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三宅唱「雪の夜のことなど」

 読書について振り返ると、ぼくはつくづく恵まれた環境に育ったと思う。母親は、財布の紐の固い堅実な女性だったけれど、本についてはお小遣いの範囲を超えたリクエストをしても躊躇なく買い与えてくれたし、父親が設計した一軒家の、ぼくにあてがわれた部屋は壁の一面が床から天井まで造り付けの大きな本棚になっていた。
 小学校から帰ると日が暮れるまでボールを蹴り、夕食を食べたあとはすぐに階段をあがって二階の自分の部屋にいき、椅子に座って本を読む。
 宇宙に興味があったので、関連する本をよく読んだ。宇宙飛行士に憧れ、また彼らのインタビュー本を書いた立花隆にも憧れたり、『宇宙=1、2、3…無限大』を読んで挫折したりした。キッチンに置いてあった生活協同組合かなにかの商品リストに『人類の星の時間』という新刊本を見つけ、これ買ってとお願いして読んでみたら、それは宇宙の本ではなかったけれど、今度は探検家に憧れることになった。いまも手元にあるその本を確認すると、1996年9月20日発行とある。もう四半世紀も前なのか。小6の秋だ。
 冬になると札幌はとても静かな世界になる。雪があらゆる音を吸収し、しんとしている。雪や曇りの夜は、あたり一面の雪と雲のあいだで街灯が乱反射する、ということが物理的にありえるのか、えないのか、わからないけれど、昼のように明るいとは言えないしこれが夜だとも言い切れないような妙な眩しさがある。暖房の効いた部屋で本を読んでいて、ふと顔を上げて窓の外をみると、近所一帯がオレンジもしくは少しグリーンがかった光に満ちていた。道路を二つほど挟んだ先に高速道路が走っているのがみえる。大型トラックの光が音もなく右から左へと動いていくのを眺め、それから階下の庭で柴犬のゲンが小さな雪山の上に座りどこか遠くにじっと顔を向けているのを眺め、また本に目を戻して続きを読む。その一連を、妙に静かで妙に明るいその光景を、はっきりと覚えている。あれは一体何時頃だったのだろう。体感としては深夜遅くのことだけれど、当時は早起きだったから案外と21時や22時頃のことだったのかもしれない。本を手にしたままベッドに移動して読み続け、そしていつのまにか寝ていた。電気を自分で消した記憶はない。
 小学校を卒業する直前、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』を読み終えた。読まなきゃよかったと後悔した。一体なぜあんなものを読んだのか。習ったばかりのルソーの名前を書店で発見して知的好奇心がくすぐられたからだったか、あるいは「孤独」の一語に反応したからだったか。ちょうどその頃、人生ではじめて一人の時間が増えた。サッカーのクラブチームから離れることを決め、また中学受験をしたため春からは近所の友人たちと一緒に過ごさなくなることがわかっていた。それが寂しくて「孤独」に反応したわけではない。その逆。はやく大人になりたいとずっと思っていたし、「孤独」はきっと大人の条件だろうと直感し、極めてポジティブな関心を抱いていた。ひとり本屋や図書館で過ごす自分に自惚れていたような面も少なからずあっただろう。『幽遊白書』の飛影の佇まいに憧れる、そういう時期ってありませんでしたか。
 だから、当時の自分が素朴な少年だったと言う気はさらさらないけれど、しかし、いくらなんでも、12歳にとっては、18世紀の老哲学者による、それもなかなかに偏屈な文章はあまりにも、あまりにも強烈だった。いま25年ぶりに本を手に取ってみると、出だしはこうだ。
 こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。(岩波文庫・今野一雄訳)
 なるほど……。当時この一文を読んでどんなリアクションをしたのか正確には覚えていないけれど、オレも孤独になろう、オレも夢想しよう、と意気込んで手にとったわけだから、きっと一言一句を丁寧に読んだはず。だからきっと、あっという間に、あっさりこの雰囲気に飲まれたに違いない。
 ルソーの文章は以下のように続く。
