読書日記(47)

2017.08.26
blog_fuzkue489.png
#8月19日 何人かで地図を見ている、稼ぎがよくてワインが好きな人が書いたらしい地図、所持しているのは中東の政治状況に精通した後輩、もしかしたら彼が書いたのかもしれない、全部英語で書かれている、地図上では学校の敷地内に家があることになっている人がいるが、違います違いますw と中東が笑いながら訂正した、ワインはこの場にはいない、学校の向かいの通りに住んでいる女子のことを話した、全員サークルが一緒だった、地図の置かれている広い机からカメラが右に移動していくとグロテスクな見た目のごぼうが何本か置かれていた、色あせた写真もでてきた、ラビリンスに行ったときの写真とのこと、ラビリンスはニューヨークでおこなわれているクラブミュージック中心のフェス、写真はどう見ても日本の住宅街にしか見えないし、昭和60年という感じの色あせ方だった、服装とかも。
アストリアで目を覚ました俺はNラインに乗って店に向かい、着くと営業活動を鋭意おこなった。夕方までは順調で、その夕方にすごい雷の時間帯があった、あまり聞き慣れない雷というか、雷自体久しぶりに聞いた気がするが、聞いた覚えのない鳴り方だった、重い音が連射されるような、連射の刻み方が細かすぎて一枚になっているような、そういう響き方をしていた。多摩川の花火大会がその荒天により中止になったということだったが、代替して余りあるような雷だったというのは、しかし関係者や楽しみにしていた人たちにとってはなんの慰めにもならない。今年小学生になった息子と行こうととても楽しみにしていた俺も実に気を落とした。花火をまだ見たことのなかった息子は、それで消沈するほどにそもそも楽しみな気分を溜め込んでいなかったのか平気な顔をしていた。ひとたび花火大会を体験してしまったあとだったらきっとこうはならないのだろう。それで俺たちは、隔週くらいで届けられるしぶや区ニュースという区報の新しいのを切り抜いてコラージュする遊びを一緒におこなって充実していた。
8時ごろ、目を離してから目を戻すと気絶したように眠りに落ちていたので寝室に搬送して夏掛けを掛けて居間に戻ると金麦を飲みながら『10:04』を読んでいた。夕方以降は完全に暇でダメ土曜日だった。それもしかたがないかと思うような天気ではあったが。本当にこの小説が好きらしい。1ページ1ページいちいちぐんぐん来る。
独りよがりな生協的駄弁に聞こえない表現の仕方があったなら、僕は彼女に言いたかった。最も不穏で辛い形で自分のアイデンティティーを失うことの中にも、いかに屈折したものとはいえ、来たるべき世界のきらめきが含まれている、と。全ては今と変わらない、ただほんの少しだけ違うだけで。というのも現在の現実から見て、起こったけれども起こらなかった出来事を含め、過去はいつでも引用可能だからだ。その深夜、ベンチに座る僕の姿 ——バンダナを巻いていたせいで髪はぺしゃんこ—— をあたなたちは見かけたかもしれない。保存料不使用のマンゴーを際限なく口に運びながら、未来に自分を投影し、穏やかに涙を分泌する男の姿を。
ベン・ラーナー『10:04』(p.124)
夜は『富士日記』。ボコが死んだ。空が真青で。
夜 ごはん(のりまきをした)、さば味噌煮の罐詰、煮豆、トマト。
犬が死んだから泣くのを、それを我慢しないこと。涙だけ出してしまうこと。口をあけたまま、はあはあと出してしまうこと。
武田百合子『富士日記(中)』(p.163)
##8月20日 モパ。昨日に続いて夏らしい感じでうれしいというか暑い。運動公園のプールの建物の横の庭みたいなところでハンモックに寝そべる婦人や簡単なテーブルに向き合って座る婦人や遊ぶ子供たちがいた。片方の人は手に本を持っているように見えた。それを一段高いところからワイドな画面で見る感じがなんでだか、なにかジオラマのようなというか静止した画像のような印象をもたらして、それとどう関係あるのかゴダールの映画のどれかにあったようなふうに見えた。画面のあちらこちらで人々が関係ないことをしている、寝たり本を読んだり、その感じが、きっとそんな場面はいくつもあっただろうと思わせるものだった。
