二十四歳くらいの頃に私はときどきゾーケー屋でバイトをしていた。お前暇だったらゾーケー屋でバイトしないか、と私に電話をしてきたのは絵の先生だった。三歳くらいの頃、家で換気扇を見ながらぐるぐる渦のような絵を描くのが好きだったらしい私を見て、両親が近くのお絵かき教室に通わせることにして、その教室には私は高校の途中まで通った。高校の途中に教室が閉まることになったから閉まるまで通ったのだ。
幼児クラスや小学生クラスは結構な人数がいたが、中学生や高校生になっても通い続けるひとは少なかった。少なかったが何人かはいて、みんなそれぞれ油絵だったりデッサンだったり好き好きに絵を描きながら、すぐに気が散っておしゃべりをしたりもしていた。美大を受験するひともいたけれどそういうひとは専門の予備校にも通っていたし、いま思うと彼らというか私たちが週に一度、学校や部活のあとにあの教室に通っていたモチベーションを簡単には説明ができない。いやいや通っていたわけではないし、暇だから行ってたというわけでもない、といって教室のなかでそこまで熱心に絵を描いていたわけでもない。
昼間は幼児や小学生のクラスで、中学生より上の生徒は夜の時間帯に教室に来る。人数は少ないが大人もいた。大人のひとは趣味というかそれぞれの職業などとは関係なく絵を描くのが好きで通っているひとたちで、大人のひとはいつも騒がしい私たちをよそにみんな静かに淡々と描いた。教室は狭く、プレハブのような建物の二階にある十畳ほどの部屋だった。私たちがうるさくしていると先生が、お前らうるさいぞいい加減にしろ、と怒った。ずっとうるさくしているわけではない。ひとり、またひとりと絵の方に集中して、静かになる時間もある。それでまた集中が切れるとおしゃべりをはじめたりした。まだあの建物はあるのだろうか。
私が三歳から通っているあいだに教室は何度か移転して、最後がそこだった。小さい頃に通っていたアトリエは森のなかにある小屋のような場所で、もう記憶もおぼろげだから、夢のなかで行く場所みたいに思い出される。
絵画教室が閉まってからは先生や通っていたひとたちとの付き合いは切れないまでもずいぶん疎になっていて、だから先生からの電話も唐突なものだったような気がする。たぶん携帯じゃなくて、実家の家の電話にかかってきた。ゾーケー屋、と言われてもどんな仕事かぴんとこず、話を聞けばゾーケーとは造形のことだとわかったが、先生が言うには、なにを造るかは知らない、とのことで、なんだそれはと思ったが暇だったから働くことにした。
家から原付で十分ほど、バイパスを外れまだ畑の多く残る地区で、工場のような倉庫のような建物が二棟向かいあっている、そのうちの一棟が先生から教えられた仕事場だった。
ひとに斡旋しておいて、なにを造るかは知らない、と先生が言っていたのは、造型屋が製作するものがあまりに多岐にわたるためだと働きはじめてからわかった。
最初に行ったときに造っていたのは、会津若松に新しくできるショッピングモールの遊戯場のようなコーナーの内装で、FRPでできた巨大なフルーツやお菓子の模型だった。たとえば発泡スチロールを削って巨大なりんごの形の原型を造り、それを石膏で象る。石膏が固まったら、内側の発泡スチロールを取り除く。このとき石膏に貼りついてうまく剥がれないときはアセトンをかけると発泡スチロールは一瞬で溶け消えてなくなるのがおもしろかった。石膏型がとれたらその内側にガラス繊維と樹脂を張り込んでいく。樹脂が固まったところで石膏を割って取り除くと、原型と同じ外形の強化プラスチックができあがっている。小さいりんごなら半分ずつの型でできるが、巨大なのでそれこそりんごは切り分けられたようにいくつものパーツで型取りがされていて、切り分けられたりんごを今度は元の一個に戻すみたいに接合していく。中身は空洞のガワだけだから、りんごの皮だけ繋ぎ合わせるみたいな感じだ。大きな一個のりんごの形になったら、表面や接合部分などを磨いたり、パテを盛ったりして滑らかに整形していく。形ができあがったら下地を吹きつけ、スプレーガンで着色をする。何日もかけてそんな過程を経て、本物そっくりの巨大なりんごができあがる。
