読書日記(41)

2017.07.15
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#7月8日 夕方までいい調子だったが夕方でぴったり止まってしまってここから挽回するにはけっこうな勢いが必要で、難しい気がしていて、それで元気がなくなって、日ハムも負けっぱなしだし、踏んだり蹴ったり、と思って元気がなくて、昨日から週明けに施行しようと思っている「パソコンだいたい使えなくなります」の各種アナウンスのためのあれこれをやっていて今日もそれをやっていて、そういう日にパソコンご使用の方がずいぶん多い日で笑ったと同時にゾッともした。これが全部なくなる。大きい。怖い。怖さはある。でもしかたがない。
最近はいい日悪い日の波が大きいような気がしていて先週はお客さん数のバジェットに照らしてみると土日月火水木金の順で58%,100%,150%,40%,170%,150%,68%となった。一週間で均せば達成率は97%になった。売上や粗利益がどうなっているかはわからないがそう大差はないだろう。こうやって見てみるとまったく問題はないが、なんだか調子が狂うというか変なの、という感じがある。ここのところ金土がなんとなくダメなことが多いということだろうか、昨日今日もダメで、前の週もダメだった。それをなぜか平日で取り返しているようなことになっていて、続けばいいのだけど平日のこれまでの安定の暇っぷりを知り続けている身としては平日に委ねるようなマインドにはどうしてもなれないので、不安しかない。調子が悪くても不安しかないし、調子がよくなっても不安しかない、それが僕が店をやるということなのかもしれなかった。ウルフも、ウルフだって同じようなものだ、知らんが。とにかく暇になってやることもなくなったのでウルフを読むことにして日記はずっと読んでいられて楽しい。本を楽しみでもしなければ気が塞いでしまいそうだ。
私のノート・ブックはベッドのそばで開かれもせずに横たわっている。初めのうちも意図もせずに起こってきたたくさんの考えの群れのために、私はほとんど読むことができなかった。どうしてもその考えをすぐ書いてしまわなければならなかった。これはとてもゆかいなことだ。ちょっと空気にあたって、バスが通りすぎるのをみたり、川のそばにうろうろしたり、そういうことをしているとありがたいことに、きっと火花がまたとびちり始めるだろう。私は生と死との間にふしぎな工合に宙づりになっているのだ。ペーパー・ナイフはどこへ行った。バイロン卿〈の本のページ〉を切らなくてはならない。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(p.66)
ペーパー・ナイフはどこへ行った。がかっこよかった。それにしても暇だ。お客さんはどこへ行った。悲しい。つらい。
それにしてもウルフは人の評価とかを本当に気にしていて、あるいは自分が正しく理解されているかどうかみたいなことをとても気にしていて、苛立ったりしていて、なんだか時代を越えて海を越えて「そうだよねー」と思う。正しく理解されたい。といつも僕は思っている。誤解されたくない。といつも僕は思っている。ウルフが今生きていたら刊行直後は一日じゅうエゴサーチをしていそうな気がする。エゴサーチのページをブックマークしておいて、いや、ホームページに設定すらしているかもしれない、それで彼女は一日に何度となくリロードする。あの媒体この媒体あの批評家この友人それぞれの評価は事前に予測もしている。その予測が大きく間違うことはない。毀誉褒貶はどうしたってつきまとう。ここではこう言われているけれど、しかし実際にあちらではこう言われているのだ。だからいずれかなのだろう、天才か、気取り屋か。そんなふうに彼女は考えながら、一日に何度となくリロードする。