開店してから特にやることもないので『10:04』を読んでいる。今日は講演会のあとの会食で著名な女性作家といろいろと話す場面で、とにかく全部、ほんとうにとてもとてもとてもいい。ぐっと来続けている。そのため、どのため、たぶん「とにかく全部」でだろう、Amazonでマスマーケット版のやつをポチった。マスマーケットというのはペーパーバックのことらしかった。ハードカバーとどちらにするか迷ったが、マスマーケットのほうが表紙がよかった。併せてというか続けて『POPEYE』の本屋さん特集のやつもポチった。カレー特集のやつはトイレに置いていて、『POPEYE』はそうなるというか、あの形のやつはそうなるのだけど、表紙の左上が垂れてくる。重いのだろう。換え時だった。
暇。暇。暇。いくらかみじめな気持ちになるくらいに暇。ずっと暇で、夕方に一瞬だけ「わ」という時間があり、それで終わり。ひどい閑散。今は8時前、もうお一人しかおられん。
夏はもう諦めろ、そう思っていたが、夏はダメな時期なんだ、そう思うことにしていたが、8月は『CREA』と『Hanako』とほぼ同じタイミングで雑誌での掲載があり、その発売が8月10日前後だった。ダメな夏を、もしやこの二つの雑誌がいくらか支えてくれる、補ってくれるのでは、と期待していた。しかしその期待どおりにはいかなかった模様。いやもしかしたら雑誌で知って来られた方もいくらかはいるかもしれない、まったくのゼロというのも考えにくいだろう。ということは、雑誌がなければこれ以上にひどいことになっていたということで、それを考えるといくらかゾッとする。
暇。暇。暇。『10:04』を読んでいる。語り手とロベルト少年がアメリカ自然史博物館に行く。もしやと思って調べてみるとやはり『マンハッタン』でウディ・アレンとダイアン・キートンがにわか雨にやられて駆け込んだのがこの博物館だった。そこで君と惑星間セックスがしたい、というようなことを言う、その博物館だった。語り手はロベルトにそういうことは言わないし、強い不安に陥る。この場面は前に読んだときもとても苦しい場面だった、それは今回も同じだった。逃げ場のなさ。藤浪が味わっているであろう苦しみを考える。
でも基本的には藤浪ではなくこの小説を読みながら僕はずっとずっと、ウディ・アレンとダイアン・キートンのことを考えている。というかウディ・アレンとダイアン・キートンで想像している。いやそれは嘘だ。それはしていないけれど、『マンハッタン』や『アニー・ホール』のように僕はこの小説を愛している。
今はアーティスト・イン・レジデンスでテキサスのマーファに滞在している。チナティ財団の何かでドナルド・ジャッドの「100 untitled works in mill aluminum」という作品を見ている、それを画像検索して見ている。すごく見てみたくなって見たら泣くのではないかという気がするようなものが出てきた。同時に、なんだか無性にまたテキサスに行きたくなってきた。クレオソートブッシュに囲まれた荒涼とした道を、傾いた太陽の黄色い光がなににも遮られずにすべて降り注いでくるあの道を、ちんたらちんたらと車で走ったあの時間を僕は思い出していた。アメリカに行ったことはなかった。
結局夜は完膚がどこにも見当たらない程度に暇だったというか終わっていた。あまりに暇なんでビルの入口に大量の吐瀉物か糞尿でも撒き散らされてるのではないか、またぎ越せないほどに大量の吐瀉物か糞尿が、と何度か頭をよぎったが考えてみたら何度も外に出ておりそんなものを見た記憶はないのでそういうことはおそらく起きていなかった。最後に来られた方の来店時間は17時半だ。つまり夜になってからフヅクエの扉を開いた人は一人もいなかったということだ。12時間あるので18時を区切りにして前半戦と後半戦に分かれているという感覚で生きているのだが、つまり今日は後半戦はゼロだったというわけだ。先週の何日かも同じようなものだった。つまり夜に人が来ない、ということが頻発している。つまりそれはどういうことだろうか、近所にこの店を求める人がいない、相変わらず求められていない、そういうことだろうか。何か打ち手はあるのだろうか—— そんなことを考えるのはすぐにやめて経理の作業をいくらかしたら『10:04』に戻った。いやその前に、このままでは今日読み終えてしまう、せっかく明日英語のやつが届くのに、それで照らしながら読みたいのに、と思ったため今日はそれ以上は進めないことにして、それ以上というのはつまり、チナティ財団の倉庫でドナルド・ジャッドの作品を見たところだ。ところで僕はそのジャッドの作品の場面を読みながら、このあとのレストランで荒野に並ぶモニュメント的なインスタレーションの話題が出てくるはずだ、と思っていた、しかしそんな話は出てこなかった。つまり—— つまり僕は先を結局読んだということなのだが、そんな話は出てこなかった。荒野に、避雷針のような何か、それが並ぶ、そういう大きな作品。そのことが話題にあがる何かを読んだ記憶は間違いなくあるが、『10:04』ではなかった、なんだったろうか。
