読書日記(82)

2018.04.29
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#4月21日 なんとなく薄暗い心地で一日が始まり、朝ごはんを食べながら11時からのエンゼルスの試合を流していると速い球を振り抜いて一塁線の惜しくも横、という強烈なファウルを打った次のボール、遅い変化球が来て、それに上手に対応してライト前にふんわりと運んだ大谷の様子を見、すごい、と思ったがそれで気持ちが晴れるというのでもなく、昨日と同じ、恐怖、のような感情がなにか蠢いていた。
日中はそれなりに忙しかったが夜になってまたぱったり暇になった、先日東急ハンズで買ってきたクリップライトで、今日から夜、看板を灯すことにした。看板なしから始めた店も、看板ありになり、さらに看板ライトアップになった。変化する。セルアウトかなとも思うが、そんなことじゃもうびくともしないんだぜ、みたいな自負心もある。パブリッシュ。
数日前、わざわざの方のブログというかnoteがやたらバズっていて、読んですごく面白かったし明るかったのだけど、ついたコメントとかを見ているとわりに賛否両論で、気持ち悪い、みたいな反応もけっこう見かけたけれど、なんというか、
夜、暇だった、八百屋のおかあさんに勧められてふきのとうを買っていたことを思い出し、ふき味噌を作った、それからラタトゥイユに使ったナスが2本余っていたことを思い出し、揚げ浸しを作った、夕飯に食べる、というような目的というか、自炊、という感じの作り方だった、自炊するようにおかずを作れないか、ということはなにか、ひとつ最近思うところかもしれなかった。
保坂和志の『小説の自由』を、空いた時間は読んでいた。アウグスティヌスの文章を引きながら進められていく章だった、なんというかそれは、この章の、ということはこの本の、最後に引用されるカフカの断片の、父親がパンを切ろう切ろうとしてなかなか切れず、「おまえたち、なぜ驚くのだね。なにかが成功するほうが、成功しないより、ずっと不思議なことではないかね。さあ、もうおやすみ。たぶん、なんとかうまくやれると思うから」と子どもたちに言って翌朝、まだ切れない、子どもたちが僕もやりたいと言ってナイフを持つと、「父が握っていたため把手が灼けるように熱くなっていたナイフを、ほとんど持ち上げることさえできなかった」となるナイフのような、すごい熱さを持った論述というか文章だった。凄い、凄い、と思いながら読んでいた。それにしてもアウグスティヌスも凄い。
それで、わたしたちは次のようなことを語り合った。もし誰かのうちに、肉の騒ぎが静まったなら、地と水と空気の表象が静まったなら、天界も静まったなら、魂もそれ自身に沈黙し、もはやそれ自身のことを考えずに自分を乗り越えて行くなら、また夢と想像の示現がすべての口舌とすべての身振りと来たって過ぎ去るすべてのものがだれかのうちにまったく静まったなら——もしだれかこれらのもののいうことを聞く人があるなら、それらはみな「われわれがみずからわれわれを造ったのではなく、われわれを造ったのは、永遠にとどまられる方である」というであろうから——もしそれらのものがこういって耳をそれらのものの創造主の方に傾けたのち沈黙して、そして神自身がただひとり、それらのものによって語るのではなく、神自身で語られ、こうしてわたしたちは神自身のことばを人間の口舌によっても、天使の声によっても、雲の響きによっても、謎のようなたとえによっても聞くことなしに、わたしたちがこれらのものにおいて愛するかれのことばそのものをわたしたちがたったいま非常な緊張と急速な思惟によって万物の上にとどまる永遠の知恵に触れたように、直接に聞くことができるなら、そしてこのような状態が続いてこれとまったく類を異にした他の表象が消え失せ、ただこれのみがそれを観照するものの心を奪って、他のすべてを忘れさせ、内的な歓喜にひたらせるなら、こうしてわれわれがあえぎ求めていた認識の一刹那であったものがそのまま永久の生命となるなら、そのときこそ、「汝の主のよろこびのうちにはいれ」といわれることができるのではなかろうか。それはいつのことであろうか。「わたしたちはみなよみがえるが、かならずしもすべてのものが朽ちないものにかえられるものではない」といわれているときであろうか。(第九巻第十章) 保坂和志『小説の自由』(新潮社)p.310,311