「自分が正しく理解されているかどうかみたいなことをとても気にしていて」と書いたが彼女はそんなことは気にしていただろうか。勝手に自分に引き寄せて都合よく受け取っているだけのような気がしてきた。それはそれで構わないが。誤解までも含めて読書だ。と、書いてそれはブーメランとして戻ってきた。誤解までも含めての店の体験では、ないのだろうか。いやそういうレベルの話じゃないんだ、とか思ったがそれはどういうレベルなんだろう。いや、とにかく、ぼくは、わからない。すべてを終わらせてしまいたい。そうしたら気持ちがいい。今日は75%。
寝る前に酒を飲みながらウルフを読んでいたら「幸福」という気持ちになった。ウルフは相変わらずあれこれに一喜一憂していて、その様子を見ていたらというか、ただ読んでいたら、なんでだかとても満たされた気持ちになって、同時に、「こんなに働いたらやっぱりダメだ。こういう時間をもっと取れるようにならないといけない。明日店行ったらまず皮算用だ。Excelだ」と思った。
1920年、ウルフはこう書いている。
私は神秘とかロマンスとか心理などが欲しかったのだろう。ところが今となっては何にもまして美しい散文が欲しい。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(p.60)
その2年後、42歳の彼女はこう言う。
私が二〇歳のとき、トービーがあんなにすすめて強要したのにもかかわらず、私はどうしても楽しみのためにシェイクスピアを読むことができなかった。ところが今、散歩しながら、今晩『キング・ジョン』の二幕を読むことを考えると明るくなるし、その次は『リチャード二世』を読むのが楽しみだ。今欲しいのは詩——長い詩だ。じっさい、〈トムソンの〉『ザ・シーズンズ』を読もうかと考えている。集中性とロマンスと、ことばがみなくっついて、融合して、輝いているのが欲しい。散文を読んで浪費する時間はもうない。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(p.92)
##7月9日 18時。この時間帯の室内の薄暗さはあまり好きではなくてはっきり暗くなった時間よりも暗く感じる。夕方までは快調。ここからどうなるかというところ。なんとなく2時間刻みで「どうかな」と思う感じがあり、14時、16時、18時、20時、でなにかを考えている気がする。16時までにこれだけだからいいかも、とか、18時からもう一山来ないか、とか、20時で挽回できないか、とか。
ウルフほどではないがエゴサーチをする僕はブックマークにツイッターやインスタのエゴサーチ的なページを置いているわけで一日に何度か悪口とか書かれていないかな、書かれていたら喧嘩だな、みたいなつもりで見に行くわけだけどインスタを見たら今日来られたカップルの方の女性の写真があり、なんだかその写真がよくてアカウントを見に行ったら男性が運営していてアップされているのはすべてその女性の写真で、めちゃくちゃよかった。なんだかものすごいいいものを見せてもらったという感覚になりギュッとつかまれた感じがあった。インターネットはすごい。
あんずのシロップがだんだんあんずの味と色が
めっちゃねむいwwwwww 19時。
1925年。『ダロウェイ夫人』が発売され、それから『一般読書人(コモン・リーダー)』も同時期に出、というあたりで『灯台へ』の名前が出始めて、とてもいい気持ちになった。なんだかすごいものを読んでいる気になっている。『灯台へ』はいちばん好きな小説のひとつで、と書いているうちに読みたい気持ちがむくむくと強まっていく。読みたい。読みたい。読む時間がほしい。ウルフの日記を読んでいると本当に楽しいというか豊かな心地になっていく。
『C・R』(今ではあまりにも褒められすぎている本だが)の最初の結実は「アトランティック・マンスリー」誌に書けという注文だ。こういうわけで私は批評へと押しやられている。これは危急のさいの大きな頼りだ——スタンダールやスウィフトについて見解を述べることによって大金をもうけるというこの能力。(でもこれを書いているうちに私は『燈台へ』を構成している——海の音が全篇を通じてきこえる。「小説」ということばの代りに、私の本のための新しい名前を発明しようという考えがある。新しい——。ヴァージニア・ウルフ著。でも何がいいだろう。哀歌エレジー?)