つまりだから、今日は残りの時間は『10:04』はやめにしてと思って『富士日記』を読んだ。いくらか読んだ。花子は一度もボコの話を出さない。そのあといくらか何か、何をやっていたのだっけか、仕事をしたあと結局『10:04』に戻った。いくつかの、すばらしい、親密な、場面。たとえば、
「大丈夫だ」と僕は言って、ソーダの缶の蓋を開けてテーブルの上に置き、研修生の顔とシャツを拭いた。「『峠は越えた。僕はあなたとともにある』」と僕はホイットマンを引用した。「『そして事の次第を知っている』」。彼は泣き出した。おそらくこの二十二歳の若者は、故郷を遠く離れて今この場所にいるのだろう。その光景は、端から見ればどう考えても間抜けだ。しかし彼の恐怖、そして僕の共感は本物だった。
ベン・ラーナー『10:04』 (p.213)
そして
僕が上に乗ると、彼女は目を開けた。色の濃い上皮と透き通った虹彩ストロマ。そして、自分と僕の両方を励ますように「来て」と言った。しかし、僕の知る中で最も気取らない人の声が明らかに演技をしていることに、僕はほほ笑まずにいられなかった。それから二人とも笑いだした。
ベン・ラーナー『10:04』(p.230)
ここで僕はいちおうというか間違いなく営業中だったが鼻がツンとして目が熱くなるというわかりやすく涙こみ上げ時の症状になった。もうほんと好き。いやーなんかもう、ほんと、これだよこれ、となんかすごい、これだよこれというかもう、素晴らしいよほんと。素晴らしい。最高。「その出来事によって少しも関係が深まらなかったことは、二人の関係の深さを強力に証明していた」。最高だよなんかすごい最高なんだよ。ところで「きどらない」と打って変換しようとしたら「もしかして」の変換候補に「生ドラナビ」「貴ドラナビ」「既ドラナビ」が出てきたのだがなんなんだろうか。「なんなんだろうか」と打ちながらも検索したら一発でなんかわかるんだろうな、と思って今検索をしてきたところだが、わからなかった。特に「ドラナビ」というのでいろいろすんなり出てくるようでもなかった。ではなんなのかこのもしかしては。何を勘ぐられているのか。 とにかくそういうわけで僕はブルックリンに帰ってきた。そこで営業中はやめることにした。閉めてから終えよう、そう思って閉じた。今は23時になったところで、あそうだ、やらないといけなかったこと思い出した。
##8月21日 閉店後にビールを開け、ソファに腰掛け、『10:04』。あれ? まだ終わらないんだっけか? もう少しあるんだっけか? と、ページをめくるたびに左ページに意識がいくだろう。つまり大きな余白があるのではないか、終わりを告げるのではないか、と。しかしその余白はなかなか現れず、ロベルトの自費出版の本を読むあたりでその余白のことも意識から離れ、ただただ味わおうという感じになるだろう。ビールは飲み終えられ、次の煙草に火がつけられるだろう。そして ——いずれそうなるとわかっていたように—— 終わりのときがやってくるだろう。「ヴァアア!面白かったあ!」と言って本を置くだろう。理解するのは難しい、それは僕にも分かる/僕はあなたたちとともにある、そして事の次第を知っている。
朝、『10:04』、マスマーケット版、届く。昼に仕事をしながら、今日はいくらか倦怠した気分がある。たぶん今週は明日の夜6時からの休みしかないことが影響している気がする。つまり休日らしい休日がないことで、こんなことで僕の人生はいいのだろうかと、そういういつものつまらない考え事に気を取られて倦怠のようなものに見舞われたのだろう。店休日を作ればいいだけの話だ。そうしなかったのは自分の選択だ。店を休んでまでしたいこともそうない、だから開いている、それで働いている。でもこれで本当にいいのかというと、よくわからない。とにかく「えいや」と人をもう少し雇うことだろうか。
手がすくと『10:04』を開いて、見つけたかったのは著名な女性作家とのすばらしい場面で出てくる「とにかく全部、とにかく全部」で、それはわりとすぐに見つかった。「Do it all, do it all.」だった。とにかく全部やってみて。 Just do it all. 全部って? Do what? とにかく全部。Do it all. とにかく全部、とにかく全部。Do it all, do it all.
