読書の興奮と諸行動(『民のいない神』を読んで)

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昨日は疲れていた。今日は元気いっぱいだった。どうやら気分の違いでしかないらしい。
昨日の営業後、それから今日も起きてからずっと、ハリ・クンズルの『民のいない神』を読んで、終えた。もうなんていうか、どえりゃーもん読んでもうたーというかもんげーみたいな、もんげーなんて感嘆の引き出しが俺にもあったのかみたいな、大きな興奮とともにそれは読み終えられ、砂漠の様子が脳裏に広がって、頭がじんじんと痺れるような読後感に浸るというかびりびりしていた。
「本の一番のおもしろさというのは、その作品世界に入る、それに尽きると私は思っている」
先日読んだ角田光代の本にまつわる短編集の『さがしもの』のあとがきのエッセイのなかでそう書かれていて、実にシンプルなんだけど本当にこれに尽きる、尽きるかどうかはわからないけれどすごく大事というか大きいよねというか結局それだよねなんやかんや言ってほんと、と思って、アメリカ合衆国西部のカリフォルニア州のわりと南部の砂漠を主な舞台として、UFOや失踪事件や金融危機やイラク戦争や先住民への布教活動や暴力等々が、18世紀から21世紀までを何度も行き来しながら描かれる様にのめり込み、耽り、登場人物たちの言動や一挙一動に苛立ったり心配したりほっとしたり、出来事の推移に驚いたり悲しんだり喜んだり、そうこうしているうちに頭がじんじんと痺れていく。
すごい素朴なことを言っているのはよくよくわかっているのだけれども、いやほんと、じんじんですわ、こうなったら勝利ですわと、やたらに興奮して読み終えたわけだった。
角田光代のその文章は「一回本の世界にひっぱりこまれる興奮を感じてしまった人間は、一生本を読み続けると思う」と続くわけで、本屋に行った。
帯に「ピンチョンとデリーロの系譜に連なる」とあるから、読んだことないしデリーロいっちゃうか、あるいはとうとう、満を持すというか別に持してもないけどこのテンションのままいっちゃうかピンチョン、重力の虹、いっちゃうか、いっちゃいますか、とか、それとも再読したいとここのところ思っていたボラーニョの『野生の探偵たち』、超越文学って感じするしそっちにするか、あるいはテンション高く走り抜けられそうだしパトリック・シャモワゾーの『素晴らしきソリボ』とか、等々、本棚のあいだをうろうろしながら、僕の顔はあからさまにニヤついていた。
今日の俺は本に祝福されているか守護されているか、いずれにしてもそんな感じがする、みたいな、どうかしちゃった感じの高揚した気分で徘徊。
結果、ソノラとか、テカテビールとか、カリフォルニアは国境の州なのでメキシコっぽい気配もいくつもあったこともあり、ここはひとつもういっちょ国境のあたりをうろつきますか、みたいなところでメキシコの小説家カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』に決めた。
とは言え、というかそれにして買ってきたのだけど不安はあって、フエンテスは以前やはりメキシコを舞台にした『澄みわたる大地』を読んだのだけどこれがけっこうしんどくて、俺いまけっこう突き抜けた感じがほしいんですけど、というその感じにはならないんじゃないか、ジメッとするんじゃないか、めんどくさーってなるんじゃないか、みたいなところで、日和らずにピンチョンに行くべきだったのではないかと。でも重力の虹はもうなんかすごい腹をくくらないといけないというか、どれだけ長い時間付き合うことになるんだろうと思うと、ちょっと今じゃないような気がしちゃって、それでガラスの国境いったんだけど、どうかしら。
とかまあ、どうかしらじゃないよというか、総じて、読んだ本の影響で元気いっぱいになって高いテンションを持続させて今に至ったという次第だった。