#8月25日(土)
とても忙しい日で、10時になったらほとんど誰もいなかった、その最後の方が帰られる直前くらいのタイミングでお一人来られて、おそらく初めての方で、僕は、俺はそれにしてもよく働く男だなあ! と感嘆しながら仕込みをしたり下ごしらえをしたりしていた、初めて来た小さな店で自分以外客ゼロ、という状況は、なんだかあんまり気持ちの楽しいものではきっとないよなあ、と思って、二度目三度目なら勝手もわかるというか様子もわかるというか、気にならない気がするから気にしないけれど、初めてでこの状況はなんだか申し訳なさを感じるな、と思って、こういうことを感じるのは久しぶりだということに気がついた、店を始めて最初の1年とか2年とかはよく思っていた気がする、サクラでも雇いたいと発想したことがしばしばあった、最近はそういうことを思わなくなった、この点についての考え方は変わっていないのだから、そういう状況が少なくなったということだろうか、そう思いながら、そういうときはドリンクを持っていくときにでも「いやあ、なんかあれですけど、12時までやっているんでのんびりのびのびしていってくださいね」みたいなことを言えたらというか、僕は僕でやることがなくなってから閉店までのんびり読書みたいな時間が楽しいし十分にゆっくりしていっていただきたいというのが本心だということを伝えられたらいいのだが、なんだか発語しそびれて、仕込みや片付けが済んだら『カンバセイション・ピース』を読み始めた。11時くらいで追加のオーダーがあり、あ、ゆっくり過ごしていただけてる感じかな、といくらか安心し、読み続けた。野球の場面を最高潮として、そこから内省的というか、静かというのも違うのだけど、もっと静かに蠢いている感じがずっとあるのだけど、トーンが変わったというか、陽射しの色が変わったようなそういう変わり方があるような気がした。伯母の名、——伯母。
毎日毎日テリトリーの印であるマーキングのオシッコをかけて回って、それをまたチェックして回るのが外の猫の日課で、強い猫ほどそれに費やされる時間が長くなることになるのだけれど、森や草原でもない本来のネコ族とほど遠い環境の中でその習性が消えずに残っているのは奇妙なことだと言えなくもない。しかし、何という言葉が適切かわからないが、人間でも動物でもただ食べて寝てという具体的な次元で生きているのではなくて、自分を支えている抽象的な次元を持っていて、それを守ったり、それに奉仕したりするために具体的な行為を毎日積み重ねているのだとしたら、伯母の毎日の拭き掃除もそういう抽象的な次元への奉仕ということになるのかもしれないと思った。
保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)p.376
このあと、語り手と妻と姪が話す場面になって、猫が走り回る、すごく走り回っていて、走り回るように文章も目まぐるしくなって、目が回った。
お会計のときにやっと、なんかあの閑散とした感じですいませんと笑って言った、ゆっくり本が読めてよかったとの由、よかった。それで、帰って、へとへと、プルースト。
ジルベルトはこのつくられた誤解をうたがおうともしなければ、せんさくしようともしなかったので、そのうちに、そんなつくりごとが私にとって現実性をもったものになり、手紙を書くたびに私はそのことにふれた。あやまってはいったこのような立場や、装った冷淡のなかには、それに固執させる魔力がある。ジルベルトから、「でもそんなことはありませんわ。よく話しあってみましょうよ」という返事をとるために、「二人の心が離れてからは」という文句をあまり書いた結果、ついに私は二人の心がほんとうに離れたと確信するようになってしまった。「いいえ、すこしも変わっていませんわ、この感情は以前にも増して強くなっています」といった言葉がいつか自分にいわれるのをききたくて、「人生はぼくたちにとって変わったかもしれません、しかし二人が抱いた感情を消すことはないでしょう」とたえずくりかえした結果、人生は実際に変わってしまった、二人はもう消えうせた感情の思出をもつだけになろう、と考えながら暮らすようになった、あたかもある種の神経質な人たちが病気を装ったために、ついにほんとうに病気になってしまうように。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈2 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.345,346
