読書日記(81)

2018.04.22
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#4月14日 風が強い。昨日の緩慢さがそのまま続いていて、朝からぼーっと過ごしている、仕込みは今日はなにもない、ブログを書いて更新したり、日記の推敲をしたりしていた、店は今日も、緩慢な始まりだった、ふいに不定休日お知らせのページと予約のページを統一したくなり、HTML的ななにかを打つということを久しぶりにやっていた、きれいにまとまった。あとは、お客さんには、コーヒーを2杯淹れただけで、座っている、そろそろ自分のコーヒーを、もう一度淹れようか、
というところから無事忙しい日中になり、鱈とたけのこのココナツミルクのカレーも無事おいしいうちになくなった、快哉を叫んだ、そうしたら夜はまったくのぱったりの暇だった、総じてひどい土曜日になりそうだ、本を読んでいた。ピエール・ブーレーズの『クレーの絵と音楽』に
それで、もし拍動が規則的な場合には、次に何が来るかということの見当がつき、もしそうした拍動や、その拍動が私たちをある時点から別のある時点に連れて来たということを意識した場合には、回顧的に、何が起こったかということの見当がつく。最後にいたってようやく全体的な眺望が得られるわけだが、全体的とはいえ、仮想的な眺望である。絵画における全体的な眺望は、現実的な眺望であり、その分割された眺望の方は、それを全体から切り離さざるを得ない以上、ほぼ仮想的な眺望といえる。
音楽において、時間という要素、時間のモジュールは即座に感覚に語りかけ、瞬時に知覚される。音楽作品の総体的な再構成は想像的な再構成である。ひとつの音楽作品が現実に見通されることはけっしてなく、その知覚はつねに部分的である。総合は、後になって、仮想上のものとしてしかおこなえない。
保坂和志『小説の自由』(新潮社)p.71,72
ということが書かれている、ということで引用されていた。孫引き。いい。
ずっと暇で、夜もずっとぽつぽつで、途中、鱈のカレーがもう一食分は取れない中途半端な量だった、オーダーされたので、そう伝え、2種盛りでいきましょうかと提案したところ快諾してくだすったので、2種盛りでお出しした、それは、愉快だった。皿の中央にご飯を盛ってペタペタと土手にするそれはやってみたかったことだった、愉快だった。愉快だったそのあと、巷には、2種盛りのカレーを出すお店がたくさんあるけれど、あれは原価とか利益とかで考えるとどういうものなのだろう、1種で全部出たほうがずっとよかったりしないだろうか、という疑問が湧いた、1種で1000円とかだとして、2種でも1300円とかだとして、これでどれだけ利益は変わるのだろう、1種のときの量を100として、2種のとき、50・50かというと、そうは見えない、60・60とか、あるいはもっと多かったりするのではないか、そのとき、2種盛りは出れば出るほど疲弊する売上の作り方だったりはしないのだろうか、どうなのだろうか、と思って気になって、スプレッドシートで計算してみた、僕の計算上だと、65・65より少なければ、2種盛りで出したほうが売上利益ともに大きくなる、というところだった、それだったら2種盛りはヘルシーな売り方なのかもしれない、わからないが、と思って面白かった、と、そんなことをしていたら10時からトントンと来られ、最終的にはバジェットには乗った、結果的に悪くない土曜日になった、変な土曜日だった、風が夜まで強く吹いていた、最近の風の強さはいったいなんなのだろうか。
夕飯を食べながら珍しく野球のWebの記事を読むのではなく『Number』を読んだ、「MLB2018 DREAM OPENING 大谷翔平 夢の始まり。」というタイトルだった、ただただワクワクする。
就寝前、ドノソ。イネス(63)。
##4月15日 朝、飯を食いながら『Number』。大谷の率直というか冷静な物言いが昔から好きだった。傲慢にも卑屈にもならない、フェアネスのようなものが確保されているように感じて好きだった、いや、フェアネスを確保しようとする意志を感じる、というほうが正しいか。