どぅ〜、いっと、お〜る。それから先も、左手に英語、右手に日本語、という極めて心躍るポジション取りをしていくつかの箇所を読んでいた。それはとても楽しかったので引き続き遊びたい。 ところで昨日、夕方、来られた方が英語のなにかを読んでいて僕はそれが目に入って「英語のなにか」と思った。『10:04』をポチったのはその前だろうか、後だろうか。後の気がする。気づくのが今日になったが、お客さんが英語の何かを読んでいるのに影響を受けた、実に簡単に影響を受けた、そういうことだった。ところでその方は高校の同級生で僕はうっすらと覚えているような気がする方だった、同じクラスになったことはない、言われてみたら見覚えがあるような気がするような感じだったのでそういうふうに伝えた、岡山で店をやっているということを誰かの投稿で見かけて知っていたのだが先日雑誌で見かけて今は東京でやっているのを知った、現在は博士課程の5年目でスコットランドのなにかを研究しているとの由。
一日わりと忙しい日になったので快哉を大声で叫んで、落ち着いてから『10:04』をペラペラしていた。すると、先日「あれ、語り手はブルックリン住まいだったのでは。セントラル・パークを歩いて通って帰宅ってどういうことだ?」となった箇所にぶつかり、見るとそこには「I walked home through the park.」とあり、だからセントラル・パークとは特には書いていない。たぶんこれはプロスペクト・パークで、そのあとに「飛行機の経路になっていることもあって市は雁を捕獲し安楽死させている、ウィキペディアで読んだ」と続くけれど、「prospect park geese」で検索したら「殺している!」みたいな記事がいろいろと出てきたこと、というかまずウィキペディアを見ればよかったけれどプロスペクト・パークのウィキペディアを読むとエアセーフティのため400匹のカナダの雁をガスで死なせた、というようなことが書いてあって、たぶんだからこれはプロスペクト・パークのことだろう。
##8月22日 ウィキペディアで読んだ、のは雁はつがいになると生涯一緒にいる、みたいなセンテンスに掛かっているものだった。飛行経路になっていて安楽死させている、というセンテンスはいったんピリオドで閉じられている。だから? わからない。「which」ってなんなのかわからない。
ところでその次のパラグラフで「I texted Alena, then regretted it.」とあり、ほ〜、テキストメッセージを送るという動詞は「text」なのか、「to」とか要らないんだな、というのを知れて喜びもひとしおだった。『ラブソングができるまで』を見たのがいつだったかはまったく忘れたが、そこで「I googled you.」というセリフがあって、それが聞こえたときは「わ〜、そうなのか!」とすごい喜んだ、そのときの喜びをこういうあれは思い出させる。
先々週くらいに最近の若い世代はスマホで写真を撮ることを「インスタ」と言う、というあれを見かけ、なるほどね〜、なんか聞き覚えある気がする、耳にしたときに「え、インスタしといて? どういうことだろう、あとでインスタ上で共有するとかなのかな」みたいに思った記憶がおぼろげながらある。そういうことだったのだろう。そのまとめ記事で「写真を撮ることをインスタというのはおかしい。なのでこれからも自分は写メと言う」みたいに書いている人がいて、「いやいやいや! 写メだってまったくもって!」と思ったのを思い出した。ほとんど勇気のある発言にすら見えた。それを思い出した。
18時だとばかり思っていたひきちゃんとの交代時間は16時で、2時間得した、事務連絡等をおこなうと店を出た。新宿方向に自転車を走らせるのは久しぶりのことだったということが甲州街道と山手通りのぶつかる交差点で信号待ちをしているときにわかった。久しぶりの甲州街道は信号の動きまで変わっているような気がして左折信号なんてこれまであっただろうか。なかったと思う。