ジルベルトと仲違いして、語り手はその母オデットのサロンにはたびたび行っている、ジルベルトとの接点はそれだけかと思っていたら手紙のやり取りは続いていると知り、どういう状況なのかよくわからない、それはそれとして、こういう箇所にはいちいちグッと来る、言葉が実態に先行する感じがきっと好きというか、僕にとってきっとなにかなのだろう、そのあと、「人間はある人のために、自分の生活を設計する、そしてついにそこにその人をむかえいれることができるとき、その人はこない、ついでその人はわれわれにとって死んでしまい、その人のためにだけあてられていたもののなかに、いまは自分が囚われの身となって生きている。」という一文があって、グッと来て、なんだか何か終末に近づいている感触があるぞ、終末というか総括、と思っていたらオデットが「では」と言ったのち、「もうおしまいですのね?」と発した、それは左ページの左端で、めくると、左ページに大きな空白ができていた、章が終わるんだ! と思って、長い長い、改行すらほとんどないこの本において、この白々とした空白のあらわれはほとんど事件のようで、僕にショックを与えた、「もうジルベルトには会いにはいらっしゃらないのね?」とオデットは言った、悲しみがあふれる気になった、ページを開くと第二部とのことで、「土地の名、——土地」とあった、今まで読んでいたものは「スワン夫人をめぐって」というタイトルだった、ということを、「じゃあ今までのは?」と思ってページを戻ったら、知った。寝た。
##8月26日(日)
アラームが鳴ったあと、バスの車内、見知った人たち、「席変わって」、濡れた靴下、映画自慢、合宿所、そういった夢、寝過ごし、慌てて店に行き、開店直前、宇田智子の『市場のことば、本の声』を開いた、昨日もそうした、よかった、だんだん終わりに近づいてきた、エッセイ集のようなものは僕は途中で閉じてそのままになりがちで、でもこの本はゆっくりゆっくり読まれていっている、本当はこういうペースこそがいいのかもしれない、それなりの年月を掛けて書かれていったものを、とんとことんとこ読むこともない、それこそ、今読んでいる2ページずつのエッセイは、月一で書かれているものだろうから、めくるごとにひと月が経つわけだけど、それを、短いからといって一気に読んでいくのも、おかしな話かもしれない、先日『鉄西区』の話が出て、僕は見ていない、ワン・ビンはひとつかふたつしか見ていない、なんとかというドキュメンタリーが5時間くらい、それが5カットくらいでひたすら一人の女性のインタビューで、途中で「暗くなったから明かりをつけましょう」と言われたりする、今こことは異なる時間が確かにそこに流れているのを感じる、という話を聞いた、カットが変わらない以上、時間は画面の向こう側にもこちら側にもそのとき等しく流れる、その流れをリアルなものとして感じたときに感動する、そんな話を聞いた。関係あるかもしれない気がしたのか思い出した。
8連勝中のソフトバンクの試合経過を見ると西武との首位攻防戦で6対1でリードしていた、見ると、2ランと満塁ホームランで6点取ったらしかった、ソフトバンク怖い……と思っていた、しばらくしてまた見ると、6対6の同点になっていて、西武も怖い……と思った、また見ると8対8で延長になっていて、ほんとどっちも怖い……と思って、最終的には12対8でソフトバンクがサヨナラ勝ちをしていた、え、ということは、と見るとグラシアルの満塁ホームランということだった、2ラン、満塁弾、2ラン、満塁弾、それがソフトバンクの得点のすべてだった、9連勝、怖い……と思って、思いながら、今日も忙しいと思っていたら夜はゆっくりと流れていき、昨日届いた『ユリイカ』を読みながら過ごした、8時にはおひとりになり、9時過ぎには誰もいなくなった、結局バジェットには届かないダメ日曜日ということになった、でも疲れていた、誰もいなくなると、なんだか心細いような、頼りないような気持ちになった、そうだ、ドリップバッグが在庫僅少だ、作ろう、となり作り、そうだ、いつもよりしっかりめに五徳を洗おう、となり洗い、そうだ、換気扇そろそろ掃除しよう、となり、掃除を、始めた、換気扇の掃除はわりとヘビーなタスクで、ほんとにやんの? と何度か思ったが、始めた、取り外してみると思ったよりも汚れは軽く、シンクの中でマジックリンみたいなやつを大量に噴霧し、きれいにした、へとへとに疲れた、本当によく働く男だなあ今日も今日とて、と思って、夕飯を食べながら『ユリイカ』を読んでいた、最初に開いたところが「串橋がチェーホフの戯曲の一節を暗唱するとき、ひとり驚いていない朝子の目」(三浦哲哉)で、チェーホフの場面は僕も一番うおおおおとなったところだったから、おあつらえ向きで、読んだ。