アウグスティヌスの『告白』からの引用で、すごいテンションというか、引き込まれるというか、目が吸い寄せられるというか、目がくっつく、へばりつく。息が止まる。そのテンションに引っ張られたのか、ビールをいつもより多く飲んだ、いくらか酔っ払ったようだ。
寝る前、フラナリー・オコナー。少年たちが森に火をつける。陰惨。
##4月22日 ふき味噌がバカみたいにおいしい。久しぶりに食べたが、こんなに簡単につくれるものだったとは、そしてちゃんとバカみたいにおいしくできるものだったとは、と感じ入りながらどんぶり一杯のご飯と納豆とふき味噌で朝食を食べながら「Number Web」の記事をいくつか読んでいるとオリックスの伏見寅威という捕手の記事があり今年はよく周りが見えているという。打席に入りながら、「球場は盛り上がっているけど、このへんは意外と静かだな」と感じたりするのだという。このへんは意外と静かだな。いい。
朝、天気良好。パドラーズコーヒーに。外の席は早い時間から人がたくさんで、今日は犬もたくさんだった、おそろしいほどにかわいかった。アイスのアメリカーノを飲んだ。それから店に行き、飯を食い、準備をしながら気持ちが明るかった。朝のパドラーズは一日にいい影響をもたらしてくれる気がしている、気分がいい。
気分がいいその日は、恐ろしいほどに暇だった、ここまで静かな休日はさすがに久しぶりレベルだ、と思いながら、経理をしていた、今月のここまでの伝票を入力していった、するとしょぼしょぼの数字がはじき出された、魔法は解けた。
夜、突如、先日出たらしい若林恵の本を無性に読みたくなった、閉めたら蔦屋書店に行こうか、それか渋谷のツタヤの上のところにもきっとあるだろうからそっちで買って、HUBとかに入って読もうか、そんな気が強く起きた、しかし、なにも今晩でなくてもいいじゃないか、明日買いに行ったらいいじゃないかと思い、しばらく悩んだ、じゃあ今晩はどうするんだ? なにを読むんだ? フラナリー・オコナーか? それともシリアのやつか? なんだか、そういう気分じゃないんだよな、いま俺は、若林恵なんだよな、どういう本なのかもまったく知らないけど、と思いながら、しかしなにも今晩でなくてもいいじゃないか、いやどうしたらいいだろうか、悩んだ結果、なんとなく今日は堀江敏幸の前に買った、タイトルも覚えていないが文庫のやつ、帯にあった文章に惹かれてというか、なにかピッときて買ったあれを読み出そうか、そんな気が起き、そこで着地しそうだ。週末がんばって明日はゆっくりで、ねぎらいというか、おつかれおつかれ、さあ、ゆっくり本を読みたまえ、ビールとポテチか? いいじゃないか、どーんとやりたまえ、そんな気分なのだろう、そのときに、なにか、「読み出す」ということをしたいのだと思った。いや違うかもしれない、「読み出す」だったらシリアのやつでもいいはずで、エクス・リブリスの、シリアのやつでもいいはずで、酸っぱい、なんとか、でいいはずで、でもどうも、買っておいてなんだが、今そのチャンネルに合わないような気が勝手にしているんだよな、というところらしかった。
夜、暇で、やることもなく、なにを読もう、となった、それで『なnD 6』を開いた。柴崎友香のインタビュー、平民金子のインタビュー、その他あれこれを読んだ。柴崎友香の連作短編を読みたくなった、早く出ないかな。平民金子は僕はずっと金子平民だと思っていた、ずっとというか、なつかしかった、なつかしい! と思って読んだ、面白かった。「病的な自己肯定感の高さ」。はてな・ダイアリー。
そこから「平民新聞」を見に行った、d.hatenaのままで、それだけでなにか感動した。最近の記事、昔の記事、あれこれと読んだ、かつて、けっこうな頻度で見ていた気がする、とても久しぶりに読む平民金子の文章はやはりかっこよかった、豆腐ぶっかけ丼のバリエーションの記事で青椒肉絲が出てきて、青椒肉絲が食べたくなった。