新宿はルミネとニュウマンのあいだのつまり駅前のふくらむ道を上がって下がって向こう側に越えるのか越えないのかで行く感覚が異なるところがあり、今日は越えない予定だったため越えないで全部済むようにブックファーストに行った。本を買ってポール・バセットに行って読もうという気でいた。特に目当ての本がない状態で文芸書コーナーをぐるぐるとずっと見ていたのだけれどもなにを読んだらいいのかまた、わからないモードに入っているのかもしれない。『10:04』の次に読まれるべきものがわからない。思いきりストーリーに起伏があるような、起承転結が明確にあるような、次に、次に、となるような小説がいいのかもしれない、ではそれは何だろうか、等々思いながら、町田康? 『トリストラム・シャンディ』? ポール・オースター? どれもなにか見当違いのような気がしたし、それらがとても起承転結があるものかどうかもよくわからなかったが、あるいはリチャード・パワーズ? とにかくあれか、これか、思いながらぐるぐると本棚を見続けていた。だんだん憂鬱になっていった。皆目見当がつかないままだった。その結果、これまで何度か読みたいと思ったことがあり、かつ現代のアメリカの小説でベン・ラーナーの世界と地続きにありそうな気もしてミランダ・ジュライの本を買うことにした。黄色い表紙も魅力的だった。ジュライの二作目の動物が表紙になっている本、いずれも新潮社のクレスト・ブックスから出ているものだが、これは前に読んで、とてもよかった記憶があった。買ったのは蔦屋書店だった、買ってすぐに上のAnjinで開いた、営業後の夜中の時間、そういう時期のそういう記憶があった。
一時間以上悩み続けていた。疲れ、それから夜の待ち合わせの時間が遅くなることがメッセージで知らされた。僕は予定よりも早まり、予定は予定よりも遅くなった。想定していたよりも時間がこじ開けられたようにぐっと拡げられた。そうするつもりだったとおりポール・バセットに行った。 いつ行ってもにぎやかだったが今日はなにかの集団の集まりがあったようでスーツ姿の人たちが数十人かたまっている区画があった。ポール・バセットはピザ屋かなにかと同じ場所になっていて、だから客席にはコーヒーを飲みにきた人も食事をとりにきた人もいる。コーヒーを飲みに来た人の座れるところは限られているようで、レジの人にこちらか、あちらか、と指定され、あちらのほうにつくことにしてカフェラテとクッキーを頼んだ。
ポール・バセットはちゃんとおいしいカフェラテが飲めて、かつゆっくり過ごせるような席が用意されている感じが実は貴重な場所だと僕は思っていて僕がこの日座った奥まったところにある一人がけのソファは沈み込み具合や肘掛けの感じが好きだった。ミランダ・ジュライをさっそく読むことにして一編読んだ。
独特の毒と悲しさと優しさみたいなものがあって、前に読んだやつもそういうえばこういう感覚だったと思い出し、やっぱり好きだった。それで昼間に現在加入している生命保険の契約内容確認書類が届いたことを思い出し、それをリュックから出した。今は80歳満了の積立型の定期保険に入っており保険金額は約500万円、保険料は5,000円だった。8年前くらいに加入したものらしく、現在の解約返戻金は支払った保険料とほぼ同じというところだった。これは保険料の一部が自分で選んだファンドで運用される変額タイプの商品で、先日投資信託を始めたというか申込書類を送ったこともあってそういう機運が高まっているらしく、今日その契約内容確認書類を受け取って開いたときに「これはやっぱり切り分けた方がいいのではないか、それにこんなに保障はつけなくていいのではないか」と思ったのだった。つまり掛け捨ての死亡保障で、かつ保険金額も葬式代だけ出れば金銭的にはそれで誰にも迷惑は掛けないで済むはずなので300万円とかで、そういう内容にして、それで保険料を抑えて、浮いた分を運用に回すでもなんでもいいけれど、そうしたほうがいいのではないか、と思った。それでスマホで調べてみたがいまいちわかりづらい。一番最初に見かけたランキングサイトのようなところでも保険期間や保険金額等バラバラでの状態で商品をランク付けして出してくるようなところがあり、これでは比較になっていない。それに最低保険料であるとかの内規も会社ごとに違いそうだし、そういう細かいことがweb上で全部反映されている気も、スムースに比較検討できる気もしない。
それでグーグルマップで検索すると隣のビルに保険代理店があるようで、そこに行こうかなと思い始めた。なんせ時間を持て余していた。次の一編を読み始めていた。環境なのか、僕のモードなのか、読書に没入するような状態ではまるでなくなっていた。なくなるもなにも、この日は最初からそうだった。本屋にいる時点でたぶんそうなっていた。