だが朝子は「KUSHIHASHI 1」と「KUSHIHASHI 2」がそれぞれ別個に存在することを受けいれる。そういうことはありうる。なぜなら、現に眼の前で起きているのだから。それゆえ、朝子は串橋のこの間の言動にひるむことがなかった。(…)
あらゆるものを等価に受けいれてしまう朝子の目の力が、本作のもっとも特異な焦点としてあらためて浮上することこそが、この場面の決定的な機能である。
『 ユリイカ2018年9月号 特集=濱口竜介』(青土社)p.61
うわあそうだったのかあ! と思って、興奮というかなんだか戦慄しながら読んで、その次の「マヤは誰を演じているのか?」(須藤健太郎)も戦慄しながら読んで、それから「三宅唱監督への10の公開質問――『きみの鳥はうたえる』『寝ても覚めても』同日公開記念」(濱口竜介)を読んで、そのあと柴崎友香へのインタビューと東出昌大へのインタビューを読んだ、面白い! と思いながら読んで、ここに自分の文章が載っているのか、と思うと恐れ多い気持ちになった、確認もしなかった。
それで帰って、プルースト。新しい部になって、前の部から2年が経ったらしかった、それにしてもこの語り手はいま何歳なのだろう、列車に乗って、バルベックに向かった。
##8月27日(月)
今週はひきちゃんが帰省でいないので月曜に夜休んで木曜に一日休むという休み方にしようということにして月曜なので夜までだった、忙しい日になって、半日で平日の一日分のバジェット達成に近いことになって、わあ、と思った、よかった、たまに、自分が店みたいなものに向いていないと思うことがあって、今日はそのたまにの日になったらしく、思った、くよくよしていた、電子レンジを掃除しようと思って、調べたらお酢と水をぐらぐらレンジ内で温めて、放置して、それでキッチンペーパーで拭くと簡単、とあり、やってみたら簡単で、とてもきれいになった感じがあって、気持ちよかった。空いた時間は『カンバセイション・ピース』を読んでいた。
夜になり、閉店になり、今日は夜は遊ちゃんと花火をしようと言っていた、7時過ぎにと言っていたら6時55分くらいに来て、まだお客さんはおられるときで、営業中の店は待ち合わせ場所ではない、7時を過ぎて帰られたあと僕は俺はそれはねよくない、と言って静かに説いた、遊ちゃんは謝った、遊ちゃんは、そんなことはわかっていた、理解していた、のだが、遅れちゃうと思ったらその理解がぽっと抜けて、慌てて急いで来た、と言っていて、遅れちゃうと思って慌てて急いで来た遊ちゃんのことを考えるとそれが僕はとても愛らしかった、笑った、遊ちゃんは反省モードで「おろか」という言葉を連発していて、花火は今日はやめることにした、それで、雷が鳴り始めて、これはまた降るのかな、降らないうちに帰ろう、と帰ったところ、家に着いたところで雨が降り始めて、間一髪というタイミングで雨にほぼ濡れずに帰れたため、すごいタイミングだったね、と言った、雷がすごい勢いで光り、鳴り、雨が滝のように降っていた、それをソファに座って見ていた、めったにないレベルの雷雨で、高まる気持ちがあった、小ぶりになったら出ようと言っていた、雷鳴が間遠になっていき、雨音も弱くなっていった、出て、もうほとんど降っていなかった、傘は僕は差さなかった、飲みに行った、とことこと幡ヶ谷のほうに行き、ミヤザキ商店に行きたいなと行ったら満席で、近くのホルモン屋さんに入って、飲み食いをしながら、遊ちゃんの反省モードも収まった、よかった、あれこれ楽しく話して、楽しかった、酔っ払った、帰って、『カンバセイション・ピース』を読んだ。最後の場面だった。
読み終え、やっぱり本当にすごい小説だったと思って喜んでから、プルーストを読み、寝た。
##8月28日(火)