店、前半は快調、昨日同様夕方以降ぱったり止まった。『小説の自由』をいくらか読んでいた、そのあと今晩3時から大谷の登板する試合があるんだよな、ということを考えたところ、なんだか見たいような気になってきた、どうやったら見られるのだろう、と思ったらDAZNに入れば見られるようだった、これはもしや、見るのだろうか、と思った、起きていられればだが、起きていられるのだろうか、しかし、そんなに見たいのだろう、か。
だいたい自分自身の人生の記憶がそういうものではないか。年表のように時系列に書き並べてみてもそれよりずっと多くのことを憶えているというか、全然そういうものではない。
そんな風に並んでいるわけではなくて、たとえば二十年のつきあいのある友人だったら、その友達一人が頭の中に登場するだけで奥に向かってどんどん厚みを増していくというようなそういうものが人生の記憶で、小説を書いているときにそれを把握しているあり方もそれにちかい。『城』がそういう風に記憶されることを期待したのだが、結局そこまで読みつづけることができなかった。
——しかし、やっぱり私は『城』をもっと記憶するまで読まなければいけないのではないか。クラシック音楽のファンだったら、四、五十分ある交響曲の全体を記憶している曲が一つか二つあるのではないか。それなのにどうして小説の方は一回や二回読んだだけで「読んだ」ことになってしまうのか。小説をもっとずっと音楽の受容の仕方に近づけることが、小説を、批評という小説とは似ても似つかない言葉から自由にすることなのではないか。
保坂和志『小説の自由』(新潮社)p.127,128
大谷翔平。保坂和志。先日『小説の自由』を読みながら、ふと表紙を見たらタイトルの「の」の字だけ違う色だった、それに、この本は天アンカットという上がギザギザしている仕様になっていて、ソフトカバーだった、それだけだが、俺の日記本と共通しているじゃないか! と思い、なんだか舞い上がるような心地になった。その舞い上がりは、だいぶ前に見た、大谷のストーカーかなにかで出入り禁止かなにかを食らったか食らっていないかの女性の発言を思い出させた、曰く、大谷はなんだったか忘れたが何かをしながら何かをするらしく、その女性も何かをしながら何かをするらしく、それを受けて彼女は「私も翔平君も「ながら」が好きっていうところがすごく似ているなって思う」みたいなことを言う、それを思い出した。(調べてみたところ大谷は「読書しながら風呂」で、女性は「大谷を出待ちしながらゴルフの素振り」だった)
夕食、『Number』とともに。ビールも飲まずに家に帰り、風呂にゆっくりゆっくり浸かる。上がると3時。3時15分から配信開始のはずだった。急いでDAZNの登録をして、エンゼルス対ロイヤルズを探す、あったので流す。楽しみにしていたDAZN & Chillの時間だ。さあビールを開けようか。と、ロイヤルズの先発の「Jakob Junis」の防御率が0.00とあり、見間違いかな? と思って検索するとMLB.comが先頭に出てきたので開くと、「ERA 1.93」とあり、さらに下の方に行くと「4/14 LAA」で4失点している、ん? 今投げているのでは、ないの? どういうこと? どういうこと? 今やってる試合は? どこ? えっと、野球カテゴリー見ると今日配信予定ないってなってるけど、どういうこと? 中継しないの? あとで放送が基本なの? どういうこと? どういうこと? となって、Twitterで検索をすると悪天候で中止になったということだった。現在氷点下らしく、ミズーリは、氷点下らしく、カンザスシティ、今日が寒いということは聞いていたから、帰り道など少し肌寒さを感じたあと、いやいやこんなもんじゃないんだ、ミズーリは、彼らは、こんなものではない寒さのなかでこれから野球をするんだ、みんな怪我なくがんばってね、俺も負けないよ、そんなことを思っていたわけだったが、あえなく中止となったらしかった。しかたなく、いくつかハイライト動画を見たりしていた、田中将大の登板試合のハイライトを見ていたら、すごい低めに、ぴーっとボールを投げていて、ぴぴーという球もあれば、ぴー・すとん、という球もあり、自在という感じだった、それにしても、なんのためのこれまでの時間だったのだろうか、今は3時半だ。
