読書日記(92)

2018.07.08
diary92.png
#6月30日(土) 起きると先に出た遊ちゃんの書き置きが二枚テーブルにあり、一つは冷蔵庫にあるマスカルポーネを持ったかどうかのリマインドで(いつも買っているところが品切れで、売っていそうな店で買ってきてもらっていた)、もう一つは外を見てみて、とのことだったので見てみると、一階の大家さんの庭の木が二本、ちょうど目の前で茂っている、一本は梅で、しなしなした葉っぱ、もう一本の名前のわからない何かいくらかエキゾチックな感じのある木のその濃い緑色の葉っぱたちのてっぺんに桃色の花がすっと、これから開くその花が、すっと、一つだけ際立つような姿で伸びていた、晴れていた。紙の余白に下手くそな葉っぱと花の絵を書き、ピンクの蛍光ペンで花の部分を塗って、家を出た。
煮物をこしらえ、ケーキを焼いて、飯を食って準備をし、店を開けた、忙しい土曜日になって、がんばった。なんでそこまでがんばろうとするのだろう、というがんばりかたをした、なんでこの状況でそこまでやろうとし、そしてやれちゃうのだろう、という様子でカレーとショートブレッドを作った、つまり、がんばった。
閉店後、飯を大量に食い、食ったまま、眠りそうになった。
ぼんやりしながらエゴサーチをしていたところ、店と本についてのうれしい紹介ブログと、それから「宇多丸さんのラジオで紹介されてて読み出したんだけど、読み心地がすごくいい。色んな本を読みたくなる。読み方にこだわらず、それに書くことへのハードルも下げてくれる。うれしい。」というツイートがあって、この、読むこと書くことへのハードルを下げてくれる、という受け取られ方は、すごくうれしいものだった、それで、なのか、ふと、『読書の日記』を読み始めた、そのまま50ページくらい読んでいた、面白い日記だった、最初の時期は、やはり一日あたりの分量が少なかったのだなあ、今と比べてずっと、と思った、なのでどんどん進んだ、それは、だからその分量が少ないことは、きっと悪くない始まりだろうなと思った、いきなり毎日何千字も書かれているよりも、たぶんそれこそ読み出しのハードルを下げる効果はあるように思った、狙ったわけではもちろんなかったそれは、いいことだった、と、思って、ぼーっとしていた、顔全体がぼーっとしている。体全体が。
##7月1日(日) 昨日から怪我をした指先に絆創膏を貼らずに過ごすようになった、それまでは貼り替えながらもずっと絆創膏をしていたため剥がしたときも白くふやけていて気づかなかったが、爪がたくさん伸びていた、皮膚はまだ薄く、痛くはないが刺激が通りやすく、なんとなく爪切りを当てる気にならない、でも爪が長いのもみっともないというか一本だけおかしいくらい長い、こうやって、タイピングしていても、絆創膏をしていたときには気づかなかったが、爪の長さの分だけいくらか打ちにくいというか誤差が生じる、絆創膏をしていたとき、なんで気がつかなかったのだろうか。
朝から疲れている、全身が重い、昨日は風邪を引いたかと思ってビクビクしながら寝た、ビクビクはしていなかったが、鼻水が止まらず、なんとなくぼやっとした感じがひたいのあたりにあるような、そんな感じで、まさか夏風邪だろうか、ありうる、と思って、それから、本を持って帰るのを忘れたため家にあった若林恵の『さよなら、未来』を読んだ。はじめから順番に読んでいったが、とても面白くてこれじゃあ眠くなるものも眠くならない、と思って面白く読んでいたが、きっちり眠くなったので眠った。
朝、疲れている、全身が重い、風邪ではなかった、よかった、準備をした、開店前、コーヒーを淹れながら考え事をしていると、水のポタポタいう音が聞こえて、外で水撒きでもしているのかな、と思ったり、経年で排水管がどうこうになってどうこうになるようなこともこれから起きるんだろうなあ、と思ったりしていたところ、ラッセルホブスのケトルに水を張っていたところあふれて、本棚のほうに流れて床に落ちるその音だった。コーヒーを淹れているあいだに浄水をケトルに溜めて、また沸かして、というのが流れなのだけど、これまでは豆を蒸らしているあいだに片手でケトルを持ってそれで水を入れていたが、これはもしかして繰り返したら腕が肩が疲れるその要因になっているのではないか、と思い、浄水器の位置を工夫し、酒瓶が乗っている本棚の上のところにケトルを置いて、そこで溜める、ということをするようになった。こういう、うっかりがあるから、受け皿を置いて、やっていたが、うっかりし続ける、ということがしばしば起きて、もう何度目だろうか、けっこう何度も同じことをやってしまっている、意識から全部抜け落ちて、間に合わなくなる、安部公房の文庫が最たる被害者で、それから阿部和重や中原昌也の単行本、舞城王太郎の文庫、その下の大判で横向きに積んでいるいくつかの漫画、そのあたりに対して申し開きができない事態を何度も生んでしまっている、悲しい。それで今日も被害者はそれらで、あわわわ、と思い、コーヒーを淹れる手を止め、布巾を持って慌てて本棚の方に行き、本を救助し、棚を拭き、いらだち、憤った。
考え事は昨日から考えている『GINZA』の連載のことだった、どういうふうにしようか、と考え、こうかな、とか思ってメモ帳に思いついたことをメモしたりしていたら、すっかり水のことを忘れていたかっこうだった、その分、いい原稿が書けたらいい、とそのときは思わず、いらだち、憤った。
店を開けてからもなんだか疲れていて、疲弊、倦怠、あんまり働きたくないな、と思う一方、ちゃんとお客さん来るといいな、と思った、思いながら、働いていた。働きながら、日記の推敲をしていた、今週も長くなった、先週同様1万7000字ほどあった、土曜日に、テキストエディタ上で推敲し、日曜にアップし、アップした画面上で改めて推敲する、というのが流れで、土曜日に整ったと思っていても日曜に改めて読んでみると何箇所も直す箇所は見つかるもので、何箇所も直した、つまり、日曜の午後くらいにアップされている日記というのはまったく未完成の、不完全のものということだった。
なんだか本当に疲れていて、体が疲れを表現していて、いつになく表現していて、とてもだるいことになっている、瓶の煮沸という、シロップに使う瓶の煮沸という、非常に簡単なタスクでさえも、取り掛かる前、面倒くさい! という気持ちに阻まれて、なかなかやれなかった、やりだしたらこんなに簡単なことはなかった。