仕込みがほとんどなく、これは怖いことだった、週の後半に一気に押し寄せそうで、それは怖かった、少し早かったが、カレーの仕込みをすることにした、店を開けて、それから、経理をやった、ずっと溜まっていて、毎日のタスクとして減らしていったレシートが残りわずかで、なんとなく気持ち悪くなり、一気に全部終わらせた、伝票の入力も昨日までの分を一気にやり、経理がやっと現在に追いついた、よかったが、よかったのか。7月、やたら税金を払っていたことが知れた、健保は月初と月末に2回引き落とされていた、そんなことってあるのだろうかと不平を言いたかった、それから、いつになくゆっくりで、『ユリイカ』を読んだ、蓮實重彦と濱口竜介の対談を読んで、面白かった、tofubeatsのインタビューに進もうかとも思ったが、『寝ても覚めても』を読むことにして、読み始めた、最初のページ、展望台から町を眺める場面、その描写がたまらなくよくて、「この場所の全体が雲の影に入っていた。」で始まって、映画の、走る二人のロングショットを思い出して、鳥肌が立った。それで読んでいったらすぐに麦が登場して、そうしたら、東出昌大にしか思えない! となって、その、この感覚がやたら邪魔くさく思えて、もう少し読んでいった、大丸で宝石をつけるところまで読んだが、春代はやっぱり伊藤沙莉で、困って、いったんやめることにした、どうしたらいいのだろうか。
夕方から、悲しみみたいなもの、虚しさみたいなもの、そういったものが押し寄せてきて、それから極端な体の疲れを感じた、困った。
夜、『ユリイカ』を読みながら働き、夜、高山羽根子の『オブジェクタム』の表題作を読み始めた、読んでいったら、35ページで「ぼく」という言葉が出てきて、一人称の小説だけど、これまで一度も「ぼく」という言葉は出てきていなかったのではないか、と思って、確かじゃないけれど、そんなふうに思って、なんだかびっくりした。
帰って、「幻のほうかな〜それとも失われたほうかな〜」と迷った結果、失われたほうであるプルーストを読んだ、それで、寝た。全身を覆う疲れを直に感じながら、寝た。
##8月29日(水)
朝から、疲れとともに、ぽやぽやしていて、これは気をつけないと怪我とかをする、包丁とかを使うときとかは気をつけないと、と思って、でも、そういうことは気をつけられなかったときに起こることだから、防ぐことはできない、そのため、どうしたものか、と頭を抱えたが、いっしょうけんめいに働いて、たくさんの仕込みをおこなった、そうやって、生きていた。途中で、今日は店でもプルースト、と思って持ってきたプルーストを開いている時間がいくらかあったが、あれはどんな隙間だったのだろうか、今となってはもうわからない。現在への関心だけが、だけによって、駆動され続ける読書、僕がしたいのはそれだった。注意を未来に向けないで、今ここで起こっていることだけに気を取られて、する読書、それがしたい読書だった。語り手は、バルベックのホテルに入って、訳知り顔の人たちを見て居心地の悪さをより強め、祖母が値段交渉をする横で無機物と化して、エレベーターに乗って、操縦士におべっかというか、「彼の技術にたいする好奇心の表明を通りこして、それにたいする偏愛の告白までし」て、完全に無視されて、それから部屋に入って、馴染みのない家具調度品に囲まれて、家具たちに敵対され、おそれおののき、天井に視線を逃していた。祖母が入ってくると、全部が一気に解消した。世界がぱっと輝いた。そのところを読んでから仕事に戻った。
働きながら、今日もいくらか薄暗い気持ちをかかえながら働きながら、『カンバセイション・ピース』で綾子が鼻歌を歌う場面を思い出して、場面というか、綾子が鼻歌を歌うようになったこと、それを思って、それは感動をもたらしたため、感動していた。2年前に読んだときは歌い出したことに対してそんなに強い印象を受けてはいなかったような気がした、遊ちゃんかもしれなかった、遊ちゃんは多くの時間、歌を歌っていた。
夜、暇な日だった、昨日の夜も暇だった、同じように暇だった、プルーストを読んだり、メールを打ったり、していた。今週はなにか、今週というかここのところはなにか、溶けてしまったようだった、意識がはっきりしない、混濁した感じになっている、混濁というか、意識がたくさんの矢印を出しているというか、ひとつを向いていない、ひとつに向かわない、そういう感じがあるのかもしれなかった、書き手が小説を掌握した小説ではなくて、小説が書き手を掌握した小説、書き手を掌握しようとする小説を受け入れたりあらがったりする、そういう小説、そういうものを読みたい、そういうものを読みたい。
