徒歩三分の小学校を卒業し、中学からは電車を乗り継いで一時間半ほどの学校に通い始めました。一時間半のうち実際に電車に揺られるのは片道約一時間、往復で一日二時間。中高一貫の学校だったので六年間の通学時間が私の読書時間になりました。読書はいつも楽しいものですが、この電車での六年間ほど濃密だった時間は他にありません。
濃密というからには、さぞたくさんの本を読んだのだろうと思われるかもしれませんが、そうではありません。六年で十冊くらいでしょうか。正確にいうと、友達から借りたマンガや、参考書、図書館で借りた本などを読むこともあったのですが、たしかに「読んだ」と思える本はそのくらいなのです。
タイトルの通り『空を飛ぶパラソル』や、窓から「つくーん」と突き出された『白い手』など、その十冊の本には、私を強く引きつけるイメージがありました。思い浮かべるとなんだか脳がとろけてくるような魅力的なシーンです。ウットリしながら本を読み終えると、既にあのシーンがもう一度読みたくなっている。ただ、あのウットリを味わうためには、そこだけ読むのではダメで、頭からもう一度読まなくてはならない。閉じたばかりの本をもう一度開き、あのシーンはまだまだ先だと、もう何度も読んで知っている話をジリジリと読み進め、そして、もうすぐあのシーンが来るぞ、来るぞ、と待ち構えてはウットリし 、 夢見心地で読み終えてはまた……というような終わりのない読書です。十冊の本で十分だったのはこのように繰り返し読んだからなのでした。思い返すとあのウットリは電車の揺れに触発されていたのかもしれません。電車に揺られ、ウットリし、いつの間にか降りる駅を寝過ごしていた、ということもよくありました。眠っていたから十冊で足りたのではないかという疑いもありますが、電車とセットになることで、読書がより特別なものになっていました。
しかし、濃密な時間は高校生活と共にあっけなく終わりを迎えました。大学生になると学校がさらに遠方になり、片道三時間以上かかるという狂気の通学生活が始まったのです。一日七時間読書できたら良かったのですが、課題が多く、七時間を通学に取られる分忙しく、車中では睡眠を補うことになりました(要するに、かけがえのない時間を失ったことにも気づかずに眠りこけていたのです)。
思春期にあのような体験をすることができて良かったなぁとシミジミ思うようになったのは、随分たってからのことでした。友達が「好きだと思うよ」と貸してくれた『空の怪物アグイー』に引き込まれ、読み終えたばかりの本をもう一度開いた時、ああこの感じと懐かしく思い出したのです。私はすっかり大人でニューヨークに住んでおり、クイーンズのアパートから、恋人の家に向かう地下鉄に揺られていました。「オ・セニヨール・コンプレエンデ?」は収録作「ブラジル風のポルトガル語」の中の「貴君は理解しますか?」という問いかけですが、この本の何度読んでもなんだかよくわからない魅力に取り憑かれるように、「ナウン・セニヨール・ナウン・コンプレエンド、いいえ、小生は理解しません!」と繰り返し読んでいるうちに、私はその恋人と結婚することになりました。
ニューヨークに住んでもう十年以上になります。一年だけのつもりだった滞在をズルズルと引き延ばしながらも、いつかは帰るのだろうと思っていましたが、結婚して夫と暮らし始めると、もう帰らないのかもしれないと思うようになりました。恋人に会いに行くという用事がなくなって、電車に揺られる機会も減りました。これは滞在ではなく移住です。しかし、定住生活が始まったというのに、まだどこか旅の気分を持ち合わせているのは、外国人としてここで暮らしているからでしょうか。そういえば、ニューヨークでの読書は、思春期のあの感じとよく似ています。先ほど、私の読書は電車とセットになっていたと言いましたが、セットになっていたのは、移動に伴う旅の気分だったのかもしれません。
この頃は夜寝る前にKindleで読書しています。紙の本での読書の方が良いのは否めませんが(Kindleはパラパラとあちこちをめくったり、頭に戻る動作がとても面倒です)、Kindleの良いところは、ベッドに入って電気を消してからも読めるところです。読書しているうちにいつの間にか寝ていても、朝電気が煌々と点いている、なんていうことがないのです。本を読んでいるうちに眠ってしまうのって、どうしてあんなに気持ち良いのでしょうね。こうして書いてみると、私の読書は旅の気分だけでなく、眠りとの闘いが肝であるようだ、ということもわかりました。