読書日記(1)

2016.10.08
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#10月1日 本を開いていない。仕込みが終って1時間くらい時間が取れたので本を読もうかとも思ったがメニューの文言をいじりたくなってイラレを開いていたら開店時間を迎えたので仕事をした。終わって本を読もうかと思ったがまたイラレを開いた。
9月末日は惨憺たる日だったが10月初日はいい調子の日でうれしかった。10月はいい月になってほしい。戦力外通告の記事が出始めて、あの選手が、等思う。明日は我が身、とかふと思うがなにが明日は我が身なのか。
#10月2日
コンビニに向かっていたらポケットから音漏れのような音が聞こえたがポケットにスマホは入っていなかったのでなんだろうと思ったら商店街というか表の通りの電灯に設置されたスピーカーからかすかな音量でなにかが放送され続けているらしかった。
プリズン・ブック・クラブ ——コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』そろそろ読み終わり。
そこは重警備の少年院。発足当初は学級崩壊の教室のように荒れた読書会だったが、次第次第に参加する少年たちの目の色が変わっていく。そしてある日——
というノンフィクションだと勝手に決めつけて読み始めたところそもそも少年院ではなかった。それに最初からまともに運営されていたし受刑者たちも楽しく本を読んでいた。受刑者たちが本に感化されてよくなっていく話というよりはかつて強盗に襲われたことのある著者が受刑者たちとの触れ合いを通して何かを学んだり克服していこうとする話といってもそんなに差し支えない。残りたぶん20ページくらいだけど、仮出所になっている読書会のスタメン的な人と外で会うときに恐れみたいなものを感じている心情が書かれていて、「そういうもんなんだね」と思った。総じてとても面白い。読書日記を始めてみたい気が起きたのは著者であったりが読書会メンバーに「読書日記、書いてみてね」と日記帳を渡して受刑者たちがあれこれ書いたりするのを見たせいかもしれないというかたぶんそのせい。
松坂にはぜひ復活してほしい、とずっと思っている。来年は14勝9敗くらい。疲れた。
#10月3日
予定に間に合うのでいったん新宿でおりて紀伊國屋書店に寄って雨宮まみ『東京を生きる』と今度の読書会の本であるアンソニー・ドーア『すべての見えない光』を買った。雨宮まみは岸政彦との雑談本『愛と欲望の雑談』を読んで、いずれかのファンの人がきっと多くそうなるようにもう片方の人のを読んでみたくなってそれで読んでみたくなって。同じようにそうなったお客さんがどこかの書店だかで開催された二人の対談を見に行った帰りに来てくださって、でお帰りの際に「行ってきたんですよー」というので話を聞いていたら『東京を生きる』を買ったというので「じゃあ俺もそれにしよ」と思っていてそれで買った。
東京、へのあこがれみたいなものが僕にはいまだあって、栃木で生まれて埼玉で育って育って大学時代は神奈川で暮らして就職して数ヶ月だけ品川区の西小山に住んで配属地として岡山に行って3年やって辞めてそこから3年店やって、通して6年岡山にいた、それで次に渋谷区の初台に店を出した僕はつまり東京で暮らした経験はそれまで数ヶ月しかなかったわけで東京へのあこがれみたいなものがいまだあって、東京を生きるとはどういうことなのか、わりと知りたいというか聞きたい話だったりする。僕には東京への憎しみみたいなものは今のところさっぱりなくて、「トーキョー」みたいな、東京って響きいいよなーみたいなのんきな肯定を持ち続けている。ほんとTOKYOでよかったよなというか、これがSAITAMAだったら全然話違うよなというか、TOKYOって素晴らしいよ、なんか響きとして。広がりがある。円環が閉じない感じがするというか、発語したOの口はいつまで経っても閉じられない、閉じられないうちにもう一度それは発せられて煙草の煙の輪っかがぽんぽんと空気中を漂うみたいに、そうやってTOKYOは発語される数だけ新たに生み出され続けて、極彩色の層が幾重にも幾重にも複雑に積み重ねられいく、みたいな感じがする、TOKYO。KANAGAWAとか今打つの超難儀したし。KANAまでは楽なんだけどGAWAGAWAGAWAGAWAこれうつのちょっと難儀。シフトに小指起きながらわりと手を広げなきゃいけない。僕の手は小さい。
紀伊國屋書店、新宿三丁目から馬喰横山と東日本橋を経て蔵前、蔵前から人形町、水天宮前、そこから代々木上原。トーキョー。トーキョー、と思いながら、水天宮前とかどこだよとか思って地図見たらこれほぼ東京駅じゃないかみたいな、俺はトーキョーのことまるで何もいまだ知らないんだよなと思いながら、僕はわりと無邪気に、暮らす。
代々木上原のカフェみたいなところに入って酒飲みながら雨宮まみの続き(昼間に電車の中と隅田川をのぞむベンチで小雨に打たれながら読んだ。いろいろが舫いでいた、川の向こうはどんよりした空が広がり首都高の直線が景色を区切っていた)とそれからたぶん8月の末に読み始めてよそに浮気しながら少しずつ読んでいるフォークナーの『八月の光』を読む。他の席の会話とか手元のiPhoneとかに気を取られながら、あまり集中せずに。それでも随所になにかぐっとくるからよっぽどぐっとくることが書かれているのだろう。