そういうものを読んでいた。なるほど、場所や人間へのそうした新しい愛着は、古い愛着への忘却の上に織りだされるものである、とある、そのあとに、
いまわれわれが愛している人たち、さしあたってもっとも親しいよろこびをあたえてくれる人たちとの、会う瀬も語る機会もうばわれてしまうような未来を思うおそれ、そんなおそれは、消えさるどころではなく、もしも、会ったり話したりする機会をうばわれる苦痛のうえに、さしあたってもっとひどい苦痛と思われるもの、すなわち会談がうばわれることを、苦痛とは感じなくなり、それに無関心になるのではないかと思う、そんな想像が加わるならば、おそれはますますつのる、というのも、無関心になってしまえば、もうわれわれの自我は変わってしまって、両親や愛人や友人たちの魅力も、われわれのまわりになくなっているばかりか、彼らへのわれわれの愛情も、もはやないだろうからで、その愛情は、いまこそわれわれの心の主要な部分を占めているが、やがて根こそぎ心からひきぬかれるだろう、そうなったら、いまこんなに離れることのおそろしさを考えていても、先では、その人たちからわかれさった生活をかえってうれしく思うこともあるだろう、それこそ、われわれ自身の真の死であろう、
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈2 第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.409
とあって、なんの話からこんな話になったんだっけ、と思って、戻ると、見知らぬホテルの部屋に眠るときに感じた恐怖をきっかけとしていて、すごいぞ、と思った。思ったし、ここに描かれた恐怖のことは、よく知っていた。そうしていたら、ずいぶん暇な夜だった、第2巻が終わった、Dropboxに引用で書き写すために撮った写真をアップしようとしたところ、そろそろ容量がいっぱいですと表示されて、どうしようか、と思って、写真を消していけばいいのだけれども、快適に写真を消す方法はないのだろうか、選ぶことが、面倒だった。それでも「アイコン」で操作するのがいちばん楽だろうかと思っていたら「Cover Flow」のほうがずっと楽だったため、それで、大量に消して、帰った。
帰って、明日は健康診断を受けるため酒は飲まないで、『幻のアフリカ』を読んで寝た、人々は呪物を掠奪していた。
##8月30日(木)
起きると起きて、まず店に行って今日やっておくいくつか簡単なことがあったのでそれをやろうとしたら、途中で尿意が限界になり、おしっこおしっこ、と思って病院に向かった、去年とまったく同じだった、おしっこおしっこ、と言って慌てるとき、いつも『デス・プルーフ』の冒頭の階段を駆け上がる場面を思い出す、おしっこおしっこ。病院に入ると尿意は落ち着き、待ちながら『幻のアフリカ』を読んでいたら呼ばれて診察室に入った、院長先生だろうかおじいちゃん先生で、荷物置きに置いた本に目を留めて「その本はなんですか」という驚きと楽しさの混じった質問が最初で、フランスの人の書いた、『幻のアフリカ』という、日記本であることを伝えた、そうですかそうですか、というところで血圧が取られ、取りながらも、それにしても分厚いね。血圧が終わると、ところでそれはおいくらなんですか、と聞いてきて、3000円くらいですと伝えた、そうですかそうですか、というところで心音を聞かせ、普通の文庫本だったら3冊分くらいはありそうだね、1冊800円だとして、そうかそうか。そうですね、妥当ですよね。それにしても持ち歩くのも大変そうだね。そうなんですよね。愉快な気持ちで礼を言って部屋を出た、待ちながら読み、それからレントゲンを取って尿検査をして、また待っていると、看護師の方に呼ばれて、身長体重の計測だった、本を荷物置きに置くと、「その本はなんですか」という驚きと楽しさの混じった質問が最初で、さっき先生にも言われました、と笑った。計測が済むとまた部屋に入って、そこで腹囲、心電図、採血。カラカラとした気持ちのいい看護師さんだった。