夜、暇な日になった、やることもなかったので『GINZA』の文章を書こうとした、四苦八苦と試行錯誤を数時間したところ、書けた、書けたので満足して送った、もともとは休みの日にやるつもりだった、なので、これで休みの日にちゃんと休める、映画を見に行ける、と思ってうれしくなった、それでうれしくなって、送ったので、それから本を読もうかな、と思ったところ、そうだドリップバッグを作らないと、となって作った、作り終わり、本を読もうかな、岸政彦、と思ったところ、そのあたりでお客さんがゼロになって、10時半くらいだった、じゃあ文字起こししようかな、と思ってやり始めたところ、やはり止まらなくなって、途中で鶏ハムの仕込みをして、文字起こしをして、して、して、とても幸福な時間だった、保坂和志さんは、見た人が言っていたが、とてもうれしそうな顔をしてしゃべるよね、ということを何人かが言っていたが、まるでおいしいものを食べているときみたいなしゃべりかたをしていたよね、ということを何人かが言っていたが、聞いていてもとても気持ちのいい、明るい、元気な、素敵な声とトーンで、いいなあ、と思って、幸福な時間だった。
帰り、帰ったところ、エゴサーチをしたところ保坂和志の引用部分がとてもいい、というものがあって、『未明の闘争』のこれとか、とあり、『未明の闘争』の引用ってどんな感じだったかな、と思って『読書の日記』を開いて、開いたところそのまま読み始めてしまい、読んでいった、1月の終わりから2月の真ん中くらいまでか、わりと長々と読んでいた、面白くて、面白いなあと思った。
寝際、『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』。
##7月2日(月) 歩いて店に向かっていたら気持ちのいい青空で暑さは気持ちよさをとうに越えていて、着いたらアイスコーヒーを飲みたい、と思い、水出しコーヒー今年も始めないと、と思って、思った。それから、早いところTシャツを店頭に並べないとな、夏に売らないでいつ売るの、と思い、朝、遊ちゃんにその気分を述べたところ、ハンガーラックが夏場は空いているのだからそこに掛けたらいいのでは、と言われて、そりゃそうだ、と思ったのでそのようにした、白いのが並んだ、なびいた。
午前中、父から連絡があり、おばあちゃんの容態が悪くなった、とのことだった。調子が悪いなんて話は聞いていなかった。ここ数年、怪我をしがちになっていて、それによって痴呆が進んでいて、というのはあったが、調子が悪いなんて話は聞いていなかった。心しておいて、ということだった、会いに行こうと思い、明日行く、と言うと、ただ、意識はないよ、ということだった、つらい気持ちになるかもしれないけれど、それでもよければ、とあった。それは危篤というのではないか、と思い、ざわついた、泣きかけた、少し泣いた、そうなりながら、なぜか、行ったら、僕が行ったら、意識が戻るのではないか、とどこかで思っていることに気がついた、もちろんどんな根拠もなかった、祈りに近いものかもしれなかった。祈りだった。午後、夕方だったか、母から連絡があり、少し落ち着いた、ということだった。脳梗塞を起こしたとのことだった、突然のことでびっくりしているとあった、突然のことだったと知った。母方の祖母だった。いくつかのことを思い出していた。
いくつかのことを思い出しながら、ぽやぽやと働いていた、たまに感情が粟立つようなことがあった、働いていた、やることがだいたい済んで、おばあちゃんは、93歳くらいだろうか、と、年齢を思ったときに、『奥のほそ道』を思い出した、92歳、ジミー・ビゲロウ、死の床にて、「再び煙が見え、肉が焼かれるにおいがし、突然、自分の身に起きたのはそれだけだったと知った」、思い出す必要のない思い出しだった、そのあと、岸政彦を読んでいた。
しかし私は、彼の言ったことが「間違っている」とは思わない。そういうことを言いたいのではない。彼が言ったことは正しかった。しかし、私たちが「正しくある」ことで踏みにじってしまうものが存在するのである。貧しくあること、従属的であること、周辺的であることから帰結する、複雑で多様な判断は、単純な正しさの基準のもとでは、単なる愚かなこと、間違ったことになってしまうだろう。
しかし、それでは周辺の存在がもつこの複雑さと多様性を強調すればよいかというと、そういうことでもないのだ。そうした話法は、すこし間違えれば、とても保守的な語り方——沖縄の人びとも基地を必要としているのだ、といった——に利用されてしまう。 いずれにせよ、私たちは「単純に正しくなれない」のだ、という事実には、沖縄を考えて、それについて語るうえで、なんども立ち戻ったほうがよい。 岸政彦『はじめての沖縄』(新曜社) p.242
正しさ。
沖縄という場所について、どこでもいいが、福井や島根や愛知や青森や千葉や宮崎やその他その他について興味が別にないというのと同じように別に興味がなかったから、沖縄についての本は別にいいかな、と思っていたけれど、全然そういうことではなかったし、読んでよかった、と読み始めてから読み終えるまでずっと思っていた。
19時で閉店して、今週は今日明日が19時まで営業という週にした、19時で閉店して、閉店する前、最後のお客さんがコーヒー豆を買っていってくれた、今日2人目だった、Tシャツの売り場を作ったことに伴って、これまで入り口横の棚に置いていたコーヒー豆販売のあれを、レジ横的な場所に移した、これまで週に1度でも売れるかどうかというか月に1度くらいしか売れないくらいのものだったコーヒー豆が、この場に移したその日に2人の方から買っていただけた、ということに、なんだか笑った、ここだったらコンスタントに売れたりするのだろうか、そうなると、それはとてもいいことなのだが、どうか。
