世俗から遠く離れて2014

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物件を探しているときの譲らない条件の一つとして2階以上の物件、という項目があった。
お世話になった不動産屋さん何人かのうちの一人の方と話しているときに、とりあえずは看板を出すつもりはないんです、ということを言ったら「2階以上で看板も出さないって、それは趣味の店ですか?」と聞かれた。僕はちょっとむっとして、とっさに「ガチです」と答えた。なんてバカみたいな返答をしてしまったのか、と思ったのだけど、もちろんこの店はガチなわけです。
2階以上も、看板がないことも、この空間を成り立たせる上で必要なことだと僕は思っていて、ということを網野善彦の『無縁・公界・楽』を読んでいたら思い出した。
この無縁、公界、楽というのは、「本質的に世俗の権力や武力とは異質な「自由」と「平和」」が得られる場所」、世俗のしがらみや義務から解放される場所、アジールとかサンクチュアリとかそういう類の、という感じで、こういった場所が存在することは、洋の東西を問わず人類史を貫通する原理らしい。この本では日本の古代・中世・近世を扱って、あれこれの事例を教えてくれる。
家族と縁を切りたい人が行くとか、借金まみれの人が行くとか、まあいろんな人が駆け込んで、そしたら万事オッケー、みたいな感じで(ただしそこで得られた「自由」は無条件で人を幸福にさせる、ワクワクさせるような自由だったかというと全然そうじゃないよね、ほぼ牢獄だよね、っていう話もいくらでもあるみたいなのだけど)、今の感覚からするとけっこう激しいものだなと思った。
家の中での殺生が罪に問われないパターンとか、穢多や非人といった社会の教科書レベルでは「虐げられた人びと」だとしか書かれていなかったはずの人たちも、無縁や公界の中では重要な役回りを演じることもあったとか、色々と面白かった。
そのなかで僕としては下記のが一番「ほえ~」だった。
「寺院は、多少ともアジールとしての性格をもっていたと思われるが、なかでも有名なのは高野山である。戦国期、ここは「遁科屋」が存在した。それはいかなる罪科人も、この門の中に足をふみ入れば、その科を遁れうるという建物といわれ、高野山のアジール的性格を物語る最もよい証拠とされている(P128)」
逃げ込みさえしたら犯罪も帳消しになっちゃうんですか、と。無事に逃げおおせたら「セーーーーーフ!」みたいな達成感がありそう。切実すぎる鬼ごっこという感じだったろうな。知らないけど。
で、現代。僕らは誰しもが少なからず罪人だろうし、逃亡者だろう(雑な展開なのは百も承知)。
自分の罪や追手から逃げる方法はあるのか、世俗のしがらみから逃れる方法はあるのか、っていう話なわけで。世捨てしたいなーって毎日軽くは思うわけで。でもそんな覚悟とか全然ないからとりあえず逃げ場がほしいなーと思うわけで。何にも脅かされない場所があるべきだと思うわけで。そんな場所の提供者になれたならとてもなんかこう生きる意義くらいになりうるんじゃないかっていう。
だから人の目から逃れられる2階であって、だから存在を知らなければ入るという選択肢を持ち得ない看板なしであって。趣味どころかガチもガチ、ガッチガチなんですよと。
この本を読もうと思うきっかけになったのは松岡正剛のこの記事を読んだからだったのだけど、うわ、もうそれフヅクエ的には100点の答えが書かれているじゃないですか、というのがあった。
「一人の人間が特定の空間・時間などにかかわることによって、持続的あるいは一時的に不可侵な存在となる」(ヘンスラー)
オルトヴィン・ヘンスラー。検索しても著書『アジール その歴史と諸形態』の情報しか出てこない。何者なんだ、ヘンスラー。
追記:看板出した→その1その2その3
(『無縁・公界・楽』のカバー図版は清水寺参詣曼荼羅というものみたいなのだけど、似てるし、みたいなところで)