##4月16日 ビールを飲みながら『夜のみだなら鳥』を読み、眠くなって寝たのが4時半くらいだろうか、5時くらいだろうか、昼過ぎに起き、すぐに読書を続けた、途中でコーヒーを淹れ、途中でうどんを茹でて食べ、読んだ。
イリスの手から受話器が落ち、コードの先でぶらぶら揺れる。それにかまわず彼女はイネスの顔を見ながら、
「この神聖な土地が売られるのを、わたしが黙って見ていると思う? ヘロニモ、あなた、どうかしてるわよ。あんな目に遭わせておいて、それでも足りずに、陰謀に加担して神聖な土地を取りあげようとするのを、わたしが指をくわえて見ていると思っているの? ここには福者が埋葬されているわ。それをあなたとアソカル神父は、いちばん高値をつけた入札者に売却しようとしているのよ」
イリスは形相を変えている。両手を激しく振る。目が茶色に、黄色に、緑色に光る。コートが茶色なので、とくに茶色に光るが、その光には怒りがこもっている。永遠にお前のものである小さな土地を守り抜くという決意で、イリスは興奮して、さかんに手を振りまわす。イネスはあとずさりしながら、それでも強く要求する。
「イネス。お前は修道院を出なくてはいかんのだ!」
ふたつの声が拮抗し、からみ合う。イリスが吹きだす。イネスが訊く。
「なぜ笑う?」
ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(鼓直訳、水声社)p.461,462
このあたりはすごかった。ここではイリスがイネスを演じており、受話器を持っており、電話の先はたぶんヘロニモで、一方で、イリスの目の前にいるイネスが声色を使ってヘロニモを演じている。イネスはそれからペータ・ポンセと同化する。語り手は醜い小さな男であったり、生まれたばかりの子どもであったりする。変幻自在のぶよぶよした、定まらない、固定化しない、なにかが蠢きつづけているような世界がひたすら広がっている。こんなに面白く読むことになるとは思わなかった。
老婆たちにまじってイネスもひざまずいている。老婆たちは願いごとを唱える……リューマチが治りますように……来週はヒヨコ豆でなくて、インゲン豆が食べられますように……ラファエリートが牢屋から出られますように。 同前 p.466
ヒヨコ豆は一等低いものだったのか、と知った。夕方になり眠くなった、しばらく昼寝をした、代々木八幡駅の前にいた、自転車だった、踏切がおりた、待ちたくなく、住宅街のほうの道を進み、歩道橋を自転車を押して上がっていった、すると駅のホームにおりる階段がありくだった、ホームを進むと改札があったのでピッとやって出た、いつのまにか改札の内側の世界にすり替わっていたらしかった。
店。ゆっくり。ぼーっとしながら過ごした。閉店。『Number』を読みながら夕飯。その後ちょうどいいというか少し前からそろそろと思っていた、そのタイミングが今夜のような気がし、換気扇のフィルターの掃除をした、思ったよりもヘビーな汚れではなかった、PUNPEEのアルバムを聞きながらおこなった、どの曲もなにかとぐっときた、やっぱり「夢のつづき」はとても好きだった、『Number』の、「夢の始まり」という特集タイトルを見て、読みながら、この曲が頭のなかで鳴った、それを思い出した。大谷にとっても始まりなのだろうか、つづきなのではないだろうか、始まりは野球を始めた小学3年生のときで、そこから常に、夢のつづきを生き生きと生きているのではないだろうか、知らないが、大谷の頭のなかに今、「夢のつづき」が流れていたら、と想像したら、それはなんともいえず美しい光景だった。今が夢のつづきなら、いいとこまで俺ら来たよな。
##4月17日 店、いくらかの仕込み、ひきちゃんと歓談、思いのほか早く仕込みが片付いたので帰宅、うどん食う、『夜のみだらな鳥』、あとほんの少し、というところにいつのまにか来ていた、眠くなり少し昼寝、女がビニール袋をむしゃむしゃと食べるというか噛みながら、振り返って、こちら、というかこちらとは少しずれたところを見て、笑っていた。そのあともう一人の女が登場し、二人でよく笑っていた、倒れ、四つん這いになって動き回り、叫んでいた、起床。