それで閉店して、夜になった、大学生くらいのときだったか、引き続きいくつかのことを思い出していた、岸政彦を読んで聞き書きを見たりしたことも影響しているかもしれなかったし、文字起こしをしていることも影響しているかもしれなかった、大学生くらいのときだったか、どうしてそうなったのだったか、おばあちゃんと差し向かいでいろいろ話して、若かりし日の話とかをいろいろ聞いた、聞きながら、いい話を聞けたなあ、と思った、その場面を思い出した、場面は思い出しても、話の内容は一切思い出せなかった、なにか、バドミントンが関係していただろうか、バドミントン的な記憶があるが、どうか、とにかく、こんなにもまるっきり忘れてしまうのだなあ、と思って、今、もったいなかったような思いに囚われている、ということを思った。いくつかのことを思い出していた。もっと思い出したかった。
新宿に向かった、ウィトゲンシュタインを読みながら向かったところ、2行くらい読んだら着いた、言い過ぎだった、とにかく着いた、新宿駅を通るといつも思うことを思った、少し時間があったので紀伊國屋書店に入って、2階をうろうろとしていた、『読書の日記』を2箇所で見かけて、1箇所では蓮實重彦の上にあった、蓮實重彦と並んだ、『読書の日記』、と思って、取ったのは先日「とってもいい」と聞いた宇田智子の『市場のことば、本の声』だった、それから、なにか小説を、と思ったが、わからなくて、それから、ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』を読もうと、文庫のほうに行って平凡社ライブラリーの棚を探したが一向に見当たらず、見当たらずぐるぐるしていると岩波文庫のところで、本の背を見ながら横並びで、あれやこれやとすごく楽しそうに話をしながら、ときに棚の隙間の空間にすっと人差し指を入れて本を抜き出したりしながら、買おうとしているらしい本を何冊も手にした、そういうカップルの姿が目に入ってなんだかいい心地になって、平凡社ライブラリーはそれにしても見当たらず、観念して検索すると在庫なしとのことだった、そうか、と思って1冊だけ持ってレジに向かった、すると、レジをしてくれた店員の方が「フヅクエのTシャツですね」と言って、今日僕はなんでか友人たちに見せようみたいな気持ちが湧いたためフヅクエのロゴTシャツを着ていた、それで「フヅクエのTシャツですね」と言われて、「あっ!」となんだか妙に驚いた声をあげたところ、「最近、日記本が出たんですよ」と言ってきて、「あ、あ、すいません僕なんです」と言った、するとあちらも驚いて、「毎日ひと月ふた月ずつ読んでいます」「わあマジっすか」それから「紀伊國屋のことはわりと辛口ですよね」とあって、紀伊國屋から届く新刊情報とかのメールがクソみたいだということを何回か書いていたので、わあ、ちゃんと読まれている、と思いながら、そうなんですよねと笑って、いやなんだかすいませんありがとうございますとか言いながら、レジが終わった、うれしかった、何がうれしいって、ここで重要だったのは結果として僕がその店およびその本の関係者だったことではなくて、そうじゃなくて、あの場で、「あ、そのTシャツ知ってるよ」と、つい声が出たことで、その、それは「接客」みたいなモードの外にあるモードで、それがちゃんと発露される遊びがそこにあったことだ、と僕は思って、大きな書店でこういうコミュニケーションが生まれたということに僕は感動した、こういうのはとてもいいと思う、常々、「あ、その本、僕も読んでるっす」とか、「それいいですよねえ」とか、そういうのってあってもいいのになと思っていたから、こういうのはとてもいいと思う、もちろん、リスクは常に付きまとう、人間と人間のコミュニケーションになっているのだから、素気ない返事をされるだけだったり、嫌な顔をされたりすることもあるかもしれないけれども、でも、せっかく人間が働いているんだから、そのリスクを取ってこそだよなと僕は思うそういう立場なので、こういうのはとてもいいと思う、思って、ホクホクした気持ちで書店を出て待ち合わせ場所のお多幸に向かったところ建て替え中なのかなんなのかお多幸の影も形もない建物がそこにあった。
仕方がないので、その先の歩行者天国のところに椅子とテーブルがあるのが見えたので、その椅子に座り、近くのテーブルではアコースティックギターを爪弾く人があった、周りには、高いテンションの若い男女がいくつもあった、それで座っていたところ鈴木さんが近づいてきたので手を上げた、こんにちはを言った、鈴木さんは本屋さん準備中という方だった、クレープ屋からスピッツのなつかしい曲が大きな音で流れていて、それはやっぱりこれはいい曲だなあ、というものだったが、でもここで聞かされる必要はどこにもないというか、変なの、という感じがあった、とにかくお多幸だった、ビルには足場が組まれていて、貼り紙もなにもない、閉まったシャッターの前にはいくつかのゴミ袋、メッセンジャーでその様子を送ると、西口のほうに行きましょうかということになり、西口に向かった、小田急の建物の前で武田さんと合流した、武田さんは断食明けで、復食期は終わったが今もまだちょっとずつという段階らしく、動物性タンパク質はとらず、今日は野菜、ということだった、顔がすっきりしているように見えた、すっきりというのは表情ではなく痩せたということだった、ずいぶん体重が落ちたということだった、断食の話はまたあとでと思ったが、歩きながらもつい断食のことに興味が引き寄せられた、西口側の、あれは西新宿というエリアなのだろうか、お店がいろいろとある、あのあたりを適当に歩いていると、なんだか野菜が食べられそう、というきれいな漢字が用いられた店名が目に入り、入った、人が、ビジネスホテルの受付みたいだなと思って、通された店の奥の妙な明るさがまた、なにかビジネスホテルみたいだなと思って、それから、ビールを持ってきてくださった店員の方の感じがなにか、なんだか「なんか出張、みたいな雰囲気の人だったね」と僕は思って言った、「あの人はまるで出張のような人だ」。全体に、出張先にいるみたいな気分にさせた、つまり、出張したくなったらこの店に行ったらいい、という話になった。
意想外にすぐに、優くんが到着した。
