『若い藝術家の肖像』を読まない(35)

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3月17日以降に読了した本は次の通りで
村上春樹『風の歌を聴け』
角田光代『さがしもの』
ちきりん『マーケット感覚を身につけよう』
池内恵『イスラーム国の衝撃』
ハリ・クンズル『民のいない神』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
カルロス・フエンテス『ガラスの国境』
今日ツタヤにDVDを返却するついでに寄った新宿の紀伊國屋書店ではあれこれ悩んだ挙句にパトリック・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』を買った。今日営業が終わったら読み始めようと思っている。
ずいぶん、僕からしたら結構な早いペースで本を読んでいて、どうかしたかな、というところなのだけど、3月17日以降と書いたのは、この「『若い藝術家の肖像』を読む」シリーズの最終更新日で、喫茶店で読みましたよ、とか書いて以来2週間、くだんの小説を一度も開いていない。
飽きたのか。いや、そういうわけでもないだろう。というのが僕の見解で、どうも、いつからだったか、そうか、恵比寿映像祭に行ったときからか。そのときにこう書いた。
「『若い藝術家の肖像』という一冊の小説とともに暮らしていく様子を、もうほとんど日記のありようで綴っていったら」
それ以来、なんとなく外出をするときにこの小説を一緒に持っていくようになって、映画館の座席なり、喫茶店なり、カフェなり、何かしら自分の中で外出モードがあるときに開いて、景色とともに記憶に刻む、ひとまずそれさえあれば豊かな読書の時間が形成されていくのではないか、そんなふうな流れになっていた。
ところが今度はそうすると、外出をしないと開かない、ということになってしまった。
そして、ここのところまったくといっていいほど外出らしいことをしていない!だから開かれない!という感じになってしまった、ということらしかった。
なんともなんだろうこれ、すごいよくわからない本末転倒感というか、何が本で何が末なのかよくわからないから転んだり倒れたりしているのか定かではないのだけど、ちょっとちょっと〜、という気分になった。何がちょっとちょっと〜なのかもちょっとわからないんだけど。
最近この小説のことを思い出したというか忘れているわけではなかったのだけど意識にパッとのぼったのはたしか、『ガラスの国境』の中で「スティーヴン」という人名が出てきたときで(今どこに出ていたか探したら見つからなかったので違うかもしれない)、「あ、スティーヴンのこと忘れてたっていうか忘れてたわけじゃないけど」と思ったのだった。
どこまで読んだんだっけか。なんかむかしむかしみたいな話で始まって、おとうさんがどうだとか言って、ピアノにあわせて踊って、学校か何かに入学して「さようなら、スティーヴン」と両親が言って去ってって、体育の授業か何かでフットボールをしていて、やる気なくて、同級生がいじわるだったりいいやつだったりして、っていう話だったっけ。スティーヴン、ディーダラス、だっけ。