新宿に向かう、先週に続いて今日も変則的なルートを使ってみた、なんとなく、山手通りをぐんぐん上がる、ということをあまり積極的にしたいとは思わないらしかった、新宿に出た、歌舞伎町のほうに向かった、先週エピタフカレーに行ったときとほとんど同じ場所に向かった、時間が少しあった、猛烈にコーヒーが飲みたかった、ついでに一服もしたかった、ドトールに入ってスタンディングな席だけあったのでそこでコーヒーを飲み煙草を吸って、すぐに出た、バルってこういう使い方かな、みたいな使い方のように思った、今時分はもう煙草は吸えなさそうだが、この、クイッ、というそのクイックが、だ。それにしてもこの歌舞伎町の横のというのか、のドトールの分煙状態は非常に雑だった、オーダーであったりをするレジのところにも平気で煙の匂いがやってきた、こんな分煙をしていると、怒られるぞ、と思った。
新宿眼科画廊、小田尚稔の演劇、『「凡人の言い訳」“Apology”』。席につくと、女性が近づいてきて、こんにちは、とおっしゃるのでこんにちは、と返した、すると飲み物を用意しており、とのことで、コーヒーを済ませたのは失敗だったか! という思いがよぎったが、選択肢はウーロン茶か白ワインだった、なので失敗じゃなかったことに安堵しながら、白ワインをお願いした。一番奥の、一段上がった席に座っていた。
始まるまでのあいだ『夜のみだらな鳥』。溶けた。もうあと数ページだろう、しかし開演までもう1分だ、これはここでやめて、紀伊國屋書店のカウンターみたいなところで読もう、あそこで読み終えよう、と思い、本を閉じた、リュックにしまった、演劇が始まった。
客は、4人で、一人芝居だった、目の前に立っている女性の視線が向かう先は、壁や、向こうや、手元や、いろいろあるが、そのなかには「客」というものもあり、4人しかいないから、分散されないから、順繰りに、高い頻度で、見られる。ああ——来るぞ、来る来る、あのかわいいラブリー——AHH——
これはいくらか居心地の悪い緊張感もあったし、同時に、なにか普通に話しかけられているような気分になって、普通に相槌を打ちそうにもなったというか、人が、自分に向かって話している、それに対して、まっとうに対するなら、あいづちくらいは打つものだから、だから打ちそうになる。その感覚はフレッシュで、愉快だった。
外に出ると雨だった、降り始めるのはもっとあとだとばかり思っていた、わりとしっかりと、降っていた、紀伊國屋書店に行った、まずドノソをここで読み切る、という考えは、雨に打たれて消えていた、すぐに買って、すぐに帰る。それが与えられたミッションだった、シリアの、数日前から気になっていた、エクス・リブリス最新刊であるシリアの、作家の、やつ。『酸っぱいブドウ/はりねずみ』をまず取った、本当に面白く今、これを僕は読めるモードだろうか、といういささかの疑念、不安はあったが、取った。それからうろうろとし、ノンフィクションコーナーを見、そこから久しぶりに文庫コーナーに足を踏み入れ、『スリー・ビルボード』を見て以来うっすらと気になっていたフラナリー・オコナーの短編集を取った。ちくま。
それで会計を済ませて外に出ると雨は、弱くなっていた。いつもとはまた異なるルートで自転車を走らせた、少しだけ迷った、迷いからはすぐに脱した、スーパーで買い物をした、代々木八幡駅の踏切がおりていて、人がたくさん待っていた、踏切はいつも以上にあがらずに、待つ人や車や自転車やバイクの数だけが膨らんでいく、こちらと向こう岸と合わせたら、もしかしたら100人くらいはいるのではないか、そのなかに、電車こねーな、みたいな顔でホームのほうをちらちら見たりする男性の姿があり、見覚えがあった、あれは、もしや、あのかわいいラブリー——AHH——
