#7月15日
勤勉で、できるかぎり善良で、気遣いのある人たちは踊ってくれ。
昨日から塞いだような心地になっていてそれはそんなには変わらないで今日からは三連休らしい。ただ暑い。オールスターゲームで野球がないというか野球はオールスターゲームなのでペナントレースの試合はないのでつまらない。それでも試合が始まればなんとなくスコアを見に行ってしまう。
一日、激烈に暇な土曜日だった。達成率は50%。本当にひどかった。ここまで暇だと何かをやる気にもなれずダラダラと本を読んでいた。体を休めよう、みたいなモードになっていった。休暇。
ウルフは今『ザ・パージターズ』という仮タイトルの小説を書いており、それは最終的には『歳月』となる、『歳月』は僕は読んだ、とても退屈しながら読んだ記憶というか、本文に組み込まれた訳注がものすごく邪魔で読みづらかったというそういう記憶しかない。それでずっと「ザ・パージターズ」というふうに表記されていてパージターとはなんだろう、というので調べたところ「persist」というのが「固執する・持続する」のような意味合いで、それはいい、と思ったが、それでは「パージスターズ」で、でももしかしたら「persisters」になると2つめのsは発音から消えるような都合のいい展開があったりして、と思って調べているのだがいまいち出てこない。ウィキペディアの「The Years」の項目にタイトル案の変遷なんかが書かれていたりしないかとも見に行ったがそれらしきものがない。なので今のところよくわからない。これは「ザ・パージターズ」から「ここで今」に変わり、それから「あけぼの」になった、今は「あけぼの」のままだった。ウルフは書いている。僕は帰りがけに『Number』を買おうと思ってコンビニに寄ったら置いておらず、カレー特集の『POPEYE』を買った。とても久しぶりに買った。
##7月16日
一喜一憂だとばかり思っていたがどうやら一安一憂のほうがずっと正しかった。うれしい、ではなくほっとする、だった。今日はほっとした。100%。つまり昨日の倍だった。
それにしてもこのほっとする感じというのは正しいというか、なんだろう、正しいのだろうか。正しい。正しさではないけれども、微視的というか近視眼的すぎるというか。微視的とはどういう意味だったろうか。たぶん間違っているだろう。だから近視眼的と言い直したのだからそれでいいではないか。ちゃんと労働になったので疲れて頭もぼーっとしたため頭を使う仕事はしないことにしてここ一週間くらいの伝票の打ち込み作業をおこなっていた。Excelちゃん。疲れたときはそういうのが正しい。正しさ。
それにしてもこれでやっとバジェット通りか、というところで、今日はけっこう忙しかった。でも同じ来客者数でも体感として忙しいときとそうではないときがあるから妙なものなのだけど、だから、そうか、これだけひいひいやってやっとバジェットに乗ってそれでほっとできる、という、その状態を危うく思っているというか、バジェットの設定がタイトすぎるのではないか、という話だろうか。でもこの数字は目標というよりはここ半年であるとかの実績値からだいたいじゃあというふうに設定している数字なので、ここ半年くらいの週末はこういうことだったということだ。だからといって、これでなかったらほっとできない、というのはなにか危ないような気がしてしまう。
いずれにしても7月は完全に数字が落ちた感じがする。そのうえパソコン使用も大幅に制限され、おそらくそれにより一日に一人二人は減る。そうするとずいぶんダメな月になりそうで、怖い? よくわからない。怖いとかではないというか何を恐れればいいのかはよくわからない。なんだろうか。少なくとも愉快では別に全然ない、というところだろうか。
昨日の夜に新潮社のwebで『ルビンの壺が割れた』の最初のページを読んだ、それを今夜もまた読み進めるような気がするが、そうしない気もする。
これは「《担当編集者からお願い》「すごい小説」刊行します。キャッチコピーを代わりに書いてください!」というキャンペーンで全文を公開しているというそういう作品で、とにかくすごいんだ、という話だった、とにかくすごいと言われたら「どれどれ」とまんまとなって、それで読もうとしてみたわけだった。怖い話になるのだろうか、だとしたらこれ以上は読み進められない、少し不穏な気配はしている。怖かったらどうしようか、と思うとすでに怖い。