よし分かった。じゃあ、そうなんだな。しかし俺にはそうじゃないぞ。俺の暮しや恋愛の中じゃあ違うぞ とにかくこれは三、四年前のことであって、彼はもう忘れてしまっていた、ただし忘れたというのは、一つのことが真実でも嘘でもなくてただの事実にすぎぬと納得した後では簡単に忘れられる、という意味でだが。(P242)
僕にはすっきり意味が取れないこの文章とかいい。それから
その間絶えず考えていて、『ああ、そうか。これがそうなのか』。(P256)
とか。ああ、そうか、これがそうなのか、というのは、僕にもとても思い当たる感覚というか、それは喜びであれ悲しみであれ苦しみであれ、ああ、そうなのね、これがいわゆるそれなのねと、新鮮な感情の前に立ったときにわりとたぶんいつもそう思う。ただ思い出しただけだけどslackの「朝の4時帰宅」のこの部分をただ思い出した。「昔は腹抱えるほど笑ったな 今じゃまだ経験すらしたことない事のように 感じるもんさ あの日のシーンは妙に」
なにかとは関係している気はする。
『東京を生きる』から。
今まで、恥ずかしく、気疲れしてできなかったチャラチャラしたことをいっぱいしたい、と心から思った。それが私にとっての「生命力」というものだった。遊びたい。遊んで死にたい。そう思ったのは、遊ぶことが子供の頃から苦手だったからだろうか。苦手だけど、それが実は好きでたまらなかったのだろうか。いや、私は「軽やかに遊べる人」になる人生を、もしも生き延びるなら選びたいと思ったのかもしれない。(P33-34)
そんなふうになれたらどれだけ、と思うんだけど、結局そんな人生は選び取れないんだわ。軽やかに生きたい。が、生きれないんだわ。
#10月4日
『八月の光』を数ページ。加島祥造の訳文のリズムは、原文がどうなっているのかわからないけれど、原文をどこかに見にいけばいいだけなのだけど、見にいかないのだけど、加島祥造の訳文のリズムはとてもおかしくてかっこいい。回収されないというか、輪が閉じないでどこまでも拡がっていく感じというか、TOKYO、虚空というか荒野みたいなところにぽーんと放り出される感じがする。気分いい。今月岩波文庫で新訳で出る模様。訳者は諏訪部浩一。アメリカ文学の研究者の方の模様。ウィキペディア見たら「1略歴」「2著書」「3参考」「4将棋はプロ級」「5注」「6外部リンク」とあった。
#10月5日
10月に入って4日間、どれも調子がいい日で驚いている。5,6月がとてもよくて「この調子でいけば」と思っていたら7,8,9月とどんどんダメになっていって9月は本当に目も当てられない数字になったので、10月の突然の復調というかこの4日にすごく気持ちが盛り上がっている。盛り上がってしまっている。たった4日間なのに。どうせ絶対に続かない。と頭ではわかっているのに。落胆したくないから盛り上がりたくないのに。フォークナーを20ページ読んだ。
#10月6日
とか言っていたら凄絶なほど暇な日になったので笑った。罰が当たったとかつい思ったが、別に悪いことはしていないので罰が当たったみたいな考え方をするのはやめたい。いつだってだいたい何かしらうしろめたい。
#10月7日
昨夜に続き昼の労働も激烈な暇さで、今朝買った『Number 912号 Baseball CLIMAX 2016 』をずっと読んでいた。充実した内容でわりと夢中になって読む。
1番ピッチャーって聞いたときも、最初は『これはないな、これはさすがに無理かな』と思いましたから……だってホームランを打ってこいってことでしょ。いやいや、三振でいいなって。思い切り振って、空振り三振か、ホームラン。(P17)
「僕、ホンマに野球が好きなんですよ。だから人の言うことも聞くし、いいと思うことは取り入れます。でも、打撃成績がどうこうよりも、野球が好き。こんなに好きだとは自分でも思っていませんでした。」
その後も深夜まで呑み続ける間、坂本は何度も「野球が好き」と言い続けたという。(P38)
タイミング(という意識)はないですね。ここで足を上げてとか、ここで手を引いてとか、僕は1度も考えたことがない。そういうタイミングではなくて、人の体には色んなセンサーがあるんです(…)
(今年は)今までよりそのセンサーが増えたし、1つ1つの精度が上がったかなという感覚があります(P41)
やっぱり中の問題。中がしっかりするというか、インパクトの前で全ての矢印が1つの方向にまとまる。だからインパクトがどうとかは考えないです(P43)
筒香の言葉はいつでもとにかくいい。昼と夜のあいだにエアコンのフィルターの掃除をした。
ただ自分の目に映りはじめたのは寂しい、荒れた、涼しい道路だった。(『八月の光』P339)
女はひと言で彼を釘づけにした。彼は初めて相手の顔を見やった——それは冷たく、そらぞらしく、一徹な表情だった。「あんたはね、いま」と女は言った。「自分の人生をむだにしているのよ、それが分らない?」(P349)