その男性はしまいにはしびれを切らして踏切待ちを諦め、路地を進んで歩道橋のあるほうに歩きだした、ここまでは昨日の夢と一緒だった、そこで歩道橋を上がれば、実は改札内にいて、階段をくだれば、改札がある、ピッとして外に出る、こうなれば、全部が夢と一緒ということだった、その男性を追い、そして追い抜き、手を振ると、「やあ」という様子だった。それで、踏切のほうに戻り、するとやっと上がり、並んで歩いた。その方が行くという場所に僕もついていき、知った人があったのであいさつをしたり歓談の輪のなかにしばらく滞在したのち、辞し、帰宅、まずはキャベツのアチャールを作ろう。
ビールを開けた、キャベツのアチャールを作った、マスタードシードをしっかり熱した。DAZNを開いて、日ハム対西武の試合を流した、勝っていた、先発は上沢だとばかり思っていたが、村田が投げていた。カレーを作った、オクラとナスときのことパプリカとしいたけの入ったキーマカレーをこしらえていった、それからスープ。トンプソンさんがラムとクミンの餃子を作ったとのことでくださって冷凍庫にあったそれで、水餃子スープをこしらえる。中華だし、セロリとしいたけ、醤油で味をととのえ、水餃子は別の鍋で茹でる。清水優心がホームランを打った、これで4本目だった、驚いた。中田も、粘ったあと、というのか、タイミングが合わないなかで粘ったあと、というのか、ホームランを打った。うれしかった。
あと少しでカレーができるその前に、『夜のみだらな鳥』、ラストラン。終わった。楽しかった。カレーができた。食べた。おいしい、おいしい夕食だった。すばらしかった。たくさん食べた。
食後、フラナリー・オコナーの短編集を開いた、1ページ読んで眠くなり、ソファに横になった、12時過ぎにがんばって起き上がり、シャワーを浴び、ウイスキーを注ぎ、改めて読み始めた、それで3つ読んだ、「善人はなかなかいない」「河」「生きのこるために」を読んだ、受動的な暴力というか、受精した暴力というか、胚胎した暴力というか、なんというか、暴力の胞子みたいなものがふっと人の中に入って、それが自動的に発動されるような、そういう感触があった、総じて気分が悪いというか、居心地のよくない話で、寝る前に読むものではないなと、『夜のみだらな鳥』を寝る前本として昨日まで読んでいた身ながら、思った、そして寝た。
少年はおこってふり向いた。「悪魔のところへいっちまえ。おれの母ちゃんなんぞ、だらしのないばばあさ。おまえの母ちゃんなんか臭いスカンクさ!」そう叫ぶなり、少年はかばんをもって車から外の溝へと飛び降りた。
ミスタ・シフトレットは強いショックを受けて、あいたドアもそのままで三十メートルばかり進んだ。少年の帽子とおなじ灰色の、かぶらのかたちをした雲が太陽をかくし、べつのもっとおそろしげな形の雲が、車の後ろから追ってくる。この腐りきった世界が自分を呑み込もうとしている。ミスタ・シフトレットはそう感じた。片腕をあげ、それから胸に打ちつけて祈った。「おお主よ! いますぐ現れて、堕落した者たちをこの世から洗い去ってください!」
かぶらのかたちの雲はゆっくりと降りてきた。何分かたつと、後ろから高笑いするような雷鳴が轟きわたり、缶詰のプルトップほどもある、信じられないくらい大きな雨粒が、ミスタ・シフトレットの車を襲ってきた。すばやくアクセルを踏みこむと、ミスタ・シフトレットは半分しかないほうの腕を窓から突きだし、激しい夕立と競争しながらモービルへといそいだ。
フラナリー・オコナー『 フラナリー・オコナー全短篇 上 』(筑摩書房)p.85,86
##4月18日 いくつも夢を見たし途中で何度も目が覚めた。眠かった、買い物をして店に行った、スープとラタトゥイユの仕込みを始めながら、11時からはエンゼルス対レッドソックスの試合を流した、見ると、大谷翔平はすでに1点と取られていた、状況から察するに先頭打者ホームランだった、巻き戻すと低めのボールをきれいに打たれていた、それから大谷は苦労した、ボールがまったくコントロールできない様子だった、どのボールもうまいこといっていなかった、相手の先発投手はデビッド・プライスで、試合前、というかたしか数日前、相手投手について問われた大谷は、対戦するのは打者なので、と言っていたが、今日は打者と対戦する以前のところらしかった、2回で3点を取られ、60球以上を要した、そこで開店時間になったので閉じた、この回で降板したらしかった。