けっきょく2ページ目を読んだ(全部で7ページ)。まだ怖くない。しかしあと5ページで終わるとか、1ページ10分も掛からないから一時間くらいで読める本ということなのだろうか、このボリュームで出るのだろうか。
あとはウルフを読んで過ごした。『歳月』をがんばっている。まだ「歳月」という言葉は出てきていない。
ウルフの執筆計画みたいなものを読んでいると、すごいなと思いましたというか、一日10ページだとして、そうするとあと3ヶ月、ということは4月21日だとして、というような、けっこうなスパンで計画を立てていて、気の向くままという感じのなさがすごいなと思う。書きたいときは一気に書いていきたくなったり、しないのだろうか、と思うが、そういうものでもないのだろうか。ともあれ、忍耐強い仕事っぷりだと感じ入っていた。それにしてもあと6年くらいでウルフは死ぬ。ここらで読むのをやめてもいいんじゃないかとふと思う。僕は吝嗇なので読み始めた本は最後まで通したくなるのだけど、本当は最後まで読まないといけない理由なんてないはずで、これから先「死ぬ死ぬ」とばかり意識するようになるのだったら、読まないほうがいいのではないかという気がする。でも、読むだろう。「読了」とはいったいなんなのだろうか。
一緒に買った二冊の本は一度も開かれず、一冊は今村夏子だというのはすぐに思い出せるのだがもう一冊がカルペンティエルというのは少ししないと思い出せない。
今朝「テジュ・コール」でツイッターを検索していたらフアン・ガブリエル・バスケスの『密告者』が今月出るという。『密告者』は、だったか、バスケスのどれかは、なんでだかとても楽しみなというか、寺尾隆吉の本で評価されていたのだったか、刊行を楽しみにしていたというか出たら楽しみになるのだろうなというか、それだけ言うなら読んでみたい、みたいな一冊がこの『密告者』だったか。とにかくバスケスもテジュ・コールも楽しみで、ほら、出てきた、やっぱりこれだ、「早くウルフをやっつけたい」。だってウルフは死ぬんだぞ? いいのか?
##7月17日
22時前になってやっと座ることができた、さすがにめっぽう疲れた。22時の時点で達成率は100%。ほっとする。そして今日も思う。ここまでやって100か。ハードル高い。今日は体感的にもなんだかむちゃくちゃに大変な感じだった。とっても疲れたので昨日買った『Number』を読むことにした。「奪三振主義2017」
……はあ……野球の文章を読むのってなんでこんなに楽しいんだろう……となった。則本、ダルビッシュ、千賀の記事を読んだ。もうとっても楽しい。26年前にも「奪三振主義」というタイトルで特集があったらしくてそのときが野茂のルーキーイヤーで野茂はその年の6月のインタビューで、だからデビューから2ヶ月のときのインタビューで「だから、小さいのを並べてこられてバントとかやられると、「なんや、こいつら、プロのくせにレベルの低いことやりやがって」と。(...)ちゃんと勝負してくれよ、と思います」と話していて、これは本当にすごいなと思った。今だったら一瞬で炎上しそうだからインターネットなんてなかった方がよかったのかもしれない。
##7月18日
雨が大量に降りすぎて一粒ずつはゆっくり落ちているように見える。
『ルビンの壺が割れた』を読みきったのだけど本当にどうでもいい作品だった。「社内でも驚嘆の声続々」とあって社内の声が続々と書かれていて「小説にKO(ノックアウト)されるとは、まさにこの作品のことである。オリエント急行(殺人事件)クラスの衝撃!! 少なくとも年に100冊は小説を読みますが、ここ5年で最も驚かされた作品。」などとあるけれど、驚嘆の声をこんなふうに安売りしてはいけないと思うというか、めったに使える手のキャンペーンではないのだろうからこんなふうに使うべきではないのではないかと思ってしまう。新潮社に対して不信感を持ちかねない。持たないが。テジュ・コールが楽しみ。
まったくの暇な日だった。最近確実に数字が落ちている。そうわかるとあまりExcelに触れなくなる。でも今日は気分のいいことの多い日だった気がするので気分がよかった。