先週、渋谷のラジオに招いていただいてNUMABOOKSの内沼晋太郎さんと朝日出版社の橋本亮二さんと話している中で、僕は日記において人との関わりみたいなことを書くときにすごく慎重になる、どう扱っていいかわからない、誰かに何か噓をついて来ている可能性だってあるし、切り取り方によっては間違った印象を読む人に与えてしまうのが怖いというか避けたい、ああ、あの人ってそういうこと言う人なの、というような。だから人と会ったことはあまり書かなかったし特定できないような書き方しか基本的にはしない、というようなことを話していた、でもこれからは何か変わったりするかもしれない、変わってもいいような気もしている、とも話していた、それでたぶん、今週は人を登場させてみよう、という気分になって、土曜日に「遊ちゃん」を登場させるのを事始めに、実行してみているのだが、やはり人というのはどうしたらいいかよくわからない、まず呼称がわからない、ここで、「武田さん」と書くのが正しいのか、「武田俊さん」と書くのが正しいのか、「編集者の武田俊さん」と書くのが正しいのか、「優くん」なのか「小川優くん」なのか「デイリーコーヒースタンドの小川優くん」なのか、「鈴木さん」なのか「鈴木永一さん」なのか「本屋準備中の鈴木永一さん」なのか、あるいは「Tさん」「Yくん」「Sさん」がいいのか、それに、武田さんと優くんはなんとなく書いてもすんなり問題ない気がしているが、鈴木さんはよくわからないというか、本屋準備中とかも言っていいのか、名刺にそう書いてあるからいい気もするが、自分が渡す名刺と、人が勝手にウェブ上で、というのは同じではない。ここで、扱いがわからないわからなさのひとつとして変な感覚だなあと思うのが、武田さんも優くんも、なんというか自分の名前を外に出して仕事をしているというか、わけで、そういう人を書くことのほうがずっと容易い感じがあり、鈴木さんがもしもう店舗を構えてあるいは屋号を作ってそう名乗って、ということをしていたら、また感覚も変わるだろう、ということだった。変な感覚でもなんでもないか。そりゃそうか。自分の名前を外に出していない人を勝手に外に出すわけにはいかないというのは当然か。たとえば来週会うことになっている大学時代の友人、会社勤めをしている友人のことは、どう書くか、きっと「N」だろう、では、たとえば今日、彼もいた場合、僕は「武田さんと優くんと鈴木さんとNと飲んだ」と書くのだろうか、いや普通にそもそも「友人」でいいのではないか、いや、どうなのか。
わたしたちは酒を飲んだ。
武田さんは断食以降はじめて酒を飲んだ、ハイボールを頼んでいただろうか、ひとくち飲んだところで「酒の味がわかる」と言った、「アルコールの味」だったろうか、とにかく数週間ぶりのアルコールはすぐに効きそうだった、断食は面白そうだったが、その生活はつまらなくなりそうだった、明日は、納豆でご飯をたらふく食うぞ、ということが楽しみになるような、そういうことだから、僕は、そうだから、食べることから快楽を取ったらどうなってしまうのか想像がつかなかった、休みの夜は唐揚げを食うぞ、みたいな、餃子だ、カレーだ、というような。それがない暮らしを想像できなかった。
わりに早い時間に閉店になって、お店はいいお店だった、店の方がとにかく親切というかよかった、早い時間に閉店になって、コンビニで酒を買って大ガードを臨む歩道橋に上がって、そこで飲んだ、優くん武田さんとはいつからだったか1年半前くらいだったか、忘れたが、3人でちょこちょこと、月一くらいのペースで飲むようになり、飲むときはどうしてだかこのエリアになることが多く、そうなるといつもこうなる、ここに来る。下を車が通るタイミングと同期しない、それは同期しないのだが、しばしば揺れるそこで、車の通りや、向こうのネオンを見ながら、しばらく飲んで、ぐだぐだと話して、満足して帰る、ということになる、それでこの日もそうなって、四人で、全員がメガネをかけていた、愉快に話した、優くんの店の話は本当にいいなあ、といつも思った、そうなんだよな、そうなんだよな、と首肯した、「ホイップクリームはまだのせられない」という言葉が出てきて、それが面白かった、山内マリコがそんな短編書きそうだね、と思ったし言った。鈴木さんは学生時代、美術家になりたかったが、いつからか本を読むことのほうが好きになった、というようなことを言っていた、それがなんだかよかった、「本を読むことのほうが好きになった」。一緒にいる人たちを、この人たちほんと好きだなあ、と思うことは、幸せなことだった。
歩道橋の上を通る人は多くなかった、車はひっきりなしに通っていた、高いビルに囲まれていた、生ぬるい空気に包まれていた、歩道橋の上は、少しだけ他のところから切り離されたような、少しだけ特別な感じを与えてくれるようなそんな場所だった。満足して帰った。
腹は満足していなかったというかいつもそうするように、家に帰る前に富士そばに寄って、冷たいうどんを食った。たぬきは余計だった。帰って、ウィトゲンシュタイン日記を少し。
奇跡が我々に語りかけるものであるのなら、それはジェスチャーとして、表現として理解されなければならない。奇跡とは、それを奇跡的な精神でなす者がなした場合にのみ奇跡なのである、とも言えるだろう。この奇跡的精神がなければ、それは単に異常で奇妙な事実であるに過ぎない。それが奇跡だと言えるために、私はいわばすでにその人物を知っていなければならないのだ。そこに奇跡を感じるために、私は全体を本当に正しい精神で読まなければならないのだ。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(鬼界彰夫訳、講談社) p.66
##7月3日(火) 電車に乗りながら少しだけウィトゲンシュタイン。本当に少しだけ。新宿、パン屋で惣菜パンを3つ買い、猿田彦珈琲でアイスコーヒーを買い、湘南新宿ライン、グリーン車。新幹線で行けば早いが、お金は掛かるし、そもそも早く行く理由もない、というかゆっくり行きたい、望まない早さに追加料金を払うのは馬鹿げていた、それで鈍行+グリーン車だった、乗ると、同じタイミングで乗った人がぐるっと席を回してボックス席をこしらえて、脚を伸ばした、ずいぶんリラックスした、という言い方はいい言い方だ、ずいぶんな使い方をするものだな、と思ったというか、しかし周りは空いていたしこれから混むこともあまり考えられないだろう、それならばまったく問題ないとも思うが、なんとなく横暴だというような気持ちを抱いてしまうのは僕のなにかが間違っているような気がする。気がすると思いながら、コーヒーを飲み、パンを食い、食ったら、パソコンを出して昨日の日記を書き始めた、どうしてだかそれが妙に時間が掛かって、ずいぶん長い時間、日記を書いていた、蓮田とか、いや小山とか、もっと先まで書いていたかもしれなかった、書き終えたので、隣の画面に移って、文字起こしを始めた、本を、リュックに、ウィトゲンシュタインと武田百合子と昨日のやつを入れていたが、どうやら今日はずっと文字起こしをしているつもりらしかった、宇都宮で乗り換えてから、普通の席の電車になってからもパソコンをカタカタとしていた、途中、笑っちゃうところは、どうしたっていくつもあって、ニヤニヤしながらパソコンと向かい合っていた、高校生がたくさんいた、昼過ぎだった、期末テストとか、そういう時期だろうか、早いだろうか、どうだろうか。