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(p.113)
今日は結局一喜&一憂&一喜で104%。先週と同じ感じがある。つまり金土がダメで日が大丈夫。金土がダメで不安を持って臨んで、ほっとする。同じことを繰り返している。土日は合計すると91%との由。
##7月10日 なんだかやたらにいろいろと仕込みをしていたらずいぶん疲れた。それによって一週間分溜まった疲れが一気に前に出た。トマトをオーブンで焼いてセミドライにしてオイルに漬ける、和え物を作る、なすのおかずを作る、玉ねぎをビネガー等でマリネにする、瓶を煮沸する、チーズケーキを焼く、氷を割る、出汁をとる、味噌汁をつくる、鶏胸肉をはちみつや塩でマリネする、鶏もも肉をヨーグルト等でマリネする。それからウルフを読む。
##7月11日 起床後すぐに家を出、スーパーでいくらか買い物をしてフヅクエに行きひきちゃんといくらか会話。開店時間を迎えたのち店を出、新大久保。いつも行くハラルフード屋さんでスパイスをわりと大量に購入。本当にここで買うのがコストパフォーマンス的に正しいのかどうか検討しようと考える。楽天市場で大津屋で買うのとどれだけ違うのか検討しようと考える。それもこれも新大久保まで行って帰る時間がコストなのではないかと考えたがゆえ。時間に対してどんどん自分の感覚が貧しくなっている気がする。
汗をかきながらフヅクエに戻る。水出しコーヒーをいくらか飲みつつ客席で仕事。ひきちゃんといくらか話したのちよろしく頼んで店を出、渋谷のカフェ着。それが3時ごろで7時半くらいまで仕事。集中していたのはうち2時間程度。でも何かがはかどったような気がする。これで前に進めるようなそんな気におぼろげながらなる。そうこうしているうちに手の先足の先にしびれを感じカフェを出る。ぼんやりとした不安を感じながら下北沢まで移動。このしびれはなんなのか。一日たいして食べていなかったことで空腹になっていてそれが手足に表現されているはずと考える。だから食べたら治るはずと考える。丸亀製麺に入る。そこでぶっかけうどんと揚げ物いくつかを注文し、席に着く。僕は丸亀製麺が好きで結局これがいちばんいいんじゃないかと考える立場にあったのだが、今日の丸亀製麺はいつになくおいしくなく感じる。麺は味気がなくだるだるで、揚げ物もしっとりとしてしまっているように感じる。気のせいかもしれないし、自分で掛けるだし醤油の量が少なかっただけかもしれない。その可能性は大いにあると思う。なんとなく不満を覚えながら食べながらひたすら野球の記事を読む。歓びみたいなものが薄い。食べ終わったところで机に置いてある「薬味の心得」という三角柱のインフォメーションを、両手を膝に置いた姿勢で読み始めた、そこにはこうあった、「生姜:ほどよい辛味と、絶妙の香りがアクセント」その文言を読みながら「ふむふむ」と思った瞬間に途方もない虚しさが訪れる。ただただ、悲しい。惨めだ。そういう心地になる。手足のしびれはまだ残っている。箸を持つ手がいささか不自由に感じる。それも手伝ってひたすら悲惨な心地がする。体の自由が奪われてどんどんふさぎ込んでいく自分の姿を想像する。それは人をまず心配させ、最初のうちは明るく振る舞われ、いずれ疲弊され諦められ放棄される、そういう様子が勝手に想像される。どんどん悲しくなった。丸亀製麺のせいかもしれない。そこにはあまりにも多くの、時間の、堆積が、あるように、思われる。それは僕を苛む。苛み続ける。逃れられない。逃れる理由もない。と思う。
それから下北沢に来たというか途中下車というか滞留した一番の理由であるトロワ・シャンブルにいく。コーヒーを頼む。コーヒーは作られており、それが手鍋で温められる。立っていたのは女性二人で、一人は最近働き始めた模様、もう一人はどっしりと構えてらっしゃる模様、その後者の女性を見てとても頼もしいし好ましいしフヅクエが迎えるとしたらこんな人がいいなと思った。とてもよいと思った。