##7月19日
休日。なんだかタイトな日だった。いつもより早起きをして皮膚科に行ったところずいぶん人がいて「どのくらい待つイメージですか」と受付の方にうかがったところ「一時間くらいは」とのことだったので諦めてもう一つの皮膚科に行った。これまでは行っていたところで、いつ行っても完全に空いていて五分待ったことがないような病院で、先生はまったくやる気も覇気もない人だった、こんにちはと言っても返してこない。肌の状態を見せた記憶がない。口頭でやり取りして処方してもらう。医者というより処方者。それで行ったらやはり空いていてというか誰もいなかったのですぐに通されて、それでお薬手帳を出して「これで処方してください」と言ったところ「この処方がいいならこの病院に行けばいいのにねえ」と言った、「これはステロイドとヒルドイドローション混ぜてるの? 私はこれでは出せないわ」と言った。「これで出してもらったら塗りやすくてよかったのでこれがいいです」と伝えるも、「それならこっちの病院行ったらいいのにねえ。私は混ぜるのは嫌いなの。前と同じ薬出しますね」となって、諦めた。
医者というのはそれぞれ処方の美学みたいなものがあったりはするのだろうとは思いつつ、やる気のある人だったら別のことを思うだろうけれども、やる気はないのにエゴはある、みたいな態度にとてもうんざりした。
そのあと店に行き取材を受けた。最近久しぶりにわりと続けざまに取材があり、毎回僕の休みの日の11時に来てもらって受ける、ということになっている。
渋谷に出るためにバス停でバスを待っていると61だったか66だったかの系統のやつに乗りたかったのだが63や64ばかり来て4本くらい見送った。僕が降りたいのは東急百貨店前なので61か66なのだが、63か64で神南一丁目で降りても徒歩の距離は250メートルしか変わらなかったので早いそれらに乗るべきだったのかもしれなかった。降りたところから900メートル歩くか650メートル歩くかの違いでけっきょく15分くらい待って、立っているだけでまったく暑く、日夜店の中にいる身としてはたいへん新鮮だった。こんなに暑くなっていたのか、という。
それでバスから降りるといつも行くカフェに行って4時間くらいみっちり仕事をして、ルームスプレイを買おうとサボンに行こうと思ってマークシティの店舗に行くとルームスプレイがほとんど日本に入ってきていないということだった。サボンのリネンのルームスプレイは今のデイカのやつの前、オープンから900日以上活躍したもので、あちらの香りのほうが好きだったのでまたサボンにしようと思っていた。サボンは、「とても女の子っぽい」と人に言われた、女子女子していると。ちょっと笑っちゃうかもと。知らない分野におけるそういう位置関係のような話は面白い。でも「あえてサボンもいいかもしれません」ということだったのでサボンにすることにしたのだけどそういうことだった、ヒカリエの店舗だったらあるだろうか、とヒカリエに行くも、同じだった。そのフロアを少し歩くとニールズヤードがあって、ニールズヤードのハンドウォッシュは先で固まって出にくくなるという使いにくさが、少なくとも以前僕が買ったやつだとあった、そういうブランドで、でも今は香りの話をしている、と思って売り場に闖入するとルームスプレイが三種類売られていてスタッフの方にテスターをあれさせてくださいと嘆願したところさせてくれた、嗅いだ嗅いだ嗅いだ、その結果バランシングというやつを買うことにした。フランキンセンスという言葉を覚えた気でいたが忘れた。木の何かだ。
電車はそろそろ混み合い始めるそういう時間だったらしかった、急行を見送るつもりもなく見送るとすぐに各駅停車が来てそちらの方がずっとゆとりがあったそれに乗ったところ田園都市線だったため三軒茶屋に着いた。ムーンファクトリーコーヒーに行くと今村夏子の『星の子』を開いた。2時間弱、時間があった、この2時間弱で今村夏子を攻め落とそう、そういう作戦だった。だからそれをおこなった。するとちょうど2時間弱のところで読み終えられてとても面白かったため他のやつも読んでみることにした。なにが面白かったのだろうか、わからないが面白かったし読んでいる時間がなにか充実したものだったことは間違いなかった。それはよい時間だったし久しぶりにしっかり読書に時間を充てるということができてそれがまずとてもよかった。こういう時間は本当に必要すぎて頭おかしくなるくらい必要すぎる。フヅクエで本読んでる人見るとうらやましい気持ちが湧く、というのは言いすぎだが、書いてみたらたしかにうらやましい気持ちが湧いてきた。みなさんほんとそれいい時間。