できあがった巨大なりんごやオレンジ、ドーナツやアイスクリームはトラックに積み込まれて現地に運ばれる。仕事はそれで終わりではなく、私たちはバンに道具を積み込んで雪の降るなか会津若松へ向かう。装飾品の製作だけでなく、現地の設置も行う。そこから先はほとんど内装業者の仕事だ。
一週間会津若松に滞在し、毎日ショッピングモールに詰めてオープン前の遊戯場コーナーを少しずつ完成させていく。同じような業者が同じコーナーにも、同じフロアの各売り場にも大勢いる。始業前は何百人という作業員がぞろぞろとそれぞれの作業場に向かって歩いている。ヘルメットには名前と血液型が書いてある。仕事が終わると夜は毎晩会津若松の飲み屋を開拓して歩いた。一週間後、無事に遊戯場コーナーを完成させて、鶴ヶ城などを観光して草団子を買って帰った。
それが造形屋でやった最初の仕事で、その会津若松の仕事が一段落すると工房も暇になるから私は用なしで、また忙しくなったら今度は直接工房の社長から電話がかかってきて、都合が合えばまたバイトに行く。今度はテレビのヒーローもののバイクや小物を造ったり修理したりする仕事で、その次は静岡かどこかの公共施設に設置される特産品や景勝地のジオラマを造る仕事。どこかの店の看板やモニュメントもあった。そこで請け負う案件でいちばん多いのは日本でいちばん知られた遊園地の園内の人形や装飾品を造る仕事だそうだ。造るものの大きさも材質もいろいろだし、依頼主もいろいろ、だからその時期によってまったく違う業種に変わるみたいに手がける仕事の幅が広く、たまに呼ばれて手伝いにいく私にはなおさらそんな印象だった。
倉庫のような作業場の前は砂利敷きで野晒しの広いスペースがあり、駐車場も兼ねているが、作業場のなかではできないような大きな木枠の組み立てとか、背の高い製作物の組み上げなどを行う作業スペースにもなった。その庭を挟んだ向かいの建物はやはり同業の別の工房の作業場だった。この業界は仕事が何重の下請け構造になっていることが珍しくなく、向かいの工房の仕事がこちらに流れてきたり、こちらの仕事を向こうに流したりすることもよくあった。大元を辿ればどこかで構造的な中抜きなどがないはずがないと思うが、紆余曲折を経て実際に製作を手がける現場レベルでは単純に手が足りないとか納期に間に合わないとか日頃の付き合いとか、互助的な理由で仕事を回したり回されたりしているような印象だった。もっとも、ときどきバイトに行っていただけの私には詳しいことはよくわからない。自分がいま手伝っているこの製作物も、どこかの誰かの依頼があって、それが巡り巡ってこの作業場で造られることになり、やがてできあがったらずいぶん遠くの思わぬ場所や、思いがけず華やかな場所に設置されたり飾られたりする。それを眺めるひとがいる。そのひとたちはしかしこうしてこんな場所で自分みたいなひとが造ったとは想像できないだろうし、自分だってそんなものを造ることになるとは思っていなかった。
業務の内容は多岐にわたるけれども、建設現場とかと似たところは多くて、だからそういう仕事場と同じで午前十時と午後三時には休憩があるし、労働時間はかっちりしていた。午前の休憩は工房のひとたちとコーヒーを飲みながら雑談をしていることが多く、本を読んでいたのは一時間のお昼休みと午後の休憩時間だった。