##4月23日 夜、堀江敏幸の『燃焼のための習作』を読み始めた、いつかに買ったペールエールを飲みながら、読んだ、そのペールエールはあまり口に合わず残した。腹がいっぱいだったのも災いしたのかもしれない。
それにしたって昨日も夕飯が楽しかった、ふき味噌はあまりにご飯が進むし、ナスの揚げ浸しというか焼き浸しも、すごくよい味だった、簡単に、と思って、机の上に身に覚えのないポン酢の小瓶があったので、ポン酢と、刻んだ生姜と長ネギという、簡単な揚げ浸しというか焼き浸しで、しんなりしたそばからそのタレに浸けていくというそれだけのものだったのだけど、ポン酢とはいい働きをするもんなのだなあ、という味で、ご飯がやはり進み、3杯食べた、満腹だった、それでペールエールだった、おいしくなかった、腹が「いらない」と言った、残した、それが昨夜だった。
今朝は朝のことは知らない、起きたら昼だったからだ、起き、コーヒーを淹れて『燃焼のための習作』を読み、しばらく読んだら家を出てスーパーに向かい、買い物かごにピーマン、たけのこの水煮、薄切りの豚ロース肉、オイスターソース、長ネギ、卵、という、それが全てだっただろうか、とにかくレジの人からすれば「ははあ、こいつは青椒肉絲を作る気だな」というのが丸わかりの買い物をして、帰った。いい陽気だった。
青椒肉絲、調べたら、いろいろレシピは出てきたが、肉の下味のところで、「陳建太郎」氏、「陳建民」氏のレシピでは卵を使っていて、他のやつでは卵はなくて醤油と酒と片栗粉と、みたいな感じだったのだけど、まあ、陳さんだろう、みたいなところがあり、卵も使うことにして卵も使った次第だった、もう少し調べると「陳建民」氏のレシピは青椒肉絲ではなく青椒牛肉絲だったらしかった、チンジャオニウロースー。
それで野菜を切り肉を切り下味をつけ、それからスープもと思い、玉ねぎとミニトマトと卵の中華スープみたいなものを作ることにして準備をし、それから何か、と思い冷蔵庫にナスが1本あったので切って塩もみをして、これはごま油となんか適当にと思って麺つゆとゴマで和える感じにして、麺つゆを使ったのは多分昨日平民新聞を見ていた影響だった、それで準備が終わり、ご飯が炊けたので青椒肉絲を一気呵成に作った、おいしかった、改良の余地を感じた、卵をまとった肉はなにか、ポークピタカみたいな、ピカタだった、ポークピカタみたいな、あれはなんなんだろうね、なんか「ああ、ポークピカタね」みたいな共通了解ある気がするけど、不思議なメジャー感があるけど、僕にとってのシアターブルックみたいな感じがあるけど、いったいピカタとはなんなんだろうね、という感じの、あの感じに近い感じになる感じがして、違うとまでは言わないが、卵を使うのだったら、なにかこう、中華鍋、ものすごい強火、みたいなそういう条件が必要だったりするのではないか、と思ったりしながら食べた、おいしかった、満腹になった、眠くなった。
しばらく『燃焼のための習作』を読んで、眠気がしっかりやってきたのでタオルケットをかぶって昼寝をした、起きて店に行った、仕事をしっかりとした。
##4月24日 寝るのが日に日に遅くなっているような気がする、よくない気がする、昼過ぎに起きた。
コーヒーを淹れて『燃焼のための習作』を続けた、途中でうどんを食った、雨が降り始めた、歩いた、買い物をして店に寄り、向こう側に行った、オペラシティアートギャラリーで「五木田智央 PEEKABOO」を見た、写真の展示なのか絵の展示なのかもなにも知らずに行ったのだけど絵だった、アクリルグワッシュというもので描かれているものがほとんどだった、大きなキャンバスに、モノクロの、だいたい人が描かれていた、顔の部分がベタッと真っ黒や白に塗りつぶされていたり、手足の先が極端に省略されていたりして、潰れた顔の部分を見つめていると吸い寄せられてしまいそうだったし、ぶつ切りにされたような手の先を見ているとへんてこな気持ちになった、なにか、『夜のみだらな鳥』みたいだなというか、『夜のみだらな鳥』を絵にしたらこんなふうなのかなというか、とにかくなにか、不安定な気持ちになる絵だった、あまり長く見続けていたらいけないんじゃないかというような、危うい引力があって怖かった、とても面白かった、帰り、図録を買った。