済んで、店に戻り、続きをいくつかやり、済み、パドラーズコーヒーに向かった、遊ちゃんと待ち合わせをしていた、入ると、ゆっくりしていて静かで、アメリカーノをお願いし、先日取り置いていただいていたTシャツを受け取って、外に出た、外に出るとお店の人と一人だけテーブルの席にいたお客さんの笑い声が聞こえて、話していたのを中断させちゃったかな、と思っていたところ、遊ちゃんが中から出てきて、遊ちゃんだった、笑った、気づかなかったし、怖くて他のお客さんなんて見ないからね、と言った、座って、庭というかテラスの植物が大幅に入れ替えられていた、それらを見ながら、いま見えている色のことを話した、木の板も、ここにも黄色とか、青とか、紫とか、いろいろな色がきっとあるんだろうね、スポイトで色を抽出したらすごくたくさんの色が採れそうだった、パドラーズのテラスにいると普段目の前にそんなにたくさんの種類を一気に見ることのない緑が繁茂していて、色彩に関する何かが刺激されるのだろうか、前にも色の話をした記憶があった、それから、「白人」であるとか「黒人」であるとか「黄色人」であるとか、そういう言い方の難しさの話に移った、「黒人の」とか「白人の」とかが、描写においてあるとき、それは説明に必要なものと判断されて書きつけられる、それは選別的で暴力的なものだ、例えばアフリカが舞台でアフリカのマーケットに向けられた小説ではきっと「黒人」という言葉はさほど頻繁には書かれないだろうし書かれるときはなにか意図が込められたものになるだろう、日本の小説で「黄色人」ということが書かれないように、一人称ならまだしょうがないかもしれない、語り手を起点にするとそういうことはしょうがなく起こるかもしれない、でも三人称でそういう書かれ方がしたらその三人称がすでに主観的なものというか偏ったものになっていることを自分から宣言するようなものだし、いろいろ難しそう。日本人とかすら簡単には言えないし、性別も難しそう。『オープン・シティ』の訳出のしかたを思い出した。どんどん、世界を描き分けることは難しくなっていく。その困難は、世界の豊かさみたいなもののあらわれでもあるかもしれなかった。それにしても、そういった呼称問題というかそれは、そんなことは、きっと議論され尽くしているくらいに議論されまくっていることだろうけれど、現在の落とし所はどういうものになっているのだろうか。
家に帰った、うどんを茹でて、遊ちゃんはスカイプでミーティングをしていた、笑わせようと、微妙な動きを僕はしていた、それからうどんをずるずると食べて、ミーティングが終わり、遊ちゃんが出て、僕もすぐあとに出た。
丸善ジュンク堂に行くと、新刊の小説のところを見て、それから海外文学の棚に行く、ラテンアメリカ文学棚を見て、その裏側の海外文学あれこれの棚を見る、といういつもの順序で見て、なにか野球の、と思っていたためロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』を取った、それから、どうしよう、なにか、なんだか大変そうなものを、と思って、それで、保坂和志の『試行錯誤に漂う』であるとかで何度も言及されていてずっと読んでみたかった中井久夫の、なにかを読んでみようと思って、アプリで在庫を調べたりして、最初はちくま学芸文庫のコレクションのどれかにしようかと思ったら、『徴候・記憶・外傷』があって、徴候、記憶、外傷、と思って、そうすることにした、みすず。大きい本だった。それからメモパッドをいくつか取ってかごに入れて、レジに持っていった。
なんだか中井久夫が楽しみになり、リュックには他に『失われた時を求めて』の3巻も入っていて、何を読もうかなと思っていたが、中井久夫を開きそうだ、なんせ楽しみだ、となり、それからMODI的な名前のところに入った、スプーンを買いたかった、それで前に買った覚えがあったので、そこに入り、エスカレーターを上がっていった、エスカレーターのわきというか、なんとなく座ったりできるスペースになっているところがあり、若い人たちが座ってダラダラとしていた、5階だったか6階に上がると、あれ、おかしいな、と思い、雑貨屋的なものがあったはずのところが、iPhone修理工場になっている、となって、大丈夫かなこのMODIだかMIDIだかどうしても覚えられないここは、と思って、エスカレーターで下って、出た、映画を見るまでのあいだ、あのあたりってどこかいいところあるかね、と今日、遊ちゃんに言ったところ、トランクホテルのラウンジみたいなところが広々していてよかった、と言っていて、行ってみた、広々していて、ソファがたくさんで、これはたしかによさそうだと思って、ロングブラックの冷たいやつを、ロングブラックってなんですかと聞いてから頼んで、いただいて、壁に面したより孤立できそうなソファを見つけてそこに座って、中井久夫を開いた、大きな音で音楽が鳴っていて、人々の発するいくつもの言葉は、意味になる前に溶けて、ここまでは届かなかった。