ぽやぽやと営業しながら、原稿の本文データが届いたのでチェックをしたりしていた、なにかと大詰め感があった。そのあとは昨日の日記を書いていた、そうしたら
そうしたら、なんだったのだろう。
中田が3ランを打った。その情報だけで、泣きそうになる。
悪夢。
8回表の時点で、8−0だった、日ハム。そのスコアを見ていて、そのなかに中田のホームランもあり、よかったな、と思ったし、今日は勝った。よく健闘している。開幕で3連敗を食らった西武を相手に2連勝。立派だ。がんばれ、日ハム。と、今、再びプロ野球の様子を見に行くと、8-7とあった。なにが起きた? 8回裏に7点を取られたらしかった、そして9回だった、投げているのは石川直也で、無死一、三塁のピンチだった、情報が更新され、山川穂高が四球で出たようだった、これで無死満塁。おい、おい、おい、と思い、ちょっとだけ、と思いながらDAZNを開いた、読み込まれ、中継画面が映った、と、石川がストレートを投げた、森が、バットを振り抜いた、角度のついた打球が飛んでいく、まかさサヨナラ満塁ホームラン? と思ったが、そこまではいかないようだった、ライトが、取れるだろうか、あるいはセンターだろうか、と、打球は二人のあいだにぽとりと落ち、跳ね、ライトの松本剛が処理し、ホームへ返すが虚しく、サヨナラ二塁打となった。悪夢のような試合だったということだけはよくわかった。今日は店は終日、暇だった。
一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。
効率が悪い? そういう読み方は効率が悪い?
読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文がよくあるけれど、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ。(...)
『百年の孤独』ほど、小説というものが読んでいる行為の中にしかないということを実感させる小説はないのではないか。そこに小説の真骨頂があり、『百年の孤独』を読んでいるあいだ私たちは、ニュートン力学的な絶対時間や絶対空間とまったく別の時間と空間の中にいる。
保坂和志『小説の自由』(新潮社)p.55,56
読んでいると、ぐんぐんと『百年の孤独』を読みたくなってきた。最初に『百年の孤独』を読んだのがいつだったか覚えていないが、やっぱり『小説の自由』を読んで読みたくなったのだろう。輝き、導く、そう言っていた人を思い出す。
##4月19日 コーヒーを淹れて『小説の自由』を読むところから一日は始まって、読んでいたらフラナリー・オコナーの作品が少し言及されていた、そのすぐあとに自由について書かれていた。「「自由」とは最大に力を発揮することだ。それは無秩序な動きでは実現しない」とあった。
外の気候を感じるのは煙草を吸いに出るときだけで、とてもいい朗らかな日のようだった、暑いくらいだったのかもしれない、明日は26度まで上がるという、それはきっと暑いだろう、午後遅くになってやっとご飯を食べる気になってうどんを茹でて大量に食べた、ざるうどんにはせず、釜揚げで食べた、先日もそうした。食べたらすぐに眠くなる、もうしばらく『小説の自由』を読んだあと、本を閉じると目も閉じた、ドリンクを作っているときにお客さんがつかつか近づいてきて、ショートブレッドも、と言う。あまり時間がないとか言ってなかったっけ、大丈夫かな、と思っていくらか慌てた気持ちになった、皿を出してショートブレッドを盛り付けようとするが、どうも手間取って、何度もやり直した、とても時間が経って、どうにか盛りつけられたので外の席に運びに行った、道をいくらか進んだ先の一角にテーブルとパラソルがあって、そこにはユニフォーム姿の権藤監督、山下監督、もうひとりは中畑監督だったろうか、が座っていた、ショートブレッドを置くと、たぶん中畑監督であろう人がにこやかに快活に対応してくれた、店に戻る途中、そうだ、野球の中継をずっと音声をオンにしたままだった! と気付き、なんてことだ! フヅクエなのに! 最悪だ! 気を抜きすぎだ! と思い、走って戻り、消した、長机の並んだ居間には人は何人もあって、伯母がメモを見せてきた、「スターティングカクテル/グレープフルーツジュース」と書いてあり、たぶん、最初に一杯、グレープフルーツジュースを使ったなにか、という意味だろうと思い、了解了解と言った、母方の祖母と伯母たちの暮らす家だった、そういえばみな喋っているようだった。