##7月20日
二兎を追うというか願っているように思える。つまり充分な集客と充分な余裕の両方がほしいらしい、と思ってそれは難しいわ、と思った。
あいまあいまに『Number』を読んでいたところ野球の記事はおそらくすべて読まれた。とっても楽しかった。イチローの連続無三振記録を下柳が終える話であるとか、あと清宮なんとか太郎君の話、なんだっけ、なに太郎だっけ、とか、大谷の話というか大谷起用についての栗山監督の話とかも面白かった。東浜巨が始祖のアジアボール、東浜はシンカーといっていて山崎はツーシームというそのボールの話とか、面白かった。東浜と山崎と九里亜蓮と薮田がかつて同室で、そこで伝授の儀が執り行われたとのことだった。とにかく『Number』、全部とっても面白かった。
いや、だから、皮算用をしていた、つまり、その余裕というのは今の僕には取れないのだった。つまり、だから、人を雇うこと、毎日13時間も働かないでいいようにすること。そのためにはなにが必要なのか、人を雇うこと、と同時に売上を伸ばすこと。今の売上のままではダメだった。というのがわかった。なんというか、ハードルがどんどん上がっていくような気がする。こんなはずじゃなかった。と思った。
夜はウルフ。『歳月』は大成功した。出す前のウルフは完全に自信を喪失していた。貯金が700ポンドだった、出版に300ポンドぐらいが掛かるらしかった、捨てるようなものだ、というような態度だった。「でも、君の見方は間違っているかもしれないよ」と夫のレナードは言った。その通りになった。
そのあと『三ギニー』を出しておおむね高い評価を得た。今は『幕間』を書き始めている。あと三年で死ぬのか。
ウルフの、上がったり下がったりの日記を読んでいると勇気づけられるみたいなところがどこかあるように思うというか、読んでいるときの不思議と心地いい感じというのはなんだろうか。なにかに四苦八苦している人というか継続的になにかに取り組んでいるような人はみなこれを楽しくというかよいものとして読むのではないかと思ったがどうだろうか。けっきょく死ぬまで、これが続いたのか、と今思ったらぞっとしたし、素晴らしいことでもあった。興奮し、計画し、日々書き、落ち込み、安堵し、出版し、不安がり、安堵し、傷つき、喜び、関心を失い、思いつき、興奮し、を繰り返す歳月だった。
##7月21日
金曜。今日も暇だ。けっこう今日なんかは完膚なきまでに暇な感じがある。4週連続?ちょっと本当によくないというかあぶないというか、困る。
とてもむなしい。
今村夏子の『星の子』のことをちょろちょろ思い出しながら働いたり働かなかったりしていた。新興宗教に親がどっぷりハマったその娘の中学生が主人公というか語り手の小説で、両親は公園で緑色の揃いのジャージをきて、ベンチに座って頭にタオルをのっけて、そのタオルにとてもいい水を掛けていい心地になる、それを相互にする、そういう睦み合いをしているのを同級生や先生と一緒のときに見かけた。同級生のなべちゃんと、新村君だっけ、がよかった。なべちゃんはその水を「ひとくちちょうだい」ともらっては「まずい」と言うのを繰り返す、新村君は、なんと言ったんだか、とてもいい言葉を言った。家族は、父は仕事を辞め、教団に斡旋された何かで働くとかをしていた、家は引っ越すたびに狭くなっていった、家族は、彼らは彼らなりに幸せだった。その幸せは誰にも否定できないものだったし否定する必要なんかなかった。
暇。本当に暇。営業中からウルフを読むことにした。戦争が迫っている模様。この世の箍が外れてしまった。1940年。あと1年。