さてかりに「微分世界」「積分世界」といったが、実は、もし「比例世界——ウェーバー=フェヒナー世界」を「世界」というならば、これらは「メタ世界」とでもいうべきものである。世界を索引にするとひらけるのは「積分的メタ世界」である。プルーストの世界は「積分的メタ世界」の開示である。『失われた時を求めて』を「比例世界」的に読むことも可能であろうが、あの本はひとつの「メタ世界」の索引そのものであり、書かれた文章は索引にすぎない。むろん、いっぱいに「比例世界」「微分的メタ世界」を内部にはらむ世界であるが——そうでなければ、存在しうるとしても悪夢である——、内部のそれらはせいぜい「サブ世界」であり、いっぱんに「世界」の名にあたいするまとまりと完結性を持っていない。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)p.13
そうあって、微分回路とか積分回路とかが最初からここまで何度も出てくるのだけど、困ったな! 俺、微分積分ってなんのことだか理解していない! と思って、微分積分くらい理解している自分でいたかったな、と思った。
##8月31日(金)
喫緊の仕込みはあまりなく、ゆっくりと開店準備をし、始めてから、いろいろと仕込み始めた、これを今日やっちゃえば、明日がきっと楽になる、と思って、いろいろとやることになっていった、毎日、そう思っている気がする、今日やっちゃえば明日が、と。
夕方に落ち着き、お客さんはずっとまばらで、座った。
昨日はトランクホテルのあと、寒くなって、あたたかいコーヒーを飲もうとザ・ローカルに行って、コーヒーを飲みながら『ユニヴァーサル野球協会』を読み始めて、野球ゲーム狂いのおじさんの話らしくて、野球はいいなあ、と思った、思ってから時間になったのでイメージフォーラムに移り、ジャック・タチの『パラード』を見た、最近、遊ちゃんが『パラード』を皮切りに、『トラフィック』、『ぼくの伯父さん』と続けてタチを見に行っていて、僕も久しぶりに見たくなった、『パラード』は見たことがなかった、タチってこんなにショーマンという感じの人だったのかあと感じ入り、テニスの場面や、リズムに年齢は関係ないみたいなことを歌いながら踊る場面で、タチ、と思って感動した、僕はやっぱりタチの姿やタチの運動を見ることが喜びで、タチらしい動きがあると、感動した。
終わって、円山町のほうに移動して、とても久しぶりにシネマヴェーラまで上がった、フィリップ・ガレルの『つかのまの愛人』だった、ロビーは人が多かった、それで、映画を見た、モノクロの映像がとにかく美しかった、髪の毛が顔の上に作る影、目のふちに溜まる涙、そばかす、顔の皺、普段だとそんなに目がたぶん行っていないところにモノクロの映像は意識を注がせるところがあるらしいと思って、それはとても、いい体験だった。
どうしてだか、見る前、たとえ大して面白くない、感動しないとしても、それでも映画を見ることに限らず小説を読むことでも展示を見に行くことでも変わらず、たとえ大して面白くない、感動しないとしても、それでもそれらをすることはいいことというか、その場で感動しなくてもいいんだよな、と、どうしてだか、思った。上映前の座席で中井久夫を読んでいて記憶の索引のことを読んでいたからだろうか、その場で面白くなくても、自分とはちっとも関係しないと思っても、見て、触れるだけで、残るものがあって、残ったものが、きっとなにか大事なものというか、それは事後的にしか知れないものだから、あとでいいんだよな、その場なんて大した問題じゃないんだよな、と、思った。
映画を見ながら、夕飯のことを考えていた、ワインを注いでいるところを見たら、ワインが飲みたくなった、クラブのようなところで音楽が鳴って人々が踊る場面の美しさといったらなかった。『恋人たちの失われた革命』のKinksの「This Time Tomorrow」の場面をどうしたって思い出した、あの、あの、あの、あの素晴らしい場面。『つかのまの愛人』の踊る人たちも本当に美しかった、総じて、音楽もとてもよかった、ピアノの和音が鳴ると、それだけでゾクゾクするようだった。俳優たちの顔が誰の顔もすごかった、マテオの、優しそうな、あの顔!