 自分自身のほかにはともに語る相手もない。誰よりも人と親しみやすい、人なつこい人間でありながら、万人一致の申合わせで人間仲間から追い出されてしまったのだ。人々は憎悪の刃をとぎすまして、どんな苦しめかたをしたら感じやすいわたしの魂にこのうえなく残酷な苦痛をあたえることができようかと思いめぐらしたすえに、わたしをかれらに結びつけていたいっさいのきずなを荒々しく断ち切ってしまったのだ。人々がどうあろうと、わたしはかれらを愛していたのだろう。人間でなくならないかぎり、かれらはわたしの愛情からのがれることはできなかったのだ。いまではわたしにとってかれらは異邦の人、見知らぬ人となり、要するになんの意味もない存在となってしまった。(岩波文庫・今野一雄訳)
 自分の毎日とルソーの日々が重なるようなことは全くなかった。共感など、あるわけがない。書かれた内容もそうだが、頭がくらくらして吐き気を覚えたのは、内容以上に、そもそも「他人も何かを考えている」、「それも自分が考えもしないことを」という、ごく当然の事実に強く面食らったからだと思う。すでにサッカーで挫折を経験していたから、世界が自分中心に回っているとはもはや勘違いできなくなってはいたけれど、それでも、こんなにも自分と無関係な世界が存在しているとは。宇宙よりも、他人の頭の中の方がわからない。
 晩年のルソーは、亡命と帰国を経て、精神的にも肉体的にもかなり不安定な状況にあったらしく、正気とは思えない振る舞いもあったという記録が残っている。しかし当時のぼくはそうした背景を知らないし、「感じやすいわたしの魂」をそのままストレートに、ゼロ距離で受け止めたから、それまでで最も恐ろしい読書体験となった。いわば、遠い昔はるか彼方からやってきたルソーの亡霊と、自分の部屋で出くわしたような経験。いや、この比喩は正しくない。亡霊というよりももっと輪郭のはっきりした形の「他者」がそこにズドンと現れた。それも、自分が思いもしないことを感じ、考えている「他者」が。
 読んだ直後からしばらくの間、自分の頭で物事を考えているというよりも、ルソーのように世界をみ、考えるようになった。小学生が悩む必要のなさそうなことに悩み、やや無口になった。まんまと「感じやすいわたしの魂」に同化させられ、ぼくもまた感じやすくなったのだろう。読書は人格形成であるというけれど、いや、乗っ取りだ。ぼくの脳みそはその一時期、ルソーに乗っ取られたのだと思う。
 もう25年も経つが、ルソーがいまだに自分の頭の中のどこかにいるような気がしてならない。もし読んでいなければ、いまほんの少し性格や行動が違っただろうかとふと思う。叶うなら当時の自分に、たとえば星野道夫の本を渡してあげたい。そうすればもっと、こう、のびのびとまっすぐに……どこか遠くの地でひとり野営キャンプをしたりしていたかな。
 ルソーのことをすっかり忘れていたころ、大学生のとき、ECDの本を読み、まんまと乗っ取られた。当時書いていた文章はほとんどECD文体だった。以来、なにか本を手に取るタイミングが果たして今なのかどうか、躊躇する。小説は特に。この文章を依頼してくれた友人の阿久津くんに以前『ストーナー』を勧められたとき、なんとなく乗っ取られの予感がして、かなり時間が経ってから、よし今だと決めて読んだ。
 いまもぼくの頭の中のどこかには、ルソーが、ECDが、ウィリアム・ストーナーが、タンナー兄弟姉妹が、パトリック・ケンジーとアンジー・ジェナーロが、フレデリック・モローが、長井代助が……と名前を並べながら頭をよぎったのは、役者はすごいな、ということだ。ホンを読んだあと、読んだように話したり、動いたりするなんて! たかだか自分は脳みその一部を差し出しているだけで、役者たちは自分の肉体まるごと乗っ取られることを仕事にしている。脚本を書いているとき、ある登場人物からまた別の登場人物へと脳みそを切り替えねばならず、頭がおかしくなりそうになるときがあるけれど、役者たちはどうやって他者を自分の体に受け入れているのだろう。改めて、すごい労働だ。
 と、どんどん読書と関係ない話になりそうなので、この辺りで。
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三宅唱
映画監督。北海道生まれ。主な監督作に『きみの鳥はうたえる』(18)、『THE COCKPIT』(15)など。最新作『ケイコ 目を澄ませて』(出演:岸井ゆきの、三浦友和など)が2022年全国劇場公開予定。