迎えに来てくれた父が駅前の駐車場にいた、駅前は、よくよくと見回してみると本当になにもなかった、レンタカーの事務所くらいだろうか、それから学習塾、あと交番。本当になにもないなと思いながら、暑かった、ここのところは東京よりも日中は気温が高いらしかった、東京よりも一度、高いらしかった、それでいったん家に寄り、それから祖母と長姉家族の住む家に向かった、母方の実家は文房具屋兼書店のようなものをやっており、実態は学校を相手にしてインターネット環境の導入であるとかそういう授業の教師のサポートだとか、そういうものが今はメインの事業のようだが、書店とも名乗っていて本棚はあって、といっても店に入ってくるお客さんに本を売ることが主な仕事だったという時期は一度もないのではないかと思う、教科書販売のために取次と契約していたのではないかと思う、春休みになると決まって僕はここに来て、奥の畳の部屋に並べられた大量の教科書を、各学校の各学年の数ずつまとめて、それからワゴン車に乗り込んで、各学校に配っていく、そういうバイトをしていた、その金でパワプロを買った、教科書販売を今もやっているのかは知らないが、だから書店で、だからごくごくわずかだが本が並んでいる、久しぶりに営業している時間に行った、もう年に一回正月に行く以外にここ何年も行っていないから、営業している明るい店内というのはとても久しぶりだった、入って、おばあちゃんの部屋に入ると母と、その姉と、その姉がいた、母は四姉妹の末っ子だった、ベッドにおばあちゃんが寝ていた、昨日よりも落ち着いたらしく、だいぶ寝ているようだった、起きた、目が開いて、見た、こんにちは、と言った、それから、ベッドの端に腰掛けて、しばらくの時間過ごしていた、姉妹たちは賑やかで、こういうとき、四人いるということはどれだけ心強いことだろうなと思った。
途中、部屋を出て、庭に出た、それから裏の畑のところに行った、農機具とかを収める小屋みたいなものと、土蔵みたいなものが両脇にあった、おばあちゃんが畑仕事をしなくなってどれくらいかは覚えていなかったが、畑ではもう農作物はつくられておらず、いい加減に草が生え、それから、かつては気づかなかったがあちらこちらにいろいろな花が色を添えていた、風が吹いて、地面の草や、その奥の竹林の笹をかさかさと鳴らしていった。竹林の坂道を下っていくと田んぼが広がっていて、それはもうこの家の土地ではきっとなかった、大学生のころ、3年のときだろうか4年のときだったか、うつろな気持ちで夏休みにこの家に逃避したことがあった、そのときは何度も田んぼの方に出て、そのとき僕は小説を書いていた、僕は、風景描写の練習をしようと見える景色をスケッチしていた、それを、竹林の入り口に、もうしばらくのあいだ人が通っていないのか道が消えかかっているように思うその竹林の入り口に立つと思い出した。
素麺があるから食べていったら、と言われたのでいただき、いろいろな薬味が出てきた、それで食べた、おいしかった、なすの漬物も途中で出てきた、おいしかった、と思っていたら居間にみな集まり、コーヒーゼリーにアイスクリームを乗っけて食べる、ということをみながやり始めた、僕も食べた、食べ、それからまたおばあちゃんの部屋に行き、しばらくそこで過ごし、帰ることにした。会えてよかったと思った。母は残り、泊っていくということだった。
いったん実家に戻り、少しゆっくりしていた、部屋には、連載をしている『GINZA』や先日受けたインタビューが載っている『CAFERES』が、机の上やソファの上に置かれており、微笑ましかった、エアコンを掛けていない部屋は暑かった、静かで暑かった、夏休みのような静けさと暑さだった。麦茶を飲んだ。父に駅まで送ってもらった、その途中で、帰り道の高校生が二人歩いていて、一人の首がまったくないように見えた、首がない以外はまったく普通の様子、というふうな姿勢に見えて、ぎょっとして追い抜きざまに見るとすごい首の曲げ方でスマホを見ているようだった、父も同じことを思ったらしくて、びっくりしたなあ、と言った。
電車に乗って帰った、帰りも文字起こしをしていた、今度の電車は上野行きで、宇都宮乗り換えをせずに赤羽まで一気に行く、というのでよいものだった、文字起こしをしばらく続けているとパソコンの電池がなくなるところになり、やめた。ちょうどいいやめさせられ方だった。キリはなかった。
それで宇田智子『市場のことば、本の声』を開いていくつか読んで、それからとても久しぶりに武田百合子の『犬が星見た ロシア旅行』を開いた。
ホテルの裏手の入口に、プラチナブロンドの少女と、ジャンパーを着た少年がうろうろしていた。ホテルの中のダンスホールに何とかして紛れ込もうとしているらしい。ボーイが錠をあけ、私たちを入れたすきに少年と少女は滑りこむ。ボーイが見逃してやると、二人はダンスホールのある食堂の方へ駆けて行った。中庭へ通じる扉の外にも、ジャンパーをひっかけた少年少女が、七、八人いた。ボーイの姿を見た少年たちは硝子を叩いてせがんだが、ボーイはそのまま通り過ぎた。外へも洩れているらしいホールの音楽に合わせて、中庭でゴーゴーを踊っている少年少女もいた。
月が赤く出た。洗濯して入浴して、午前二時になった。 武田百合子『犬が星見た ロシア旅行』(中央公論新社)p.223
踊っている人たちというのが僕はとにかくなにか惹かれるのだろう、とてもいい。と思って赤羽で乗り換え、埼京線で新宿に向かった、西武線のホームを過ぎ、電車がアルタであるとかの新宿駅前のネオンのなかに滑りこんでいくとき、外を見ながら、帰ってきた、という強い気持ちが湧いた。