ウルフに疲れてから今週の数日分の伝票をExcelに入力していた。営業が終わり一週間分の数字を見た。今週は「ひどい・OK・OK・暇・ギリOK・最高・ひどい」で、ひどいは金土だったから、金土はバジェットが大きく設定されているから影響としては大きくなる。それもあって体感としてはひどい一週間だった。しかし均してみると93%の達成率ということだった。本当だろうか、という感覚だった。ただ、93%でよいかといえば全然よくはなくて、昨日の皮算用から考えるにこういう数字では先々は立ち行かなくなる、という数字だった。だからやっぱりダメだ、けれど思ったよりは惨憺たるものではない、と思ったのち、そういえば先週の金曜日からパソコン使用が制限されたことを思い出した。ヘビーにパソコンを使う方、つまり今回の変更で店の利用ができなくなった方、言い換えればきっと「それじゃあ行く理由がまったくない」という方、というのは一日に一人二人はいた、というところで、その想定される減少分を加味するなら、93%というのはきれいに妥当なものだった、妥当というか、100%みたいなものだ、ということに気がついた。わからないが。どれだけ、それがちゃんと認識され、あるいは入り口のわきの説明書きがちゃんと読まれ入店が抑止されているのか、さっぱりわからない。ただ、この一週間で一人として「あ、パソコンはこういう決め事にしてるんですよ。どうします、これ厳しそうだったらお帰りになった方がいいと思うんですけど」「あ、じゃあ帰ります」というやり取りをしていない、あ、一人あった、でも「大丈夫な範囲で使う」という判断をされた、のち読書に転じられた、総じてほとんどパソコンが開かれていない、これは自然状態では考えにくいことで、なんせ一日一人二人はそういう方はいたわけだから、だから、これは思いのほかにwebを通して認識されているか、あるいは入り口横の文言が読まれてそこで踵が返されているか、ということなのだろう。扉横の説明書きの表札みたいなやつを今回場所を変えていくらか階段寄りのより低いところに移した、これまでだったら上がりきったところだったので、読む人からしても上がりきって扉に手を掛けるくらいで何か書かれていることに気がつく、しかし扉をもう開こうとしている、みたいなところで、読んでいる人の姿というのも店の中から見えたわけだけど、今度は低くなり、上がりきる前に目に入るようにしている、だからその姿が見えないことになった、だから僕からしたらインビジブルな踵返し者というのがいくらも発生しているのかもしれない、だとしたら、それはその場所に変えて成功だった、読んで、帰る人を見て、喜びが湧くというものではいささかもなかったわけだから。もちろん、書かれていることが読まれたことによってミスマッチが未然に防げたということ、店の秩序のようなものが守られたということ、それはよいことだとは思うけれど、だからといって喜びがあるわけではない。読んでいる時点ではマッチのほうの人材かもしれない可能性が常にあったわけだから、常にお客さんになりうる人である可能性があったわけだから、でもそうではなかったということが突き付けられたわけだから。でもその「そうではなかった人」がインビジブルになってくれれば、そもそも可能性というものが目の前に現れていないので、精神衛生上これはいいのかもしれない。なにもかもがわからないが。
鬱屈した気持ち、それから昨日から腰が少し痛かったみたいなところもあり、久しぶりに大黒湯に足を運んだ。それは夕方くらいからそうしようと思っていた深夜の行動だった。だからもしかしたら鬱屈とは関係がなかった。気持ちがよかった。風呂を上がってから売店というか売っている発泡酒を買い、それを飲みながらふらふらと歩いていた。全部がくだらなかった。夜のこの町を謳歌する人たちがいくつもの店のなかにいて主役のような顔をして笑っていたし金曜の夜だったのでそれもよいことだった。僕には関係がなかった。
ウルフ。1940年8月。伝記が出版されたあと、日常的な空襲。『幕間』はまだ書かれつつある程度で、呼び名も「P・H」というもののままだ。『Between the Acts』が最終的なタイトルだが、まだそれは出てこない。これは「阿久津の間で」という意味だ。それにしてもあと一年だ。何月に死ぬのかは僕は知らないが、あと1年だ。死の気配は感じられない。『幕間』は間に合うのか。ねえV・W、あなたはあと一年で死ぬんだよ? わかってる? その本、本当に間に合うの?