本の読める店

出カンバン記

Entry blog fuzkue346

僕は親切なので今回もまず要約を3行で。
・看板出すか悩み始めています
・看板出すか悩み始めています
・看板出すか悩み始めています

以下、看板出すか悩み始めている頭の中身が4000字にわたって書かれます。

「あ、これは看板を出した方がいいのではないか」と思い始めたのは先週だった。あんまりな営業が終わって、その営業は集客もそうだけど不幸な巡り合わせだったり自己嫌悪を催させる僕のクソ曖昧な判断基準の行動とかもあって(多分こちらの方が集客の惨めさよりずっと影響は大きい、というかいろいろと合わせ技というか)、ほとんど必要のないような片付け活動をおこないながら、xxxが、xxxが、xxxような、xxxが、xxxに、xxx。それを抑えることができなかった。

っていう書き出しのこの暗さwww
ちなみにxxxながらxxxというxxxをおこなったこともここに付言しておきたい。テンプレ苦悩。(※ちょっとあまりに暗すぎるので伏せ字にした)
でもまあ、今は「www」とか書きますけど「あ、まずいなこの今の俺のメンタル」というのはとてもそのときに思って、「これは削られすぎてる食らいすぎてるな」というのはとてもそのときに思って、それでジム行って盛大に走ったらだいたい解消されたのだけど、翌日から「看板…看板なのか…?これはとうとう出すときなのか…?」という考えをこねくり回し始めた。一日一人でも二人でも今よりも増えたら、それだけでずいぶんと違うんだ、ずいぶんと楽になるんだ。一人や二人くらい、看板で招き寄せられてはくれまいか。そんな、なんというか浅はかな、軽薄な考えが(しかしそれは果たしてどこまで浅はかで軽薄といえるのか)、頭のなかでくるくると回っていた。
と、その土曜日、この日も「看板な〜どうかな〜」と考えていた、そんな日、すごく久しぶりに「おーこれは盛り上がってるぞ!ナイスグルーヴ!ナイスヴァイブス!」みたいな、一人でエア大喝采を送っていたんですが、そんな土曜日になって、「看板と思い始めた矢先にこれってことはお天道様がまあいいからもうちょっと待ちねえと言ってくだすっているということかしら」となった。

それから一週間が経った。
今週の僕の気分は落ち着いたものなのだけど、昨日とかからまた考え始めたのか、昨夜とかもよく来てくださる方に「どう思います?」とか看板についての意見をうかがったりしていて、やっぱり考えてはいるようだ。ようだというか、考えているから今これ書いているって話なんだけど。
多分、あさふづくえ始めて、まだ2日だけど、それで単純に興味があるのでお帰りの際に「なにで知って来てくださったんですか」と聞いているのだけど、そうしたら「看板で」という方がちらちらおられて、でまあ、そんな看板な方々も変わらずよい時間を過ごしてくださってる感を見て取って、「これはこれでまったくいいよなあ」と、「仮にフヅクエでもこういうふうになるのであれば、これはこれでまったくいいというかたいへんいい、誰も損していない」と感じた、そのことがまた看板をめぐって考えるきっかけになった、のでこうやって書いている。

ただ、特に妙なルールのない、言ってみたら「うん、カフェと呼ばれて「はい!」と返事するのにまるでやぶさかでない感じですよ」というモードであるあさふづくえと、いまだに「いやカフェっていうか、なんかこうしゃべっちゃいけないカフェバー的なというか、要はお酒とコーヒーと食事がとれるんですけど、そういう、で会話ご遠慮で、っていうなんかこう、そういう感じの店で」みたいな、端的に説明できないままでいるフヅクエとはもちろんまったくいろいろ違うから、気をつけなければいけないことはたくさんあって。
どのようにしてまるで無理解というかフヅクエ的ニーズを持たない人の来店を排するフィルターを設置するか、とか。とか。ええと。あれ?いや、もしかしたらそれだけで、それだけだったらできる気がする。