そのまま帰り、遊ちゃんと待ち合わせをして、代々木八幡のクリスチアノに行った、一年前、7月4日だった、一緒に暮らし始めたお祝いみたいなところでクリスチアノで食事をした、雨がザブザブと降る日だった、一年後、一緒に暮らすようになって一年が経ったお祝いみたいなところで、またクリスチアノに行こう、ということだった、ポルトガル料理。にぎわいつづけていた。晴れていた。
いろいろ食べるぞ、と思って、いろいろ頼んだ、ミガス、あれ、ミガスしか思い出せない、なんだったか、ピタパウみたいな、パタパウ的な、バカリャウではない、なんだったか牛肉豚肉鶏肉のトマトの煮込みみたいなもの、その2つが、名前を見てもいったいどんな料理なのかわからなかったので面白がって頼んだ、それから大根とゴルゴンゾーラのサラダ、パプリカのペースト、フムス、パンをいくつか、そのあとでジャガイモだったか長芋だったかと鱈の卵とじ、これはお皿が来たときに去年も食べていたことを思い出した、それから揚げソーセージ、それらを食べた、ビールやワインを飲んだ、ヴィーニョ・ヴェルデ、そうしたら、追加の2皿でお腹がいっぱいになって、メインで魚料理を食べようと思っていたがお腹がいっぱいになったのでやめた。やめて、出て、今夜は少し歩こうか、というところで、コンビニでアイスを買って、食いながら、散歩をした、いい夜だった、家が近づくと、なにか安心するような心地があった、家、と思った。
寝る前、ソファで武田百合子の続き。
ロシアともお別れだ。皺を気にしながらトランクに入れてきた、あやめが描いてある新調の白い光る服を、私は着る。ロシアにお礼の心を込めて——。
(何となく、消防自動車に乗っている人のようではないか?)着てみてから不安がよぎり、元気がなくなる。廊下に出て歩き始めると、
「宇宙探検隊みたいだなあ」と、主人がおどろいた風に言う。笑うまいとしている。
「着替えてくる」
「しっかり者に見えていい。百合子はいつもくったりしているから、たまにはこういうものもいい」と、面倒くさそうに言い直した。 同前 p.234
行きの電車で、さびれた建物に掛かっていた看板に「好きな道」というものがあった、ということを思い出した、スナックか何かなのだろう。好きな道。
##7月4日(水) 朝、仕込みをいくつかいっしょけんめいおこなう。全身がだるい。休日明けにこの疲れを目の当たりにすると本当に馬鹿らしい気持ちになる。働く。
夕方、さみしい気分が広がっていった、お客さんも誰もいない、それとこのさみしさは関係しているか、それはわからなかった、わからないことだらけだった、さみしさ、不安、もろもろ。なのかなんなのか。
やることをやって、そうしたらやりおわった、暇だった、宇田智子を何篇か読んで、これはとてもよかった、「お盆」というのがとてもよかった、他のもよかった、これは朝とかに、ちびちびと読んでいきたいものだった、それから武田百合子を開いた、旅行が終わろうとしている。
ふと、武田百合子は、というか、と思い、生年月日を見ると1925年生まれで、いま生きていたら93歳か、おばあちゃんが96歳だから、同じ年代の人なんだなあ、と思って、それはなんだか不思議な感覚だなあ、と思った、旅行が終わろうとしている。
エゴサーチをいつものようにしていた、Twitterとは別に、グーグル上でもおこなっている、一週間以内の、という検索条件でやっている、すると見覚えのない結果があった、「雑誌の新聞 \[分家] - 週刊現代」がタイトルで、「1 日前 - 武田砂鉄/宇田智子「市場のことば、本の声」、田尻久子「猫はしっぽでしゃべる」、阿久津隆「読書の日記」. 週刊現代(2018-07-14), 頁:114」とあった、ん、と思い開くと「リレー読書日記」という企画で、武田砂鉄が、間違えた、武田砂鉄さんが、今回この3冊を取り上げているということらしかった。武田砂鉄があ間違えた武田砂鉄さんが! と思って、武田砂鉄さんの文章なんてこれまでどれだけビリビリ言わされてきたことか、先日も『日本の気配』を読んで快哉を叫びまくっていたところだったわけで、今もっとも鋭利に鮮やかに日本語を使う書き手というか、そんなふうに思っている方に、なにか評してもらえるなんてこれはすごいことだな、と思って、思ったときちょうどお客さんが誰もいなかった、いかんせんとにかく暇な日だった、それでシャッターをおろして「すぐ戻ります!」の貼り紙をして、コンビニに行って『週刊現代』を探して、見つかって、一応この号なのか開いて確認して、それだったので、買って、ついでに薬局に寄ってトイレットペーパー等も買った、それで帰ってきて、読んだ、「何がしかの法則に則るのではなく、偶発的に出合う、寄り道の中で思考する、その豊穣な体験がひたすら書いてある本」とあった、うーん、うれしい、というか、読まれ、そして書く対象として選ばれた、ということがうれしいというか、なんでだろうというか、どういうことなんだろうというか、すごいなと思った。
と思ってから、ポヤポヤと働きながら、突然、なんだかものすごく虚しくなっていった。エゴサーチして、なんだかいろいろな人が読んでると言ってくれたり面白いと言ってくれたりしているのを見て、うれしいうれしいと思ってリツイートをしたりして、その挙げ句、自分にとってすごい存在というか、すごい存在が、ほめるというか取り上げてくれて、くださって、みたいな、あるいは、お、著名な人じゃんこの人みたいな、そういう人がそういう方が言及してくれたりほめてくれたりして、そういうことが起きて、そういうふうにして今、日々が流れていて、俺は、俺はここにいるはずなんだけど、なんだか、誰なの? と思う。阿久津隆って誰なの? 誰か俺の知らない人? みたいな感覚というか、みんな誰のこと言ってんの? 『読書の日記』って誰が書いた本なんですか? なんかそれ俺とは別の人なんじゃないの? というような。
いや、違うな、そうじゃないな、むしろ、なんでお前が喜んでんの? お前にいったいなんの関係があるの? というような感じか。関係があるも何も関係があるはずなんだけど、なんだか関係ないような気がしてくるような、関係ないというか、もう関係ないというか。なのに、なに慌ててコンビニに走ってんの?www というような。とても虚しい。どっと虚しい。
これはただの気分さ、ということはよくわかっている。