それでウルフを開いた。まったく頭に入らない。手足のしびれは予期したように食後やはり軽くなっていくにもかかわらず、頭のモヤモヤは取れない。ふいに、ぞっとするような不安に包まれる、支配される。これはなんなんだろうかと思う。人の吐露した不安に飲み込まれた、侵されたのかもしれないとも思った。易すぎる。人の吐露した不安を見、受け、それでこんなに簡単に不安に飲み込まれるのかと思ってあきれた。人から出たちょっとした不安の言葉が、僕を支配した。というのか。なんというか、この先何十年と働き続けなければならない、稼ぎ続けなければならない、なぜならば生き続けなければならないから、と考えたら途方もない気分になった。こういうことはいくらか前にこの場所でも書いたような気がした。それが、言葉のうえだけでなく強い恐ろしい圧迫する実感として突如こっちにせり出してきた、そういう格好だった。それで不安に押しつぶされそうになった。いやそれだけだったかどうか。それだけじゃなかった。
が、それも時間が解決した。すぐに、ウルフのほうに意識が寄っていった。それから流れている女性ボーカルのジャズ、ニーナ・シモン? 僕はそれくらいしか思えないから貧しい。ニーナ・シモンかな、という女性ボーカルの声が包んでくれて心地いい。そのあとはマイルス・デイヴィスにかわった。なんとかブルーだった。僕でもわかった。抑制されたホーンの展開がやっぱり格好良かった。それを聞いていて、座っていたカウンター席は一人で何かをしている人だけで、声はなく、とても心地がよかった。とそこに、若い女性二人が入ってきた。これで終わり、私に許された特別な時間はこれで終わり、これが結局、行き着く形なんだ、と思った。そのときはまだ解決していなかった。 これはいったいなんなんだ。もしかしたら下北沢という町にやられたのかもしれないと思った。知らんが。この町にはたくさんの夢を見る若者やもう若者とは呼べない人たちがいるのだろう、知らんが。彼らは夢を見て、かなわなくて、あるいはかなって、そこにはたくさんのたくさんの絶望や苦悩や眠れない夜や、泥酔して嘔吐する電柱や、傷をこすり合わせるような暗いやけっぱちのセックスや、があり、知らんが、そういうことを考えていたら勝手に傷ついた、追い詰められていったのかもしれなかった。あまりにステレオタイプな考えだ、ステレオタイプかどうかもわからない、ただの偏見かもしれない、そういうものに勝手に飲み込まれた。ようだった。
でも終わりではなかった、女性二人が入っても環境の心地よさは変わらなかった、彼女たちの話し声はここまでは意味をもっては届かなかった。僕は煙草を吸いながらウルフを読み進めていた。ウルフでいいのだろうかと思った。今はけっきょく自死する人間の日記を読んでいるときなのだろうか、そう思った。そう思いながら読み進めていたら先ほどまでの不安は消えた。どこかに雲散した。こういうのは本当に痛みみたいなものというか物理的な傷みたいなものだなと思った。強く意識にせり出したのち、あることも忘れるような、そういうたぐいのものだった、と感じた。
9時半近くになって残り数ページを読んだら移動しようと考え始めてからはひたすら文字は意識から消えてしまい、シナモントーストのことを考えていた。フヅクエで出すとしたらいくらなのか、出す理由があるのか、そういうことを考えていたらウルフの日記はするすると滑りながら進んでいった。彼女も悩んでいる、俺も悩んでいる、俺は今、酔っ払っている。
新代田に移動してそれからいくらか酒を飲して愉快で酔っ払ってそれから帰ってきた、のびのびと飲んでいた、今は泣きそうな気分だ。どう生きたらいいのかわからない。傍点を振りたい。どう生きたらいいのかわからない。これに尽きる、そういう夜があるのは、こういう夜があるのは、しかたがない。今は酔っ払った指で、おかしな姿勢で、これをただタイピングするだけだ。やっと1時だ。これからたくさん眠ったらいい。太陽が私を起こしてくれるだろうか。その実績はない。
##7月12日 目を覚ますと気分が悪かった。胸が気持ち悪かった。熱を測ると平熱だった。店で朝ごはんを食べたらだいたい治った。たぶん空腹によるものだった。それにしても変な体だった。