しばらくして諦めると店を出て、隣のビルに移動した。地下街のようなものがいくらかあり、主に飲食店が入っていた。そこを通って途中で警備員の方に場所を教えていただいて進んでいくと代理店というか保険ショップがあり、そこに入った。予約をしていなかったからか最初はなんだろうという顔をされた気がしたが受け付けてもらえた。それで条件等を伝えて試算していただくとオリックス生命のファインセーブという商品がもっとも安そうだった。安そうだったし、保険料も保険金額も、最低ラインが限りなく小さく、他社の場合は保険金額500万円以上、であるとか、保険料2,000円以上、であるとか、そういう条件のところが多かったが、この商品は、最低保険金額は確認しなかったが保険料に関しては1,000円を切ってもクレジットカード払いであれば大丈夫のようで、これは非常に大きなアドバンテージだった、というか、それ以外の選択肢はないように思われた。保険料に関しては年払いにすればおそらくどこでもいけただろうが、保険金額の下限が他社では話にならなかった。他の会社は500万円からだった。要らない。見比べたのは3社だけで、もしかしたら他にも同じような、あるいはもっと安いところがあるかもしれないし、販売手数料がオリックス生命が、あるいはこの商品が高い、そういう可能性はいくらでもあるが、いずれにしてもこれよりも抜群に安くなる、ということは起きないだろう。
そういうわけでファインセーブの90歳満了保険金額300万円、なんとか特約という、ガンになったらそれ以降の保険料払込が免除されるという特約が100円ちょっとで付き、それで1,600円ほどだった。まあこれでしょう、と思ったため来週申し込みをすることにして予約をした。なぜその場で申し込みを済ませてしまわなかったのか、夜になってから後悔した。
ところで保険期間は何歳までであるべきか。多くの人は終身保険に入るという。でも終身保険は掛け捨てタイプのものはなく、解約返戻金が発生するタイプしかない、ということだった。ということは保険料はずっと高くなるわけで、それで90歳の定期にしたわけだった。90歳を越えたらそのときはそのときだし何かはどうにかはなるのだろう。しかしそれにしても、解約返戻金がたまりますよという終身保険に入った人はいったいいつ解約をするのだろうか。跡を濁さないための保障なんだから基本的にはずっと持っているものなのではないか。
それから、順当に生きていられれば保険金が誰かに支払われることになるのは50年後とかになるわけだけど、それまでには物価は当然まるで変わっているはずで、ちょうど今50年前の時間が流れている『富士日記』で見るいろいろの値段と2017年の現在の値段がまったく違っているように50年後には変わっているはずで、今の基準で保険金額を考えるというのももしかしたら無理のあることだったりするのかもしれない、保障額が物価に連動するような商品こそが必要なのではないか等思い、やはりつまり、お金は運用していかないといけないと、焼いた刃も焼かれていない刃もまったく付いていない無防備と無知を維持したまま、資産運用のその正当性、いや必要性に対する確信を一段と強めたような気がした。笑え。
まず笑った。
地上に出ると外はすっかり暗くなっていてべたっとした紺色の空を背景に煌々と光るビルが何本も何本もあった。それが景色を構成していた。声が聞こえてきた。シュプレヒコールがどこか近くからあがっていて、自転車を探しながら声の方向に歩いていくと、今までいたビルの正面入口前で人々が声をあげていた。建設会社の長時間労働や過労死を非難する声だった。最初僕はその前を通るとき、笑いがこみ上げてきてニヤニヤとしていた。大きな声を張り上げる人たちを、なんだか場違いなおかしなものとして僕は感じていたらしかった。その声が遠くなり、自転車が見当たらず、ぐるっと回ってふたたび声は近づき、自転車は見当たらず、また前を通った。この人たちの後ろ側に停まっていたりはしないだろうかと、僕の視線は彼らを通り越してその後ろにずっと向けられていた。じっと見ながら、彼らの前を歩いた。涙声で拡声器を通して何かを話している人があった。それからまたシュプレヒコールがあがった。いつのまにか笑える気持ちはしぼんでいた。なにかのアクチュアリティが、ここにいる、ここで抗議行動をすることを選んだ人たちにはあるのだろう、と思うと笑えないものになった。何が果たされたとき、この行動が報われるのか、それは僕にはわからなかった。
二周した。自転車は引き続き見当たらず、僕は今度は自分のために笑った。月々の保険料を3,000円安くするために、まさか自転車を失ったのか? そう思ったらバカバカしくなって笑いがこみあげてきた。蒸し暑く、声が遠くに近くに聞こえ、尿意を催し、焦りながら、僕は歩いた。まさかと思いながら横断歩道を渡ってみる。すると自転車があった。どうやらポール・バセットに行くとき以来動かしていなかったらしかった。時間を大いに持て余していた僕は保険屋で時間を潰し、自転車探しで時間を潰した、するとちょうどいい時間になった。声はここまでは届かなかった。