満足して、スーパーに寄った、カレーを作ろうというところだった、キーマカレー。具はどうしようかなと思って、家になにかあるかな、それで適当にでいいかな、と思っていたら見切り品のところに半額になったモロヘイヤがあって、モロヘイヤカレー、そいつはいいね、と思って、モロヘイヤカレーにすることにした、ビールと、白ワインも買った。
帰って、帰ると遊ちゃんは職場の人とケラケラ電話で話しているところで、僕が米を研ぎ出すと驚いた、これからご飯作るの、と言った、10時半だった、カレーを作るよ、と言った、遊ちゃんは明日は博多だと言った、新幹線で行くとの由。飛行機で行くのと1時間しか変わらないそうで、なるほどそれだったら新幹線もありなのかもしれないと思った、遊ちゃんは飛行機が苦手だった。それで、ビールを飲み、カレーを作り始め、ワインを飲み、カレーが完成し、12時前くらいだった、食べた、おいしかった、満足して、ワインをさぷさぷと飲んでいったところ酔っ払って、中井久夫の読んでいた「世界における索引と徴候」は読み終わったので続きは今酔っ払いながら読むものではないと思ったので『ユニヴァーサル野球協会』を読んで、野球ゲームで起こっていることを文字で読むことと、野球で起こっていることを文字で読むことは変わらなくて、だから、だからというか、野球があった。
それが昨日で、起きると、冷蔵庫にプルーンがあるよ、という書き置きがあり、開くとプルーンがあったので、食べて、出た、ゆっくり準備して、開店前、外に腰掛けて中井久夫の昨日のやつをまた頭から読み、5分だけ読み、それから仕事を始めた。
夕方ごろから、ぽろぽろと中井久夫を読んで過ごした、次の「「世界における索引と徴候」について」を読んだ。
「予感」と「徴候」とは、すぐれて差異性によって認知される。したがって些細な新奇さ、もっとも微かな変化が鋭敏な「徴候」であり、もっとも名状しがたい雰囲気的な変化が「予感」である。予感と徴候とに生きる時、ひとは、現在よりも少し前に生きているということである。
これに反して、「索引」は過去の集成への入口である。「余韻」は、過ぎ去ったものの総体が残す雰囲気的なものである。余韻と索引とに生きる時、ひとは、現在よりも少し遅れて生きている。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)p.34
むむむ〜なんかかっこいい面白いと思って面白くて、読んでいる、夜、暇だった、月末金曜日、みたいなことだろうか、関係ないだろうか、暇だった、その夜、ジョン・マグレガーの『奇跡も語る者がいなければ』を机に置いた方があった、それを見て、クレスト・ブックスが集まっている本棚を見上げて、ある、紫色のあの本は、棚に、ある、つまり、ご持参、というこの発見と確認の運動をしたのは今週2回めだった、数日前、昼、来られた方がジョン・マグレガーの『奇跡も語る者がいなければ』を机に置いていた、2004年とかに刊行された、たぶん大して目立ちもしないこの小説を、立て続けに目撃して、僕はこの小説が大好きだった、去年の梅雨の時期に確か読んだ、お客さんに教わって読むまではまったく存在を知らない本だった、その、この本はとても大好きな一冊になった、その本を、立て続けに今週、見かけるというのは、すごいな、と思って、今日、お帰りの際に、ちょっと聞いてみようと思って、ちょっと聞いてみた、つまり、ジョン・マグレガー、あれは、あの、なんで読んでたんですか? と僕は聞いていて、なんで読んでたってダメな質問だなあと思っておかしかった、すると、意想外の答えが帰ってきた、8月31日だからです。
あの小説は一日を描いた小説で(そうだったっけ! すっかり忘れていた!)、その一日が8月31日だった(そうだったのか! まったくそんな印象なかった! 梅雨かと思っていた! 梅雨に読んでいたので!)、ということで、今日はこれだな、と思って持ってこられたとの由。きっとそのもうひとりの方も、8月終わりだから読んでいたんじゃないですか、ということだった。なんだか、よかった。
一日の最後、次の「発達的記憶論――外傷性記憶の位置づけを考えつつ」を読み、あと少しだなと思ったら急ぎ足になってしまって、また読もうと思いながら読み、そうやっていたら総じて忙しかった8月が過剰に静かに終わったが、8月が終わったのか、と思った、というか、まだ8月だったのか、というほうが実感として近い、8月の始まりは滝口悠生さんとのトークイベントだった、あれからひと月しか経っていない、という方が、ずっとおかしい、グローブを買ってキャッチボールをしたのは15日だった、あれから半月というか2週間しか経っていない、という方が、ずっとおかしい。いつだって、わりとずっと、店というものを始めてから顕著になった気がする、つまりここ7年くらい、ずっとそういう感覚、1週間前は2週間前くらい、半月前はひと月前くらい、ひと月前は2ヶ月前くらい、というそういう感覚はあったから、その通りだったといえばそれまでだった。