開店から仕込みといつになくコンスタントなお客さんでバタバタして、2時過ぎて平穏がおとずれた。だいたいやることは終わったかのように見えた。
##7月13日 昨日今日とパソコンご使用わりとできなくなります告知というかその変更のことをわりとしていた気がして昨日も今日もパソコンご使用の方がほぼおられんかったのでよかったというか、これでぎょうさんみなさんパソコンだったら「うわーどうしようこれ……」となっていたに違いないから、そういう意味で、精神的に、よかった。
説明書きの新しいやつを印刷し、ホチキス留めし、製本テープでまとめ、差し替え、それから外の扉の横の注意書きを新しいやつを印刷し、木のやつに貼り、それを壁に3Mの強力な両面テープで貼り、それから告知のブログを更新し、シェアした。めちゃくちゃに暇だったので閉店後にする予定だったそれらを全部できた。なぜなら8時半以降誰もこの店にはいなかったから。
更新とシェアのあいだに何人かのよく来てくださり、パソコンで何かをされる、かつ連絡先とかを知っている、という人にメールというかメッセージというかを送り、こうします、ごめんなさい、というお知らせをした。するとどの方もあたたかいご理解のある返信をくださり、なんというか少し泣きそうになったりした。なんだろうか、やっぱりその、この変更は、多くの方にとっては関係ないあるいはよくなることではあるけれど、これまで来てくれていた人のいくらかを切り落とすような変更であることは間違いないから、ためらいみたいなものがすごくあった。だからなんというか、よかったというのも変だけれども、というかありがたかった。
夜はウルフを。50歳になった。あと9年でウルフは死ぬ。本自体も半分を過ぎて、なんとなく終わりのしるしのようなものをそこかしこに見てしまう気もするがたぶん気にし過ぎで「死にたい」くらい僕たちだって何百回と言っているけれど死んでいない。僕たちとは誰だろうか。僕はそんなに「死にたい」とは思ったことがなかった。ともあれ今、9年前の彼女から漏れる「死」という言葉は9年後の死とは関わりがない。そう思うことにした方がいい。
それはそれとして、本としての終わりが見えてきてしまったことが僕をいささか鼻白ませているというか、終わるんだよな、しかも死んで終わるんだよな、圧倒的に終わるんだよな、と思うといくらかむなしい。終わらない日記がいい。それなら書籍になっていないほうがいいのではないか。ブログであるとか。でも僕は本で読みたい。モードの問題でしかなかろうが。
言い忘れたけど、私たちの半年分の会計をしたとき、私は去年3,020ポンドをかせいだことがわかった——これは公務員の給料に相当する。私は長い年月の間200ポンドで満足していたのでこれはおどろきである。でも、私のかせぎはひどく落ちるだろうと思う。『波』は2,000部以上は売れないだろう。私はあの本にべったりくっついてしまっているのだ。時どきは離れてしまう。でも書き進めて行くと、ふたたび、やっとのことで、烈しい方法で——まるでハリエニシダの茂みの中を突進するかのように——何か中心的なものに手が届いたと感じる。もしかすると私は今、何かを完全に率直に言えるのかもしれない。それも充分に。そして私の本の形をととのえようとして、たえず釣糸を垂れてみる必要はないのかもしれない。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記 』(p.216)
稼ぎ、評判、創作、そういうものがごっちゃになった——ここでは評判の話はしていないが——ウルフのこういう記述に触れていると何か中心的なものに手が届いたというか真性なもの——真性、オーセンティック。バカみたいな言葉だが——に手が届いたと感じる。