##8月23日 いったん上がったプールにもう一度入ろうとするかのようだ。僕はたくさん泳いで、とても疲れた。プールサイドに上がってバスタオルで体を拭いて、椅子に寝そべってビールを飲みながら読書に興じていた。強烈に冷たい、人を疲労させる、しかしいくらかの何かしらの喜びを与えてくれもする、それら全部をすでに知っているそのプールに、また入らないといけない。そういうことだった。図らずも作られたシンメトリーの枠組みの存在に僕は気がつき、つまり、そろそろプールに戻ろうと思った。その準備運動をし始めた。これを準備運動と呼べるならば、だが。
人々がくだを巻いているような店で酒を飲もう、そしてくだを巻こうと、そういうことで入った店は大盛況だった。先に着いた僕は右も左も4,5人のグループ、その隙間のようなところに座り、ビールを頼んで本を読んで待った。店を埋める人々の声はおそろしいほど巨大化しており、この状況下でくだを巻こうとしたら店を出たときにはへとへとに疲れているだろう、そういう姿が容易に想像できた。なんでだか『富士日記』がこのとき、いちいちぐっとくるようだった。「車の中で、ながい間、陽に照らされたので眠い。」ただこれだけでとても何かをこちらに伝えてくるような気になった。それから
関井さんの話
○関井さんの家の下を流れる川では、あゆ、はやが釣れる。夜九時には眠くなるので寝てしまうと、朝三時には眼がさめてしまう。がたがたするとうるさがられるので、表へ出てからズボンを穿いて、下の川に釣りに行く。奥さんは高血圧なので冷たい水に手を入れられないから、関井さんが水仕事をする。明日は池袋の先まで墓詣りに行く。これは奥さんの実家の方の墓だということである。以上。
武田百合子『富士日記(中)』(p.264,265)
なんでだかとてもよい心地になった。
それが昨夜のことで今日は体が調子が悪いというかただ眠い。腕がだるい。昨日がうまく眠れず、倒れるようにして眠ったら案の定というか予期していたとおりに早々と起きて、それから外が白み始めるまでまるで眠気がやってこなかった。釣りには行かなかった。体がバカみたいに熱くなって、風邪を引くことになるのだろうか、朝起きてたいへん発熱していた場合、店を休む場合、スマホからでもwebのおやすみページを編集することができただろうか、そういうことを考えながら、それからここ数年のあいだに引いたいくつかの風邪のことを思い出しながら、どこかのタイミングで眠った。だから睡眠時間がたぶん全然足りないというシンプルな理由により、体が疲れているそれが今日だった。リブートしなければならない。そう思ってパソコンを一度シャットダウンした。
##8月24日 朝起きるたびに気が済むまで眠る日を作りたいと思うのだけれども考えてみたら睡眠時間はそれなりに確保されているし立ち上がれば眠気も特にはないから、起きさえすればそれも忘れる。
起きて最初に飛び込んできたのはメンドーサの退団というニュースだった。きっとそろそろだろうかとは思っていたが、途中退団になるとは思わなかった。日ハムは助っ人投手にはストレートが強くてボールが動いてゴロ率が高そうな、そういう選手をもっぱら取る。ウルフであったり。たぶんバースとかマーティンも。メンドーサもそうで。ゴロ率が実際に高いかどうかはよく知らないが、高そう。それにしてもリビルドする日ハム。谷元を中日にトレードで出したが、いろいろと意見があったが、僕も驚いたし残念に思ったが、来年FAとなった谷元を獲得しにいく、というようなことがもし起きたら、なんだかよりメジャーみたいでいいなと思うのだが、そんなことはしてはくれないだろうか。谷元は中日で投げているのだろうか。大谷の去就はどうなるのだろうか。今月月間MVPの可能性があるという。これだけ「こんな半端な起用法はまずいのでは」と言われていた選手が月間MVPを取ったら、それはそれですごく面白い。でもどちらにせよとても中途半端な年だ。この年を最後に日本を去るというのも、でもそれはそれでなんだかかっこいいとも思う。
本を開くこともなく、なにかカタカタと仕事をしていたところ一日が終わった。わりに忙しい日でうれしかった。今月は平日が週末の凹みをいくぶんかカバーしてくれている気がする。
寝る前、一日分だけ『富士日記』を読む。
とても久しぶりに娘が日記を書いていて、その文章がとてもよかった。
☆夏休みに来てから、四か月位来なかった。なんとなく、なつかしい。夏と冬とでは、空の色も山の形も、なんとなく違う。特に雪が降ったので、あたりが白く、こういう景色を悲しい景色だと思った。ボコのお墓にも雪がつもっていて、雪が積もっている方がボコのお墓らしくてうれしかった。ボコのお墓の上に小さい獣の足あとがついていた。へんな気持がした。(...)