時間がまだ少しあったのでドトールに入った、堀江敏幸を引き続き読もうというところだった。電話をしている女があるなと、しかもフェイスタイム的な、映像付きというのか知らないけれど、そういう状態で電話をしている女があるなと、横を通ったときに気づいていた。電話の先には複数の人間がいるようだった、名前を呼び、ありがとう、ありがとうね、と何度も感謝の言葉を述べていた、それから潔いまでのカタコトというかカタカナの英語でもなにか話していた、そのカタカナっぽさは僕はむしろかっこいいと思った、それからも感謝の言葉が続いた、それから早口というかこれまでとは違ったトーンでなにかを読み上げるようにして話し、フォローお願いします、ということも言っていた、一位になりたい、というような話しだった、ありがとう、涙ぐんでいるように聞こえる、ありがとうみんな、みんなのおかげでがんばれる、どうやらなにかを配信しているらしかった、そういった文化を僕はまったく知らないからわからないのだが、ドトールでやるの!? というところが愉快だったが、どうか。
店。交代する前に、暗くなったので看板に照明を取り付けようとしたところ、男女3人組が上がろうとしていて、あ、しゃべれない店だけど大丈夫ですか、あ、日本語、あそうか、えっとね、サイレントプレイス、フォーリーディング、ソー、ユウキャンノットトークイーチアザー、と伝えた、口にチャックをしてオッケーとのことなので、ほんとに? と言ったところ、本当だ、とのことだった、日本語を聞き話すことはできないようだが読むことと書くことはいくらかできるようで、すごい、と思った、「チキンカレーください」というメモを渡された、帰り、どこからですか? と聞くと香港とのことだった、片付けていると置き手紙というのかメモに文章が残されていた、「2018.4.24 日本滞在最後の日は雨になった」というたぶん書き出しで、それは「在日本的x的最後雨天」と書かれていて、そこからいろいろ書かれていた。最後は「別再xx了. 時間不多。努力。」だった。途中にあった「我未来xxx走」というところがキレイだった。誰か中国語を解する人がいなかったか、意味を知りたい。
日中は暇だったらしかったが、夜は、やたら忙しい感じになった、調子のいい金曜の夜みたいな夜だった、愉快に一所懸命働いた。今日も食べすぎた。
帰宅後、『燃焼のための習作』読み終えた。寝る前、フラナリー・オコナー。
##4月25日 早めに起きた、まだ雨は降っていた、店に行った、仕込みをどんどんする朝だった、DAZNで大谷の登板試合を流しながら、一所懸命仕込みをした、今日もなかなか制球が定まらないようだったが、ときおり、101マイルのすごい球が外角低めいっぱい、みたいなところに決まったりしていた。結果はそうよくなかったが、見ていると、何球かあった、あれがストライクの判定だったら、というようなところで分岐するというか、いい結果と悪い結果というのは本当に紙一重なんだな、と思った、おそろしいことだった、おもしろいことでもあった。
たくさん仕込みをしていたら、一品、間違えた。間違えたというかおいしくできなかった。ごぼうのエグみが強くて、これは出せないな、という味になった、それで一気になにか悄然とした。たくさんのタスクをこなしたけれど、なにも成し遂げられていない、そんな気持ちになった。水面に映るのは二重で赤目まなこな、なにも手に入れていない俺たちの顔だった、この泥沼を見つけ出したあの夜から、どれくらい時が過ぎ去っただろうか、泥沼よ、俺はいつまでもここだ。いや、そんな泰然としたものではない、とにかくしょんぼりとした、そして半端な気持ちだ。
19時、店仕舞いし、明日必要な野菜を八百屋さんに買いに行く、八百屋さんではおじちゃんおばちゃんたちが非常によいモードで立っていて、気持ちがいい。