ウルフは執筆の日程みたいなものもよく書いていて、ここまで見えた、ということはあと三週間で終えられるだろう、つまり2月26日までに。そうしていったん評論の仕事をして、9月には出版できるはずだ、みたいに逆算することがこれまで何度もあったし、部数の予測も頻繁にしている。この三日間の売上は50部ずつになった、思っていたとおりたきぎは燃え尽きたのだ、みたいな。こういうことはウルフ夫妻がホガース・プレスという出版事業をやっていたことともちろん関係するというか直接的にそれだろうけれども、なんというのだろう、創作みたいなものの魔法ではなさみたいなものが、こういう地続きのごちゃ混ぜの記述によく出ているように思われて、そういうのはとても僕は健やかでセクシーなものに思われた。健やかでセクシー。
##7月14日 朝から悲しい知らせを受けた。とても悲しかったし人を悲しませてしまうということが生きているなかでいちばん悲しいことかもしれないと思った。痛みを与え、それは痛みとして跳ね返ってくる。今漱石のなにかを思い出した、血を見た以上はもう傷ついているみたいな、そういう何かだった、『それから』だったか、忘れた。今日も暑い日だったため電車に乗ったところたちまち赤い郵便筒が目についてその赤い色がたちまち頭のなかに飛び込んでくるくると回転し始めたし傘屋の看板に赤いこうもり傘を四つ重ねて高く吊るしてあって傘の色がまた頭に飛び込んでくるくると渦を巻いた、のだったか。知らんが。悲しさ。
今日も暇な金曜になった。これで三週連続だろうか。これまでは金土日が稼ぎ頭だったが、ここ二週は金土がダメで、明日がダメだったら三週連続で金土がダメということになる、それはおそろしい。じゃあ平日は調子がいいかというと昨日も激烈に暇だった。だんだんこの店はダメになっていっているのだろうか。そういうことを考えるといつだって不安しかない。気が塞ぐ。ウルフも調子が悪いみたいだ。
一年かそこらを、どうやって耐えられるか、と考えてしまう。考えてもみなさい、それでも人びとは生きている。彼らの顔のうしろに、どんなことが進行しているのか、想像もつかない。すべてのもののうわべが固い。私はただ叩かれるオルガンにすぎない。次々と叩かれる。昨日の花の展覧会で固い表情の、ぬり立てたたくさんの顔にぞっとした。この人生すべてのうつろな無意味さ。私自身のあたまの悪さと不決断への憎悪。何の理由もなく、前へ前へと進んで行く踏み車。リットンの死。カリントンの死。彼に話をしたいというあこがれ。それがみなもぎとられ、去って行ってしまった……女性。つまり職業に関する私の本。もう一つ小説を書こうか。自分に知的能力が欠けていることに対する軽蔑の念。ウェルズを読んでもわからない。……社交。衣服を買うこと。ロッドメルが破壊されている。宇宙の中のものごとがみなまちがっている、という恐怖の感じが夜中におこる。衣服を買うこと。ボンド・ストリートがきらいだ。衣服のためにお金を使うことがきらいだ。何よりも悪いことは、この落胆のどん底の不毛さ。そして私の眼は痛む。私の手はふるえる。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記 』(p.256)
夜になっても悲しみはなんというか持続していた。夜。戦うというか、そういう日は終わったかと思ったけれど続くことは自明だった。むしろ今までよりも多くの敵を作ることになるのかもしれない。というかきっとそうだ。この店。僕はその器ではないように思われた。僕にはできない店なのかもしれない。店が先に行き、僕はそれに追いつかない。『Number』の清原の特集を思い出していた。周辺人物たちの証言。そんなキャラではないんですよ。僕もそんなキャラではないんだよな。と思った。『Number』は新しいやつが「奪三振主義2017」という特集らしく買わなくてはいけない。もちろんさ。怖い。と思ったな。夜が。ではなくて。ずっと続くことが。なんだろう。弱っている。この人を置いて、私は次へ行かなくてはいけない。これは植本一子の『かなわない』にある一節だ。これを僕は何度も思い出している。僕は次へ行かなくてはいけない。もちろんさ。怖い。と思ったな。夜が。ではなくて。ずっと続くことが。なんだろう。弱っている。どの人を置いて、私は次へ行かなくてはいけないのか、そして次に行く場所とはどこなのか、このときの私はそれをまだ知らないでいた。