お昼ご飯はたいてい、朝の出勤途中でコンビニに寄って買った弁当とかおにぎりとかカップ麺で、工房内の適当な台とか椅子を使って食べた。十五分もあれば食べ終わってしまうから、そのあとは本と飲み物を持って外に出た。作業場のまわりには常にブロックとか垂木とかがごろごろしていたから座るのに適当なものを見つけて腰かけ、本を読んだ。作業場のなかはいつもラジオがかかっていて、本を読むには外の方がよかった。砂利敷きの広い庭には日を遮るものはなく、天気がいい日はこの砂利の庭に塗装を乾かす製作物がそこここに置かれていた。遊園地の人形なんかを造っているときには、人形の胴体とか頭とかがばらばら死体のようにごろごろ転がっていて、前の道は近所にある小学校の通学路にもなっていたから、下校時間に通りかかった子どもがそれを見て興味深そうにしたり、遠巻きに騒いだりしていた。そういう子たちのなかには、○○のバイクは実はあそこで造っている、とか、○○ランドの小人の人形もあそこで造っている、と感づいている子もいたかもしれない。それをこっそり誰かに教えたり、あるいはこれは自分だけが気づいている他言無用の真実だと思って黙っている、そんな子もいたかもしれない。周囲にはまばらな住宅のほかには畑が多く静かな場所だったが、作業中の工房では常になにかしら電機工具が使われていたし、壁面にフィルターを貼った巨大な集塵機もあったから絶えず大きな音がしていた。休憩時間にそれらが一斉に止むと、あたりは一気にしんとして、砂利を蹴って転がる石の音とか、作業場のなかから漏れ聞こえるラジオのなにを言っているかは聞き取れないひとの声とか、小さな音がとてもきれいに聞こえた。周辺には高い建物はなく、空が広い。どこかで鳴いた鳥の声は驚くほど遠くまで響き渡った。工房では猫を飼っていて、犬小屋みたいな立派な小屋も造ってもらっていた。昼のあいだは近所をうろついていて、お腹が空くと戻ってきて、にゃあにゃあ鳴いてエサをせがんだ。
そんな日の差す庭の明るさと、静けさと、冴えた物音のなかで読んだ本はそのときどきでいろいろだったはずだけれど、その場所となぜだか忘れがたく結びついているのは漱石の『草枕』で、だから『草枕』には外光のなかにある作品というイメージがずっとある。ほかの漱石の作品とくらべて屋外の場面が多かったような気もするが、実際にどうなのかはわからない。私のイメージにある外光はあの工房の昼休みの砂利敷きの明るさばかりで、どんな話だったかもあまりよく覚えていない。絵描きが温泉に逗留するみたいな話だった気がする。その逗留地の山中の景色、その外光も明るかったのか。
造形屋で働くひとは美大で彫刻とか立体とかをやっていたひとが多いようで、私が一緒に働いていたひとも仕事をしながらときどきギャラリーの展示会に出す作品を制作したりしていた。私も絵は習っていたが、いまは絵は全然描かない。
その頃私は小説をまだ書いていなかった。小説は好きだし書きたい気持ちもあったはずで、文章を書くこともしていたが、自分の書いているものが小説かどうかというとこれは懐疑的だった。あとになって、ああこういうのが小説になるのかもしれない、と思ったことを覚えていて、そのときに、やっぱりこれまで自分が書いていたのは小説とは違ったんだ、と思ったことも覚えているから、当時書いていたのは小説とは違ったし、自分でもなんか違うとは思っていた。小説を書きはじめる前だから、小説について考えることも、小説を読むことも、もしかしたらいまより楽しく、わくわくしていたのかもしれないとも思う。こうやって毎日体を動かして、休憩時間に外で好きな本を読む、六時に仕事を終えて帰って風呂入って酒飲んで寝る、そういう仕事が食い扶持になるのもいいかも、と思っていたけれど、その後小説を書くようになって、私は結局、小説を書くことが仕事になった。漱石の名を見ると、あの砂利の庭を思い出す。あの場所ではない場所で『草枕』をあまり読みたくない気がいまもしていて、漱石の作品のなかでいちばん好きな作品を訊かれたら『草枕』と応えるけれども、あまり再読していないから内容も覚えていないままいちばん好きとか言っていていい加減だ。あの場所で読んだ『草枕』が好きなのだ。