店に置き、閉め、駅へ。電車を待っていると横の男の傘が前に倒れた、小さい子どもが通った直後で、あと少しで子どもの頭部を打つところだった、傘の柄なんて大したことではないけれども、なにかヒヤッとした。男は傘を、持ち上げることなく、足で踏み、引き寄せ、滑らせ、すると後ろの壁にゴツンとぶつかって止まった。鋭い音が響いた。どういう気分なのか知らないが、なんでこんな殺伐とした音を立てるんだろう、と思った。電車に乗るとすぐに新宿三丁目だった、出口に迷ってから適当なところで出た、交番の前に出た。
九龍という前にも二度来たことのある台湾料理屋さんに入りビールを頼み、友人を待ちながらフラナリー・オコナーを少し読んでいた、ジョイ、という名前をハルガという名前に変えた女性の話というか、そういう女性が出てきた、哲学で博士号を取得した、しかしその後働きには出ていないで家にいる、30代の女。オーバードクター、というのはこういう人のことなのだろうか、先日見た演劇『凡人の言い訳』の女の人が、自分はオーバードクターだ、と言っていた。
読んでいたところ、「無」という字が「蕪」に見えた、空腹を感じた、友人が来た、友人と歓談した。なにを食ってもうまかった。たいへん満足をした。友人の店の話を聞きながら、それはとってもいいと思う、とってもいい、かっこいい、ということを言っていた、スターバックスのことが話の中で出てきた、そうしたらスタバに行きたくなった、カフェモカを飲みたくなった、それで会計を済ませるとスタバに向かった、もう一人合流して、3人で向かった、スタバに入って、久しぶりだなあと思いながら、ほお、ほお、と思いながら、カフェモカを頼んだ、10時半くらいだったが席はだいたい埋まっていて、3人で座れるようなところはなかったので歩きながら飲むことにして歩きながら飲んだ、途中でツタヤの変な店があるんですよ、というので、社会科見学だ、という感じでTSUTAYA BOOK APARTMENTに入ってみた、うろうろ見た、どうやらネットカフェとか漫画喫茶とかそういうものの延長線上のなにかみたいな要素のあるものだった、へ〜〜〜、と思い、満足したので出て、コンビニで酒を買い、路上で、飲んだ。買った酒はまずかった。
近くで、大学生がはしゃいでいた、男4人女3人のグループで、女3人が全員へべれけになっている、男は全員シャンとしている、そういうグループだった、ベタベタしていた、「ね、帰ろ、明日一限だよ」みたいなことを男は言いながら、顔を両手で支えたり、低いところから、腰のところに手を回したり、はっきりと抱き合ったりしながら、しかし面白いのは誰が誰に向かうというのが一切固定していなくて、くるくるとローテーションしているというところだった、さっきまであの女の腕を取っていた男が、今はこっちの女の隣に座っている、みたいなことがずっと繰り返されていて、それが不思議だった、意中とかそういう世界ですらもはやないのか、というような。新鮮さ。3人で、真面目に話をしながら、しかし目の前で起こっている情景が面白くて、コンテンツ力高いなあ、と思いながら、たびたび注意は逸れた、そうやって、夜は過ぎていった。あいつらは、どうやってこの夜に決着をつけたのか。
##4月26日 早くに起きた、店に行き、コーヒーを飲み、掃除機を掛けた、10時から取材だった、これはとても楽しみな取材で、楽しみにしていた、その結果、楽しかった。
12時過ぎに店を出、丸善ジュンク堂。うろうろしていた。多和田葉子の新しいやつを買うことにした、メモパッドを2つ買った。お腹が減った、SPBSに寄った。入り口のところで目に入ってきた『火星で生きる』という本が、見た瞬間に、「どうやって! 教えて教えて!」となったので、読むことにした、そのウキウキ感、知りたい知りたい感はけっこう久しぶりの感じがあり、それは強かった。それからリトルプレス的なものをいろいろ見ていて、なるほどなるほど、とか思っていた。読書日記を月刊でというか月ごとに小さな冊子にするという、吹き込まれたアイディアが僕のなかで「やりたい! やりたい!」になっていて、小さな冊子というものに興味があった、小さなといっても、ひと月でも100ページ近くにはなるはずで、売られているリトルプレスの、ページ数や値段や紙を見て、ほう、ほう、と思っていた、と、「野球」の文字が見えた、それは『屋上野球』で、よそでも見たことがあったし手に取ったこともあったはずだった、というかバックナンバーを見たら明確に覚えていた、これは去年の秋に出たボリューム3ということだった、特集タイトルが「野球は、ラジオで」とあり、その下に「衣笠祥雄インタビュー」とあった、それは、僕は、悼むとか、そういうことは僕は、わからないまま生きているけれども、このタイミングでのこの邂逅は、そういうことだった、何がそういうことなのかはわからなかったが、そういうことかもしれないなと思った、そういうことだった。それで2冊を買って帰宅してうどんを大量に食べた。