私は宿題がある。まわりが静かすぎるみたい。父のいびきが聞える。今日は何時までやろうかなと考えていたら、同じ机にこの日記がおいてあった。赤いかたい表紙で金色の模様があるし「日記」と金色の字で表紙に書いてあるし、河出書房とその下に書いてあるし、だから「日記」という題の本かと思ったら、中はノートになっていて、山でいつもつけている日記帳だった。勉強にあきていたので、私も書きだした。前の方の母の日記をみる。なんとなく面白い。絵が書いてある。地図や雲や月や花や草が書いてある。図かんの絵のようにくわしくて、矢印でせつめいがしてある。ぜんたいにとてもおかあさんらしい。 ——花記す——
武田百合子『富士日記(中)』(p.293,294)
##8月25日 8月ももう本当に終わろうとしている。最後に夏を取り返そうとするようにここのところ暑い。小学生はもう夏休みが終わっているという噂を聞いた。今週の頭くらいから新学期が始まっていると。そうなるとやっと真夏らしくなったが遅すぎて、今年の小学生の夏休みは雨ばかりで退屈した。
極端に暇。フヅクエはこの店を理解しようとする気構えがなかったりそもそもこういう場所で過ごしたいというニーズがない人にとっては面倒でよくわからない店で、こういう面倒でよくわからないと感じる人が発生しうる店をやり続けるというのも疲れるな、普通の店(普通の店!)だったらこんなこともないのにな、それはそれで大変なことなんていくらでもあるが、と思うことがあり、というかそういうお客さんというか、「あーこの人大丈夫かななんも読んでないけどあとで文句出ないかな」みたいな懸念を覚えさせるお客さんがあり、懸念していたところ、それを逆転するような気持ちのいい展開になってすごく清々しかった。まったく理解するつもりのないところから深く理解するところへの逆転というか。うれしい誤算だった。幸せな誤算。
I know it's hard to understand / I am with you, and I know how it is.
問題はあなたが僕がいう「you」の範疇に入るかどうかだけで、あるいは「you」がどれだけいてくれるのかだけで、だから、あなたが「you」であるならば僕はあなたたちとともにあるし事の次第を知っているわけだった。それでだからwe would work out our views as we coconstructed the literal view before us、パラレルな視線によって、ということだった、つまり『10:04』をペラペラと読んでいる、そうやって過ごしている。
今日から仕切り直し、と思って働いていた。今日から仕切り直しだ。なんでか今、「逆転」と打ちながらプールの飛び込み台からの跳躍および着水の様子が想像されたが、飛び込み台には上がらないがもう一度泳ぎだす。それを課す。とにかく眠い。急激に強い眠気がやってきた。困った。
夜の、8時を過ぎてからやっと忙しい時間が訪れてくれたが、日中が今日はどうしようもなく暇だったためそれで挽回しきれたわけではなかった。惜しかった。その一瞬の盛況だけでそうなったわけではないにせよ体が疲れた。肩が重い。閉店後はエアコンのフィルターの掃除をしようかと思っていたが今日はパス。
一方で明朝しようと思っていたレモンシロップの作成は済ませた。勤勉。できるだけなんでも夜にやってしまいたい。