というか、初々しいというか、微笑ましい感じも、している。それはわかっている。
それでもなにか、悄然とした気持ちを拭えないまま、夕飯を食い、どんよりとした気分でビールを飲みながら、残り少しになった武田百合子を読んだ。
河岸の倉庫の金網柵の向うにいるものが見える。倉庫の軒先の灯に照しだされて、そこだけ浮き上ってはっきり見える。白い犬とにわとり(らしい)と人が一人、皆横向きに佇んでいる。どうしてあんなところに、いまごろ犬とにわとりと人がいるのだろう。人は荷物を提げている。いま見えていることは、年とってからも覚えていそうな気がする。
「何か見えるか」遠眼のきかない主人が寝床に入りかけて言う。
「またここに来ることがあるかしら」
「恐らくないな」
荷物を作る。一時過ぎとなった。 武田百合子『犬が星見た ロシア旅行』(中央公論新社) p.325
こちらも、一時過ぎとなりました。そちらは、最後の夜ですね。次の行に「七月四日」とあって、これが最後の日だった、彼らの旅行の終わりの日に、ちょうど、読み終わることになった、ということだった、一時過ぎとなったから、もう5日ではあるが。1969年7月4日、それからちょうど、49年だった、来年だったら、もう1年が足されるため、50年だった。
行きは船でナホトカまで、帰りはコペンハーゲンから飛行機で。
「スパシーバ(ありがとう)」ふいに竹内さんが盃を上げた。
「パジャールスタ(どういたしまして)」すぐ主人も盃を上げる。話が続く。とぎれる。竹内さんは「スパシーバ」と盃を上げる。「パジャールスタ」恭しく主人が返す。私は浅く眠り、ときどき覚める。
「スパシーバ」
「パジャールスタ」
蜒々と飲んでいる二人を眺めて、また眠る。
アンカレッジ空港に着いた。
飛行機から降りて一時休憩する旅行者たちで、ひとしきり売店は異様に活気づくが、それは、その飛行機が飛びたつまでの間のことである。あとは売店も空港も捨てられたように静かになってしまう。
売店には、アザラシの財布だのアザラシの手提だの免税品だののほかに、世界各国の土産物まで並んでいる。日本人の女売子たちもいた。出発時間がきた日本人旅行団の男たちが引揚げて行くとき、嬌声をあげてふざけ合っていたが、姿が見えなくなると、ぱったり口をつぐんで、音をたてて椅子をひき、頬杖をついたり、脚を組んで濃い化粧を塗り直したりしていた。飽き飽きしているように見えた。 同前 p.331
それはページの左端で終わり、開くと、あとがきとあり、「わああああ……と声が出た。なんてうつくしいんだろうなあ。かっこいい。
##7月5日(木) 起きたときから左手の、なんというのだろうか、親指と人差指のあいだの、エラが昔あったとしたらここかな、エラではなくてヒレか、鰭、ヒレが昔あったとしたらここかな、というところが痛く、痛い。お盆を運ぶ、ぐらいの重さでも十分に痛く、どうしたのだろう、と思っている。指をけがしたときに破傷風の予防接種を受けて、ひと月後にもう一度すると、向こう1年の予防になる、と聞いたのだが、受けないままひと月が過ぎたなあ、と何度か思っていたところだったので、同じ左手だし、というところで、まさか何かバイ菌でも入って破傷風にでもなったのだろうか、などと考えるが、と打ってから症状を検索したところ、「潜伏期間(3 ~21 日)の後に局所(痙笑、開口障害、嚥下困難など)から始まり、全身(呼吸困難や後弓反張など)に 移行し、」と、ものすごい怖いことが書いてあった。
ゆっくりと働きながら、プルーストを開いたところ、開いた瞬間にとてもよかった。
いざジルベルト・スワンのまえに出てみると、そのジルベルトは、私の記憶が疲れてはっきり思いうかべられなくなった彼女の映像を、ふたたび鮮明にするために、その顔を見ることを私が期待していたジルベルトにちがいなく、きのうもいっしょにあそび、いましも盲目的な本能で、たとえば、歩行中、考えるひまもなく右足を左足のまえにふみだすあの本能にも似た盲目的な本能で、その姿を認めて私がこちらから合図をしたばかりのジルベルトにちがいはないのだが、さてそのまえに出てみると、たちまちこの少女と私の夢の対象の少女とは、二つの異なる存在であるかのように、すべてがはこんでゆくのであった。 マルセル・プルースト『 失われた時を求めて〈1第1篇〉スワン家のほうへ 』(井上究一郎訳、筑摩書房) p.676
そのあと、宇田智子を読むリズムをもしかしたら見つけたかもしれなかった、休憩で外で煙草を吸うときに携行する、ということをやってみた、すると1編読む時間で、ちょうどいいだけ煙草を吸える、ということがわかった、はてブから記事を読んだりTwitterでエゴサーチして過ごすよりもよっぽどいい、よかった。
それで腹が減ったのでパンにチーズをのせてトーストした、先日父親が渡してきたものだった、生食パン、というやつで、なましょくぱん、近くに最近だかいくらか前だかにできたらしく、買ってみたらしく、一本単位でしか売っていないので2斤分買っていて、半分持っていくか、ということだったのでいただいた、ずっしりと重いものだった、生食パン、山口でも似たようなパン屋を見かけた気がした、なにかフランチャイズ的なもので地方に広がったりしているものなのだろうか。生でも食べたが、昨日今日とチーズをのせてトーストして、台無しにして食べている。おいしい。
「感染して3日から3週間からの症状のない期間があった後、口を開けにくい、首筋が張る、体が痛いなどの症状があらわれます。その後、体のしびれや痛みが体全体に広がり、全身を弓なりに反らせる姿勢や呼吸困難が現れたのちに死亡します。」
眠くなって、プルーストを開き、即座に眠くなったため『kotoba』を開いた、日記特集のやつだった、湯川秀樹のやつと手帖類図書室の方のやつを読んだ、手帖類図書室はとても行ってみたいが行ける日なんて来るのだろうか、という場所だった、眠く、そのあとまた宇田智子を開き、それから林伸次『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』を開いたというか、膝の上に置いて、めくった、林さんは、先日インタビューをしてくださった縁なのか、編集者の方からメールが来て「よかったらゲラを」とのことで、送っていただいていて、それがあった、それを読んだ、恋愛小説とのことだった、恋愛に関する短い話で構成されているようで、ひとつひとつがとても短い、つまりものすごい数の恋愛話が収録されているっていうことだよなあ、と思うと、すごいなあ、よくぞこれだけ、となった。たぶん各話で一枚というか一曲音楽が掛かっていて、それらを聞きたくなった、しかし営業中なのでそういうわけにはいかなかった。眠い。