店。忙しくというか、まっとうに働いた。営業中、『小説の自由』。寝る前、フラナリー・オコナー。
##4月20日 気づいたらこんなにも春だった、と思いながら自転車を漕いだ、信号のめぐり合わせが悪く停まり続けながら進んだ、原宿にはたくさんの人がいたしいくつもの行列があった、やっと入ったものの、それで名物の料理かなにかを食べたものの、待つ人々が待つ人々を呼ぶことを繰り返した末のなんの意味もない行列だったことを人は知った、そのわきを僕は信号のめぐり合わせが悪く停まり続けながら進んだ、ザ・ローカルでコーヒーを買い、イメージフォーラムの地下に降りた、映画が始まるまでの少しのあいだ、フラナリー・オコナーを開いた。
「お宅の子がこのくるぶしを折ったんだ!」老婆が叫んだ。「警察を呼んでおくれ!」
後ろのほうから警官がやってくるのをミスタ・ヘッドは感じた。まっすぐに女たちのほうを見た。女たちはこのできごとに腹をたて、逃げられないようにびっしりと前方をふさいでいる。「おれの子じゃないよ。」老人は言った。「見たこともない。」
肉に食いこんでいたネルソンの指がはなれるのを感じた。
女たちは後ろにさがり、ぞっとして老人の顔を見つめた。こんなにそっくりでいながら、平気で子供とのつながりを否定する人間のいやらしさにおそれをなして、手をふれるのもごめんだと思っているらしい。女たちはだまって道をあけ、ミスタ・ヘッドはネルソンを残したまま前に進んだ。
フラナリー・オコナー『 フラナリー・オコナー全短篇 上 』(筑摩書房) p.159
始まった映画は『泳ぎすぎた夜』だった、ダミアン・マニヴェル、五十嵐耕平。
うつくしいうつくしい映画だった。子どもが家から離れていくにつれて、心細さが募っていった。ときおり笑ったりにこやかな心地になったりしながら、心細さが占める比重が大きくなっていった。彼は、しかし彼は心細かったのだろうか、どこから冒険は、心細さをはらみ始めたのだろうか。静かな映画で、たくさんの音が聞こえた。
それにしてもそれにしても、見ながら、目を見張りつづけていた。魔法というか、どうしてこんなことが可能なのだろう、どうやったらこんなことが可能なのだろう、と思いながら見ていた。奇跡みたいな瞬間がいくつもいくつもあった。
映画を見ながら、腹が鳴って、うどんかな、それとも焼きそばかな、と思っていたら、カレーだ、となったので、スーパーでいくらか買い物をして帰宅、簡単なカレーを作ることにした、米を炊いて、野菜を切ってスパイスを温め、座った、横で、爆ぜる音が聞こえている、まだ甘くなっていない玉ねぎの匂いが漂ってくる。
ネルソンは簡単に人を赦すような性格ではないが、赦す対象をもつのはこれがはじめてだった。ミスタ・ヘッドはこれまで面目を失ったことはなかった。さらに角を二つ越えたところで、ミスタ・ヘッドはふりかえり、やけっぱちの陽気な大声で言った。「どっかでコーラでも飲もうや!」
同前 p.160
映画の子どもの顔はやわらかい顔だった。動きつづける顔というか、変わりつづける顔だった。生成しつづける顔というか。何度も、本当に同一人物なのかな、と思いながら見た、それほど、顔は繰り返し変化していた、変化しつづけていた。
カレーがあと少しでできる、その前に、『POPEYE』を開いて三宅唱の連載を読んだ、ここで取り上げられているのを見て見ようと思った映画だった、読んではいなかった、読んだ、そこには「これ奇跡じゃん、みたいなことが最低でも数回、当たり前のように映っている。というか、全カット奇跡みたいなことになっている。なぜこんな映画が可能なのだろう?」とあった。