『火星で生きる』を、やはり、買ったときの高揚感からとっくにわかっていた、真っ先に読み始めた。そっか、本当に火星で暮らせるようにしていこうと考えている人たちが存在するというか、余裕で実現可能なものとして火星の暮らしというものがあるのだなということが知れたというか、まずはレゴリスという火星の土をブロックにして、建物か何かにして、みたいなそういう動きが描かれると、とたんに強いリアリティというか、この場合のリアリティというのは自分との結びつきみたいなもので、そういうものを感じる。この地球の日本の東京の暮らしの延長線上に火星の暮らしが本当にあるんだな、というような。そして僕からすれば途方もないし、考えたこともなかった、行くくらいが精一杯だとばかり思っていた火星が、余裕で移住して暮らしていけるようになる、するらしい、その手立てを真剣に日々考えている人たちがこの世界に存在しているという事実になにか、勇気づけられる。
『三月の5日間』を思い出す。痛いことをやっちまったミッフィーちゃんが地球もう離れたい、火星に行きたい、火星で暮らしたい、そう思い、「勉強部屋」が宇宙船になって、家から切り離され、浮かび上がり、火星へ向かっている様子を想像というか妄想する、それを思い出す。火星から送った手紙は、たとえ未達であっても返ってこないから、火星まではお届けできないから、事実を突きつけられずに済むと。ミッフィーちゃんが妄想する火星はしかしこの先、一瞬も成立しないのだろう。市井の人間がアクセスできるようになったらすでにそこには、うんざりするような日常が、悪意や貧困や暴力が、はびこっているのだろう。
店。トンプソンさんに「蓮根のおかずを」とお願いしていたところ、作られた甘酢和えのようなもの、片栗粉をまぶした蓮根と舞茸を、揚げ焼きにして、甘酢のタレで和えたものができていて、それがあんまりおいしくて、何度もつまみ食いをした。夜、そこそこに忙しいというかまっとうな営業で、あっという間に閉店した。いい時間が、壊してはいけない時間が、守らなければいけない時間が、今日も流れていた。朝の取材で店のことを考えていたこともあるのだろう、昨日の夜に飲んで友だちと店の話をしていたこともあるのだろう、やっぱり、相変わらず、この店は美しいと、改めて感じた。
閉店して少しして『火星で生きる』が読み終えられた、とてもよかった。これはTEDブックスという、TEDのトークを元になのか、発端になっているみたいな本のシリーズらしく、朝日出版社から出ているシリーズだった、始めて手に取った。
帰宅後、多和田葉子の『地球にちりばめられて』を読み始めた。火星で生きる、地球にちりばめられて。図らずも、なにか星単位で考えるような2冊になった感じがあった。
##4月27日 寝付けず。当初は夢の尻尾を早い段階で捉えたため、これはすぐに寝る、と安心していたのだが、意想外に寝付けず、延々と寝付けなかった。途中で電気をつけて読書を再開した。
『地球にちりばめられて』は、年代は不明だがどうやら日本という国が沈んでなくなったあとの世界だった、舞台は最初はデンマーク、コペンハーゲンだった、そこでhirukoという日本出身の女性が、汎スカンジナビアな人工言語、スカンジナビアの人たちにはなんとなくおおむねちゃんと伝わる言語、を作って使っていた、パンスカ、と呼んでいた。多和田葉子の小説を読んでいると、そういうことが書かれているからそういうことなんだろうけれど、言葉に対する意識が前に出るようになって、いろいろな言葉の、それがそう成り立って流通している不思議さのようなものをチクチクと感じる、それはとても刺激的で面白い。言われてみたらほんとにねえ、というような。
