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きくちゆみこ「読めないものを読む人」

 さっきまでばたばたと部屋を駆けまわり、ベッドにダイブしてはまた飛び降りる……をくり返していたオンは、いつの間にかソファに座っている。膝の上には小型の絵本。ジャッジャッと威勢のよい音をたてながらページをめくり、何やらぶつぶつ呟いている。
 「かにねこ にこら・べーりーさく ぼくが ねこじゃなくて かにだったら うみべの みずたまりの そばにすむ (だけど なかには はいらない)——」
 子どもがひとりで絵本を読んでいる。オンはもう5歳だから、そんな光景を見ても驚く人はべつにいないかもしれない。このあいだも、インスタグラムで3歳にならない子どもが「あいうえお表」をすらすらと読み上げる動画を見たばかりだったし。それでもわたしはどきっとする。オンがひとりで遊んでいるあいだ、少しでも低くしようと「積読塔」から抜き出した2冊の本は、けっきょく気が散りすぎてひらかれぬままテーブルの上に置かれている(グアダルーペ・ネッテルの『赤い魚の夫婦』とW.G. ゼーバルトの『土星の環』)。わたしは音をたてないように席を離れて、キッチンの影からオンの様子を観察することにした。彼女はその小さな本に書かれたユーモラスな文章を、ほとんど間違えずに終わりまで読み上げた。そして満足そうにパタンと本を閉じると、次の本を取り出した。「ぞうねこ にこら・べーりーさく ぼくが ねこじゃなくて ぞうだったら——」。声は出しているけれど、本を読んでいる人の静けさが、オンのまわりをぐるりと取り巻いている(うらやましい)。
 わたしの心臓がどきどきしたのは、オンがまだ「文字を読まない人」だから。オンはシュタイナー子ども園に通っていて、だから読み書きのたぐいはまだ家庭でもノータッチの状態だ。もちろん、子どもは何にでも興味を持つので、「これはなんの字?」と問われれば、「た」だよ、とか「る」だよとか、文字の音を答えることはある。だけど『かにねこ』を読んでいたオンは、文字を追っていたわけではなかった。彼女がその絵本を「読める」のは、わたしや夫が何度も読み聞かせた言葉を、すべて音で覚えているから。そこに描かれている絵とそのとき語られた音がつながり、ページをめくる動作がプロンプターのようにはたらいて、言葉が口をついて出るのだと思う。
 読めないものを読む人。そう書きながら思い出すエピソードがある。イスラム教の創始者ムハンマドは、瞑想のために訪れていたヒラー山の洞窟で天使ジブリールに出会う。ジブリールはムハンマドのからだをぎゅうぎゅう押さえつけながら、こんなことを命じる。「読め、読め、読め」。しかしムハンマドはそれを断ろうとする。なぜなら彼は非識字者、つまり読み書きができない人だったから。しかも「読め」と命じられた本に書かれていたのは神の言葉で、そもそも人間には読めないはずのものだった。そんな本を、「読めない人」であったムハンマドが読み、語り伝えることで「クルアーン」がつくられた(ちなみにクルアーンとは「声に出して読むこと」という意味らしい)。
 人がはじめて言葉に出会うとき、そこにはいつも誰かがいる。天使や神さまじゃなくても、親、きょうだい、親戚、それに通りすがりの人まで、さまざまな人が赤ん坊に語りかけてくる。声だけじゃなく、彼女・彼らの表情や口の形、唇や舌の動き、それから身ぶり手ぶり、そんなものが渾然一体となって赤ん坊のぼやけた世界に飛び込んでくる。人はまだ幼いころから、音楽と言葉のちがいを聞き分けているという。人が語りかけてくる言葉は、鈴の音や鳥の歌声ともちがう。幼い子どもは全身が感覚器官で、さらには模倣の天才だから、そうして語られたものをからだ全体で吸収し、今度は自分で言葉を発するようになる。まるで遅れてきたこだまのように。でも、本に印刷された活字の声を聞き取れるようになるまでには、まだまだ長い時間がかかる。
 わたしにとっても、本はずいぶん長いあいだ「語られるもの」だった。夜、ベッドのわきに座る母が手元の明かりをたよりに読んでくれた本:『ふたりのロッテ』、『はてしない物語』、『クマのプーさん』、『あしながおじさん』、『大草原の小さな家』、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』、『秘密の花園』、そしていくつもの『ドリトル先生』シリーズ(母もわたしもドリトル先生が大好きだった)etc…… それらはすべて母の声を通じて出会った本だ。ピンク色のやけに軽いタオルケットを首元まで持ち上げ、お話に耳を傾ける。目をつぶるたびにゾッと湧き上がってくる明日への不安が(わたしは登校拒否っ子だった)、そのときばかりは消えている。そうやってベッドに横になり全身で物語を聞いていると、夢と現実の境目がだんだんあいまいになってくる。皮膚がゆるみ、細胞がぼろぼろとこぼれ落ち、声につつまれて本とひとつになる。
 じゃあ、わたしはいつひとりで本を読めるようになったんだろう? 毎晩の読み聞かせは小学校卒業まで続いた気がするけれど、幼稚園のころから本をめくっていた記憶はある。はじめはきっと、ひとつずつ文字を指でたどり、ゆっくりと声に出して。そしていつの間にか口をぴったり閉じ、ひっそりひとりで本を読む人になった(今と同じスタイルだ)。父は書籍編集者、母は家で子ども相手の教室をひらいていたから、地下に書庫まであるほど本や絵本だらけの家で育った。その反発からか、ローティーン時代には漫画しか読まない日々が続いたけれど、小学生のころは岩崎書店の『名探偵シャーロックホームズ』にハマり、図書館でしょっちゅう借りていたことを覚えている。挿絵もチャーミングだった「ワトスンくん」が大好きで、「雨が降ると戦争で負った古傷が痛む」といった描写に深く同情していた。じっさい雨降りの日には、その痛みを自分でも感じられるような気がした。それがふつうの怪我や傷の痛みではないことも、どこかでうっすらわかっていた。戦争を経験したこともなければ古傷すらない小学生が、いったい何を読み取っていたんだろう?