しばらくのあいだ、誰もいなかった、昨日も今日もやたらに暇で、今日は雨はけっきょくほとんど降らなかった、僕の知る限りは。それで、誰もいなかったので文字起こしをしていた、いくつも、その答えは間違っている、というか、言いたいことはそれではなかった、ということを言っている、しゃべるというのはそういうことだった、しょうがない、と思った、総じて、引き続き、愉快だった、それで、そのあと、ほんの少し、お客さんがあり、文字起こしは終了して、それから伊藤亜紗の『どもる体』を開いた、著者プロフィールに、「趣味はテープ起こし。インタビュー時には気づかなかった声の肌理や感情の動きが伝わってきてゾクゾクします」とあって、いいプロフィールだなあ、と思う、思った。
いつのまにか、本は最後のほうだった、対処法が症状になるのが吃音の複雑なところで、ということはこれまでにも何度も書かれていて、その一つの行き着いた先だった、どもりたい、という人の話があった、どもりたいというか、どもる体を取り戻したい、ということだった、その人は、長い時間を掛けてほとんど周りの人にそうだと気づかれない程度に、吃音を隠すすべを構築した、しかし、それは自分の体を抑圧していることだった、自由にどもりたい、せめて大切な人の前ではどもりたい、「せめて大切な人の前ではどもりたい」、たしかにそう書かれていた、見たことのない美しい言葉だと思った、それで、そうなって、しかしすぐには思うようにどもれない、数年を掛けて、どもる体を取り戻していく、という、そういうことが書かれていて、それはなにか感動するところだった。そうしているうちに読み終えた。本当に、人によって症状/対処法に対する感覚が大きく異なるようで、それを記述することもなにかと難しそうだなあ、と思った、思って、これはいい本だったなあ、踊ること、踊ること、踊ること。
少し、『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』を読む。そのあと少し、『すばる』の「特集 日本映画の最前線」の濱口竜介のインタビューを読む。寝ても覚めても。閉店し、看板を上げに下りようとすると、郵便受けのところに封筒を見た、『新潮』の8月号が入っていた、取った、朝、新潮から「刷り出し」とスタンプのされた封筒を受け取っていた、それは掲載ページを切ってホチキス留めをしたもので、それが入っていた、明後日くらいに現物が届くのかな、と思っていたら夜に届いた、朝、刷り出し、夜、掲載誌、この微妙な連続感はなんなんだろうか。
夕飯を食べながら『週刊ベースボール』の「シーズンの今後を占う! 12球団戦力検証」という特集を読む。ソフトバンクが何かと苦しいとのこと。
帰宅後、寝る前、プルースト。かつて読んだときと同じように、あいだを開けながら少しずつ読み、そしてだいたい眠く、たまにピタッと体にはまる、そういう読書になるのだろうか、今日、やたらに「いいぞ」というところが多かった、これまで、この章になってからは何かピントが合わなくて間遠になっていたのに、今日、久しぶりに開いたら、ピタッと体にはまる、そういうところが多かった。語り手は今、ジルベルトに恋をしていた。恋をしたときに、環境すべてをその人との関わりのなかでまなざすような心地が描かれていた、たとえば「そしてこのように待ちこがれることが、ついにはシャン=ゼリゼの全区域と午後の全時間を、そのどの地点どの瞬間にもジルベルトの姿があらわれる可能性をもった広大な空間と時間とのひろがりのように思わせ、それらをいっそう感動的にした」であるとか、「私はあらゆる事柄につけて家の人たちにスワンという名をいわせようと仕向けた、むろん、私は心でたえずその名をくりかえしてはいた、しかし、その名の快い音響がききたかったし、黙読では十分とは行かぬその名の音楽がききたかったのであった」であるとか、それから、ジルベルトから、あなたをずっと恋い慕ってきましたという手紙が来ないかなあ、と願う少年の姿に笑った。
夕方になるといつも私はそんな手紙を想像してたのしみ、それを読んでいるような気になり、その文句を一つ一つ暗唱していた。突然私はどきりとして、それをやめるようになった。もしジルベルトから手紙をもらうことになるとすれば、やはりそんな手紙であるはずはないであろうということがわかってきたからであった、なぜなら、そんな手紙を現にいまつくりあげたのは、この私であったからだ。そして、そのときから、彼女に書き送ってもらいたいと思った言葉を自分の頭から遠ざけようとつとめるのであった、そうした言葉を自分で述べることによって、まさしくそれらを——もっともなつかしい、もっとも好ましい言葉を——可能な実現の場から排除してしまうことになりはしないかとおそれて。私の創案になる手紙が、たとえありそうもない暗合によって、ジルベルトのほうから私にあてた手紙に一致しようとも、そこに私は自分が書いた文章をすぐに見わけてしまって、私から生まれたのではない何物かを、現実の、新しい何物かを、受けとる印象を私はもたなかったであろうし、私の精神のそとにある幸福、私の意志から独立した幸福、恋によって実際にあたえられる幸福、そうした幸福を受けとる印象を私はもたなかったであろう。 同前 p.689
なぜなら、そんな手紙を現にいまつくりあげたのは、この私であったからだ!
そんな手紙はどうせ来ないのだから、虚しくなるし悲しくなるからやめよう、ではなくて、あんまり想像しすぎると、手紙が来たときに新鮮味を感じられなくなっちゃうからやめよう、というこのなんなんだろうかポジティブさだろうか、笑った。つまり、あらゆるパターンを考えていた、という芙美のそれだった、「これか」という、それになりたくない彼の、考えまいという抗い方だった。眠った。
(長くなりすぎたらしく容量的に更新できなかったので金曜日は来週の分にくっつけます)
お知らせ