backgroundImage

稲田俊輔 食の本、そして現実逃避の正当化

 アメリカの小説家パール・S・バックの『大地』という小説があります。一九世紀の中国を舞台に、激動の時代を力強く生き抜いた人々の姿を親子三代に渡って描いた長編小説です。
 ……と紹介はしてみたものの、僕はこの本を子供の頃に確かに読んだことがあるにもかかわらず、その内容を実はほとんど覚えていません。ただし一箇所だけ鮮明に記憶しているのが節句の祝い菓子として「月餅」を作るシーン。甘い餡子に「豚の脂」を入れているのが子供の自分にとってはあまりにも衝撃的だったからです。本の中には他にもやたらと豚肉料理ばかりが登場しましたが、中国では甘いお菓子にまでそれを使うのか、という発見と驚きがありました。
 子供時代に読んだ本の中で食べ物に関する部分ばかりを憶えているものは他にも数多くあります。
例えばアーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズ。この本はヨットが趣味だった父親の意向で十冊以上あるハードカバーの全巻が買い与えられていました。当時の僕は常に活字と本に飢えており、他に読むものが無くなればこれを手に取らざるをえなかったのですが、子供の僕にはこれがとにかくつまらなかった。内容は基本的に「イギリスのブルジョワ家庭のご子息たちが長期休暇を家族で過ごすリゾート地で冒険ごっこをして、勝手に行方不明になって、最後は捜索隊に見つけてもらって大団円」というストーリーが延々と繰り返されるというもの。
 その身勝手な「冒険」の最中、主人公たちは定時になるときっちりティータイムを楽しみながら「どうしよう、お茶とミルクが無くなっちゃいそう」とか「パイは食べちゃったから後はビスケットしか無い」などと、まさに「いい気なもんだな」としか言いようのない心配を繰り返すのですが、僕はむしろそういった(今になって考えるといかにも大英帝国的な)食べ物について書かれたシーンだけをひたすら楽しみに、その退屈な冒険に半ば渋々付き合っていました。
 もう少し成長すると、世の中には食べ物のことについて「だけ」書かれた本もたくさんあることに気づきました。主に「食エッセイ」と呼ばれるものです。
当時、読書における僕の主たる興味は国内外のSFに向けられていましたが、何せSFは読み進めるのに頭を使います。特に翻訳物は、慣れない言い回しや回りくどい比喩や諧謔、そして憶えきれない人名も手伝ってやたら疲れます。その合間に頭を空っぽにして読むための本を古本屋の百円均一コーナーから適当に漁るのが当時の僕の常でした。
 しかし適当に漁ると言っても、雑多に並んだ百円コーナーの本の中から自分の興味に少しでも合致する本を掘り当てるのは至難の技ですし、そんな埋め草的に読むための本を探すのに過度の時間と情熱を傾けるのも馬鹿げています。そんな中、とりあえず食に関する本をピックアップするのはなかなか効率の良い方法であることに、ある時気付きました。食に関する本は、背表紙のタイトルだけでだいたいそれとわかります。さらに表紙にもだいたい食べ物の絵が描いてあるので、見立てが間違っていないこともすぐに確認可能。食の本ならだいたいどういうものであれ、何かしら興味の持てる部分がありますし、頭を空っぽにするにも恰好です。
 これは良い鉱脈を見つけた、と思いました。そのうちにその世界には信頼のおける書き手が何人もいることに気づきました。池波正太郎、檀一雄、東海林さだお……。埋め草だったはずの食エッセイは、いつの間にか僕の本棚のかなりの部分を占拠していくことになります。
 青春時代の読書というものは、いや、本だけではなく音楽でも映画でもなんでも、それは少なくとも僕にとっては概ね「現実逃避」の手段でした。
親も教師も友人も、周りの人間は全員馬鹿に見える、その中でも自分は飛び切りの馬鹿に思える。社会はくだらなくて、そして恐ろしい。その中で自分が何者になるかなんて想像もつかないし、数少ないなりたい何かまでの距離は絶望的なまでに遠い。そんなことよりとりあえず彼女が欲しいし不純異性交遊なるものもできることなら実施したいが、そのあてはまるで無し。子供扱いは腹立たしいが、さりとて大人にもなりたくない。とにかく自分にはあらゆるものが欠落している。世の中は絶望に満ちている。
 そんな誰もが通過する焦燥の中で、食エッセイは何よりも純粋に、効率よく、現実逃避の道案内をしてくれていたのです。とにかく何も考えず「うまそうだな」と腹を鳴らしていれば、時は穏便に過ぎて行きました。
 東海林さだおの『丸かじりシリーズ』はその中でも特に理想的なものでした。そこでは、とるに足らない、くだらない、どうでもいい食べ物話が、頭を全く使う必要のない読みやすさで延々と繰り返されていました。もっとも、後年になって僕はそれがちっとも「くだらない」ものでも「どうでもいい」ものでもなく、そしてその文章が極めて緻密に練られた稀有なものであることに気付くのですが、それはまた別の物語。
 すっかり東海林さだおのファンを自認するに至った僕はある時、特に食べ物テーマではない『ショージ君の青春記』という本を手にしました。そこに描かれていたのは『丸かじりシリーズ』の軽さとはあまりにも対照的な、青年時代の鬱屈とした日々。そして「何者でもない自分」への焦りや自己嫌悪でした。意外な内容に戸惑いつつ、完全に自分自身と重ね合わせて息が詰まるような思いで読んだのを覚えています。そして同時に、それがその時点では既に「何者か」に成っていた東海林氏によって書かれているという事実に、余計やるせない思いが掻き立てられました。
 僕自身のそんなセイシュン時代の焦燥は、なんとなく曖昧にそれをやり過ごしながら生きてるうちに、長年かけてぼんやりとひとつずつ解消されていくことになります。そしてその間も食の本は、何かしら常に自分に寄り添ってくれていました。
 頭を空っぽにしたくて読んでいたはずの食の本でしたが、実は知らず知らずのうちにそこから多くのものを得ていたのかもしれません。ある本からは世間の面白がり方とユーモアの表現を、ある本からは粋なマナーや飄々としたダンディズムを、ある本からは物質的な豊かさに拠らない生活の美学を。それらは、かつてあんなに対峙することが恐怖だった「社会」との向き合い方、そしてその中でいかに愉快に生きていけばいいのかを、少しずつ僕に教えてくれたような気がします。
 そんな人生の途中からは、飲食にたずさわることが僕の「仕事」になりました。それに伴い食の本は現実逃避だけではなく、何かしら「実用」の任も負うことになったのはちょっとした変化です。しかし、実は今の自分が現実と認識しているこのセカイこそが、自分がかつて全力で現実逃避したその先に、たまさか開けた異世界なのではないか……。
 時々そんな風に思ったりもしています。
dividable image
稲田俊輔
料理人・飲食店プロデューサー。 京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て(株)円相フードサービスの設立に参加、南インド料理専門店「エリックサウス」を始め広いジャンルにまたがる多くの飲食店の業態開発やメニュー開発を手がける。 イナダシュンスケ名義では食に関する独特な切り口の情報を発信し、SNS等で度々話題になっている。 近著に『おいしいものでできている』(リトルモア)、『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(柴田書店)