 わたしは今、シュタイナー学校の教員養成講座に通っている。自分が教壇に立つことはあまり想像できないけれど、かつてうしなった学びの時間と、そのわくわくを取り戻すようなすてきな体験を得ている。先日「1年生の国語」についての講義を受けたとき、先生はやわらかい文字で黒板に「あじさい」と書いた。「みなさん、ここになんて書いてあるかわかりますか? あ・じ・さ・い。そう、あそこの花瓶にも飾られている、あの青々とした花ですよね。たとえ目の前に花がなくても、大人のわたしたちなら、この文字を読んだ瞬間にみずみずしい紫陽花をパッと頭に思い浮かべることができるはずです。今まで自分が見たことのあるイメージと、言葉がすぐに結びつくのです。だけど、文字と出会ったばかりの子どもにとっては、そんなに簡単なことではないのです……」
 たとえば絵画や音楽、そして数字の世界とくらべると、読み書きは最も「地上的」なものだという。およそ6000年前に誕生した文字は、20万年あまりある人類史のなかでは、比較的あたらしいテクノロジーなのだ(テッド・チャンの短編集『息吹』にもそんな物語があった)。読み書きは人に生まれつき備わった能力ではない。文字は発明されたもの、つまりは解読しなければいけない抽象的な「記号」で、知的な作業を必要とする。だからシュタイナー学校では、文字の導入にはたっぷり時間をかける。人がどのように文字を発明するようになったのか、その文字がどのようなイメージをもとに形作られていったのか。頭だけじゃなく、心にもからだにもはたらきかけるように、先生がお話を語り、黒板に色とりどりのチョークで絵を描き、その絵がだんだん漢字と呼ばれるものへと変化する様子を示していく。子どもたちはそれをクレヨンで模写し、ときには腕や足を使って大きく空中に書き、指でお互いの背中に書いてみることで、まずは漢字、それからひらがなカタカナと、その起源をたどるように全身全霊で文字と親しくなっていく。
 そんな授業を体験しながら、わたしは大学時代の教室にタイムトリップした。今は亡き恩師の深いしわがれ声が聞こえてくる。
"A word is dead / When it is said, / Some say.
I say it just / Begins to live / That day. "
(口にだしていうと ことばが死ぬと ひとはいう
まさにその日から ことばは生きると わたしがいう /川名澄訳)
 まぶしい西日がカーテンから差し込む午後、エミリ・ディキンスンの詩を暗誦した先生は、続いてこんなことを言った。「いいか、文学っていうのは、桜を見上げて涙を流すことなんだ。りんごを齧って、懐かしい思いがこみ上げてくる、そうした営みのことなんだ」。だから、本の骨ばかりに齧りついていないで、血を、肉を愛せよ——(ムハンマドのエピソードもすさまじいけれど、あの教室で起きていたこともけっこうすごかったと思う)。
 たしかに本はひとつの肉体みたいだ。しっかりとした骨格や筋を持ちながら、リズミカルな鼓動があり血が脈打つ、自分とはまったくちがう他者が活字の背後にいる。だからこそ、本を読むときにはまるごとの自分で向き合うことになる。何しろ、たったひとつの言葉——たとえば「あじさい」——を読もうとするときにも、かつて見たこと聞いたこと、そのときに感じたこと考えたこと、そうした自分の体験のすべてを総動員して想像力を展開する必要があるのだから。そうでなくては、言葉は読めない、言葉は生きない。本の上の黒い文字、それはたとえば種みたいなもので、わたしが読むことで芽を出し、花をひらかせ、あたりをすばらしい香りで満たす。そしてわたしはまたすぐ次の言葉をひろう。そのくり返し、くり返し、ほとんど意識すらしないまま、その都度そこに全人生をかけている(それもやっぱりすさまじい)。公園で、電車で、喫茶店で。「本を読んでいる人」が、傍目にも魅力的に映るのは、たとえ静けさにつつまれていても、その人の頭のなかが、花や香りや声なんかでいっぱいになっているのが、なんとなく伝わるからなのかもしれない。もしくはたった今、その人の全人生がくり広げられていることが。
 ところで、未来の世界では、本の代わりに人は水晶を「読む」ようになるのだと誰かが言っていた。メッセージや物語が転写された光り輝く水晶を、ポンと手渡されるだけで、そこに「書かれた」ものがあっという間に読み取れてしまうのだと。そうすれば誤読の心配もないし、すべてが苦もなく共有される。それもすてきな光景だけど、わたしは今は本をひらく。ものすごく気が散っても、一日たった数ページしか読めなくても。そこにはやっぱり誰かがいて、何かが花咲く予感があるから。
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きくちゆみこ
翻訳・執筆など。訳書に『人種差別をしない、させないための20のレッスン』(DU BOOKS)、『ROOKIE YEAR BOOK TWO』(DU BOOKS、共訳)などがある。2010年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたZINEを定期的に発行しつつ、言葉を使った作品制作や展示も行う。 http://yumikokikuchi.com