ところで「これまで看板を出さないことについてブログで何かしら書いてたよなあ」と調べてみたところとりあえず2つ見つかって。
魂を売らないために時間と体力を売る」という記事では「魂を売ること。(…)例えばカフェとでも銘打って看板を出す。静かな時間を過ごすというニーズも気構えも持たない二人組がやってきて必死におしゃべりを我慢してクスクスと笑う。コソコソと話し続ける。空気が乱れる。それはフヅクエとしてのフヅクエに来てくれる人たちの時間を毀損する。」とある。
これについては上述の通りそういう気構えのない人たちの来店をはばむ、入る気をなくすことができれば問題はない。外の看板と、踊り場の板のところで2段階でなんか「フィルタ〜」みたいなことが書ければ、たぶんそれで済む。
ちなみに「あれ、魂売らないためにこそ定食屋やってるのでは?」という問いがあると思うのだけど、これが定食屋が調子落としちゃっているんですよねえ本来作りたいところまでの売上が作れていないというのが1点と、もう1点がやっぱり僕の気分の問題で。あまりにあれな時間を過ごしすぎていると、「え、俺がやっていることって結局誰にもというか誰にもは言い過ぎにせよほんとうにわずかな数の人にしか求められてないってことなのか…?つまり俺って世界に求められていないのか?」という、これね。世界に必要とされていない時間を感じ続け過ぎるのはほんと食らうというか。

もう一つが「世俗から遠く離れて2014」というやつで、これはわりと問題。
「2階以上も、看板がないことも、この空間を成り立たせる上で必要なことだと僕は思っていて」
「世捨てしたいなーって毎日軽くは思うわけで。でもそんな覚悟とか全然ないからとりあえず逃げ場がほしいなーと思うわけで。何にも脅かされない場所があるべきだと思うわけで。そんな場所の提供者になれたならとてもなんかこう生きる意義くらいになりうるんじゃないかっていう。
だから人の目から逃れられる2階であって、だから存在を知らなければ入るという選択肢を持ち得ない看板なしであって。趣味どころかガチもガチ、ガッチガチなんですよと。」
これが問題というか、「存在を知らなければ入るという選択肢を持ち得ない看板なし」という箇所で、逃げ場としてもそうだけど、これかな、「不思議な親密さ」という記事でお客さんからいただいた言葉に「お客さんどうしの不思議な連帯感を感じる」「ここを選んでいる意思を感じるから?」というのがあった、というのを書いたやつで、あそっか、だから最初からこっちの記事を言っとけばよかったのかな。ともあれ、看板がないことによってこそこの「選んでいる」感というのは醸されている気はしていて、だからなんというか、僕がここで作りたいはずの特別な時間感が薄れちゃうんじゃないか、というのが、怖いというか、どうなのか、といま懸念している最たる事項というか。

なんか薄まるんかな。なんか弱まるんかな。等々おもいながら、いま一つの希望として思っているのはあさふづくえの看板によって朝通る人たちがここに店があることを知ってそれによって「あ、夜も電気ついてた、行ってみよ」つってフヅクエもお客さん増えてハッピー、みたいな状況なんだけど
あれ、あれれれれ?それってなにかのフィルターとかって言ってるのむしろ全解除した状況になってないか?あれ、なんかおかしいな
てことはむしろ朝で店の存在を周知するのであればこそ夜もフィルター機能としての看板出した方が健全になるってことじゃないか、あれれ どういうことだこれは、そうなのか??

まあそんなわけで、「2階以上も、看板がないことも、この空間を成り立たせる上で必要なことだと僕は思っていて」と書いた僕はその考えをそろそろ翻すかもしれない。「看板を出すことが、この空間を継続させる上で必要なことだと判断して」。考えが明確に変わったとき、かつての自分の考えを軽やかに越えていくことに抵抗はないけれど、これはちょっと違う感じがしちゃっているよね今のところ。どうやって自分を納得させるかになっているというか。どうなるかな。多少の何かが薄まったりしたとしても、きちんとお金としても気分としても続けられる方がいいのかな。矜持。妥協?「そうとも言っていられない」そうとも言っていられないwww こんなことクソみたいな言葉がこの口というか指から出てくるとは!いやいやあるいは実は大して薄まったりもしないのかな。今来てくださっている方が感じてくださっているといいなと思っている豊かさみたいなものが減じたりはしないのかな実は。しかし本当に気分は、僕の気分は損なわれないかな。そっちも問題だよね。あーもうなんなんだよなんの興味もないのに入ってくんなよとか思ったりしちゃわないかな。それは怖いよね。あとそもそも、看板出したところで人が入ってくるのか問題ね、それ忘れて看板に過大な期待掛けてる俺の今のこのあれwwwという感じね。いやというかそもそもこの惨状の根幹をもっと見るべきなんじゃないのかそもそも。必要とされていない店をお前はやってんじゃないのって。いやいやそんなことない。フヅクエ最高最高。超愛されてる。サンキュー愛してくださっている方々。ほんとありがたい。等々。

そういうわけでフヅクエ店主、四十にして惑わず五十にして天命を知るべく三十なので惑いまくる、の模様をお届けしました。あーどうするかなー出すかなーもしかしたら出すかもしれませんなー。惑うッ…!!!!惑う♪(>ω<)

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