早くに起きた、代々木八幡のNUMABOOKSに行く用事があったので、それは前もそうだったが僕を何かおでかけモードにさせるらしく、せっかくなので、というような気が起き、リトルナップコーヒースタンドに行った、外の席でカフェラテを飲んで煙草を吸って、やっぱりおいしいしいいお店と思った、かつてとても頻繁に来ていた、いつも外の席に座っていた、向こうのグラウンドが前はもっと、見えたような気がした、いろいろな運動行為を見かけていたからきっとそうだった、今は、灌木がきっとぐんぐんと茂った。
満足して事務所に向かい、内沼晋太郎さんと打ち合わせ。白焼きというらしい、入稿したものを印刷して、たぶん16ページとかのことである一折、一折ごとに束ねられた、そいうものがあった、それを見たり、他のことを話し合ったりした。やはり、紙になった原稿を見ると気持ちがいいもので、つい普通に読み始める、みたいなことをしていた、面白い日記だなあ、というような気分も起きた、愉快な時間だった。
事務所を辞して家に帰った、さっき見たそれに影響され、やっぱり早く月刊の日記冊子を作りたい気になって、InDesignをまたインストールして、本文を組むみたいなことをやってみようかなというかやってみたい、という気になって、いやいや、他にもやることが、あるだろう、と思ったが、どうもやりたい、困った。
でも本を読まなければというか、読みたい、と、コーヒーを淹れ、ザカリーヤー・ターミルの『酸っぱいブドウ/はりねずみ』を開いて二つの短編を読んだ。シリア。初めて読むシリア小説。
しかし二つ読んだらパソコンが開かれた。InDesignを試しに開いてみると、なぜか使えた、サブスクリプションのやつ更新してね〜、というやつが浮かんでいるが、しかし使えている、それで4月の日記を流し込んで、本文のレイアウトというのか体裁を考え始めた、合成フォントというものをどうやら使うらしい、すると漢字はこのフォント、かなはこれ、欧文はこれ、といろいろ指定できて一括で変更される、こいつは便利なものだなあと思いながら、あれやこれや、試した。
あっという間に夕方になり、買い物をして店に行き、それから幡ヶ谷の方にある資材屋さんみたいなところに買い物に行き、まだ時間があったのでドトールに入って引き続きInDesignを触っていた、ギリギリまでそれで遊んだ。
夜、交代、日中閑散、その流れを汲んで僕も最初は座っていた、座っていれば当然InDesignを触ることになった、それから段々とお客さんが来られ、仕込みもいくつかあり、あれ、これ、とこなしていった、すぐに閉店時間を迎えた、閉店し、飯食い、食いながらInDesign。これはいけない、と思いながらも、帰宅し、シャワー浴びたらInDesign。明日からゴールデンウィークがどうやら始まるらしいその前日に、迎えるにあたってそれなりに緊張みたいなもの——暇だったら悲しい。忙しかったら大変——を10日前くらいから覚えていたゴールデンウィークがどうやら始まるらしいその前日に、なに恰好の遊び道具を見つけてしまったのか。寝ても覚めてもの状態にならないといい、と思っているとInDesign終了し、開こうとしても開かない、サブスクリプション更新してね、というので、それ以上行かせてくれない、そりゃそうですよねというか、これまでなんで使わせてくれたのだろうか。年間契約だと月々2100円くらいで、年間じゃないと月々3100円とかで、年間でいくのであれば、Illustratorはもともと使っているわけだから、全部込みプランみたいなやつに入る方がよさそうだった、Photoshopとかも全部使えて4900円ということだった、しかしフォトショを使ったことがないし使うことなんてあるのか、というか、今使っているイラレの用途は、InDesignでは代用できないだろうか、しかしそもそも年間契約なんてしちゃってもいいものなのか、どれだけ使うかもわからないのに。今晩のこの強い欲求を満たす遊びのためなら3000円なんて安いが、使うかわからない月々2100円は怖い。そういうわけでとりあえず3000円の、3180円の、やつを。