おそらくこの映画の撮影現場には、通常の意味でのOKとNGがない(天才がちらちらカメラを見てしまうとか、撮影に飽きて途中で演技をやめてしまうとか、予想もつかないことはあきれるぐらいたくさんあったかもしれない)。
例えば「この道をこう歩いてほしい」なんて指示は一度もないのではないか。そう指示した途端、成功か失敗かが一目瞭然になってしまう。そうではなくて、この道を歩いてみたらどんなことが起こるのだろう? まずはやってみようよ、という「冒険」。そして起きたことをすべて受け入れる。その連続にみえる。
そんな風に映画を作るのは、OKとNGが明確なやり方に比べれば、きっととても面倒くさい。でも、成功か失敗かに囚われないことで、とても自由になれるのではないか。
POPEYE 2018年4月号「はじめまして、東京。」』(マガジンハウス)p.177
本当にそんなふうだったなあ。なんか、ちゃんと反応しているんだよな、という動き方しかしていなかった。たとえば駅のホームで、高いところから雪がどさっと落ちてきたとき。あれは奇跡の瞬間のひとつだったけれど、アクションが縛られていないから、そこで音や振動に反応して、振り向いて、上から落ちてきたのか、と知る、おやまあ、と思う、その一連が、奇跡のまま続いていた。というか、そう続いているその状態が奇跡だった。見ながら僕は三宅唱の『無言日記』を何度か思い出していて、パドラーズコーヒーからの西原の代々木上原のほうに下る坂道で、トラックがすれ違って、横道から自転車が出てきて、と思ったらまた別の自転車が出てくる、荷物がよたよたしている、んだっけか、トラックは一台だったっけか、とにかくそういう箇所があった、それは「なにかが起きている」という喜びを、そういう喜びだけを与えてくれる笑っちゃうような場面だった、それを思い出したりしていた。
そういえばエンドクレジットの「感謝」みたいなところで「パドラーズコーヒー」の名前があった。おらが町の的な誇らしさみたいなものを一瞬感じた自分に気づき、笑った。
カレーは、牛肉とパプリカとしいたけのカレーだった、前に買ってみたフェネグリークを入れてみたが、よくわからなかった、おいしかったが、なにかが違っているような感じがあった、フェネグリークかもしれなかったし、それからカルダモンかもしれなかった、なんでもかんでもカルダモンを入れればいいというものでもないのかもしれない。
少しだけフラナリー・オコナーを読み、店。いつもより1時間早く。1時間早いと早い感じがする、日中は暇だったらしかった、夜は忙しくなり、いい数字に着地した、よかった、このくらい夜が忙しいとありがたいし楽しい。わたわた働きながら仕込みも進め、しっかり働いた感じがあった、『泳ぎすぎた夜』のことをチラチラと思いながら働いた。
働きながら、途中で、なにか、怖い、みたいなことを感じた。日々が続くことに対してなのか、なんなのか、茫漠としたなにか。日中に『小説の自由』を読んでいたら出てきた「永劫回帰」の言葉になにか当てられたのかもしれなかった、だとしたら簡単だった。
そういうときは野球だった。スコアを見た。マルティネスがソフトバンク相手に8回を1失点で抑えた、石川直也がセーブを記録した、それだけでなにかグッとくるものがあった。石川直也。栗山監督のこういう起用法は好きだ、すごいと思う、尊敬する。西武が今日も8回に6点を取って逆転していた、すごい。
気になって、日ハム戦のハイライト動画を見た。中田のヘッドスライディングで涙が出そうになった。それから、ハイライトはやめて、9回の石川のマウンドを見た。こんなにも若いのか、と、初めて見たその顔を見て思った、9回のマウンドを託された21歳は、必死に投げているようだった、結末を知っていてもハラハラしながら見た、最後の打者を打ち取り見せた笑顔は、なんというか素晴らしいものだった、胸が熱くなった。
帰宅後、『小説の自由』。アウグスティヌスを読んでみたくなった、前に読んでいたときよりも、なにか、わかる、じゃないけど、わからなさの質が前とは違うような気がした。思い違いかもしれなかった。けっきょく一週間、PUNPEEが頭のなかでずっと流れていた。