
今日やることになる仕込みはこのあたりだろう、と思っていたものがいくつかあった、開店してから、減り具合を見ながら、今日やっちゃう、やるのは明日、そういう判断をしていくことになる、開店して、減っていく、定食が出ておかずが減るたびに、あれ? あれれ? もしかしてあれも? それも? これも? と新たな仕込みが発覚というか発生していって、結果的に、ものすごい量というか種類というか、とにかくヘビーな仕込みになった、それを、あれ? どうしたの? 土曜だっけ? というような忙しい営業になった午後、夕方、夜、てんてこ舞いになりながらひたすらがんばった。がんばってがんばってがんばった。
すると11時になってやっと座ることができた、今日は雨だったから外で一服するときも階段が濡れているから座れないから今日の「一日中立ちっぱなしだった」は深刻に本当にその通りのそれで、当然、へとへとに疲れることになった、働きながら、なにを考えていたんだっけか、全部忘れちゃったな、と思った、思い出せるのは朝に見た夢だった、戦場だった、つきまとい続ける恐怖と不潔な環境に心底うんざりしていた、ぬかるんだ道を歩いていた、上官から集合の声が掛かって、敵意や憎悪は身内に向くもんだなあ、と思った。敵国というのか敵軍というのか敵兵というのかのことが意識にのぼることはまれだった、それよりもよほど上官に対して具体的な殺意を感じていた、たぶんそんな調子だった。
閉店後、小谷野栄一の最後の打席を見た。名前がコールされ、ベンチから出てきた。最初から泣いていた。しばらくネクストバッターズサークルで屈んで、涙を押し戻そうとしていて、それから、立ち上がって、素振りをした。審判とキャッチャーに深く一礼して、それから、打席に立った。腕で何度も目を拭った。とっくに僕も泣いた。投手に一礼をして、構えた。いい顔をしていた。初球、ファウル。ヘルメットがずれるようなフルスイング。二球目、空振り。福良監督も泣いていた。はっきりと泣いていた。三球目、ショートゴロを打った。試合が終わった。いい打席だった。
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